騎士見習いの恋  3/10 ページ

      

         V

 しかし、彼の期待に反して、マリーンとの夕食の時間は淡々としたものだった。
 現れたマリーンはも無言で席に着くと、ただ黙々と、運ばれてくる料理に少しずつ手をつけるだけで、まったく言葉を発せず、こちらをちらりとも見ようとしない。期待に胸踊らせていたリュシアンも、さすがにしだいに不安をつのらせた。
 昨日の口づけで、彼女が自分の気持ちに応えてくれたとばかり思っていたのだが、実際には、それは己の身勝手な思い込みにすぎなかったのだろうか。やはり、彼女はまだ怒っているのだろうか。もう前のようには笑いかけてはくれないのだろうか。
 様々な不安が次々に浮かび、また消える。食器の音だけがむなしく響く静かな食事は、妙に気が疲れるものだった。
 彼がもういいかげん何かを言おうと、そう決心しかかったとき、
 おもむろにマリーンが席を立った。
「マリーン。もういっちゃうの?」
「ええ。ごちそうさま。食後のお茶はいりませんから、片づけてちょうだい」
「かしこまりました、マリーン様」
 部屋から出てゆくマリーンを追うようにして、リュシアンも椅子から立ち上がった。
「マリーン。待ってよ。マリーン」
 夕闇に包まれた中庭をぐるりと囲む、長い屋敷の回廊の先に、マリーンの後ろ姿が見えた。
「マリーン」
 回廊の端で追いついて、その腕をつかむと、彼女は仕方なさそうに振り返った。
「どうしたのさ。いったい。食べているときも全然口もきかないし、僕の顔を見もしないでさ」
「なんでも……ないわ」
 まるで目を合わせることを恐れるように、彼女は視線を落とした。
「手を……離して」
「マリーン……後で部屋に行ってもいい?」
「……」
「ちゃんと話したいんだ。今朝のこととか。俺の気持ちとかを。ちゃんと……」
「……ダメよ」
「なんでさ。ねえ、マリーン」
 マリーンは黙って首を振った。
「俺……それでも、きっと行くからね」
 リュシアンが手を離すと、彼女は逃げるように歩きだした。
「もし……もし、部屋の扉の鍵が開いていたら。そのときは……」
 彼女の背中に向かって、少年はつぶやくように言った。
「そうしたら、俺……あなたを」
 マリーンの姿が回廊の向こうに消えても、彼はそこにじっと立ち尽くしていた。
「あなたを……」

 夜の三点鐘が鳴った。
 都市内では就寝の合図や、城門の閉鎖などに定められた、最後の夜の鐘である。
 その鐘の音が鳴り終えるとほとんど同時に、リュシアンはベッドから起き上がっていた。
 静かに自室の扉を開け、燭台を手に、暗い廊下へそろそろと滑り出る。侍女や下男たちはとうに眠ってしまったのだろう、辺りはしんと静まり返って、ひそとも音がしない。
 リュシアンは、燭台の火を頼りに廊下を歩きだした。
 夜を待つ間も、緊張と期待、そして不安が、心の中で激しく混ざり合い、まったく落ち着かなかった。
 マリーンは、自分を待っていてくれるだろうか。扉は開いているだろうか。考えることはただ、そればかりだった。
 彼女の部屋は二階の南側の端にある。何度か仕事で掃除に行ったり、部屋までお茶を運んだこともあった。
 高鳴る心臓を抑えながら、リュシアンは階段を下りていった。
 二階の廊下まで来ると、辺りはやはり静まっていて、人の気配はなかった。音を立てぬよう注意しながら、リュシアンはそろそろと歩きだした。
(マリーンは、僕を待っていてくれるだろうか?)
 一刻も早くそれを確かめたかったが、同時に恐ろしくもあった。
(もし、扉が閉まっていたら……)
 それは明確にマリーンの拒絶を表すものだ。
 つまり、今までのことは自分のひとり相撲であり、彼女と口づけを交わしたことも、ただ強引で身勝手な行為にすぎなかったことになる。もしそうなら、自分はもう、まともにマリーンの顔を見れないだろう。この屋敷で過ごす時間は、一変して、耐えがたい苦痛のようになるに違いない。
(マリーン。お願いだよ。俺は、本当にあなたを……)
 好きとか愛しているという響きは、なぜか少し違和感がある気がする。そうではなく、このもやもやとした言い表せない気持ちは、「求める」という言葉の方が合っていたかもしれない。
(そう。僕は、あなたが欲しい……)
 どうして、そうまでして彼女を求めるのか。自分自身でもよくは分からなかった。
 それに理由などはない。熱にうかされたような気持が、自分を突き動かしているのだ。ただしその中に、一片の罪悪感があることもまた、はっきりと感じながら。
(……)
 今もこうして、廊下の先の暗がりをじっと見つめていると、自分のしていることがとんでもないことのようにも思えてくる。
 こんな深夜にこっそりと、女性の部屋を訪れようとしている。こんな自分のことを知ったら、母はどう思うだろう。それにカルードはどう思うだろう。
 沸き起こる不安と罪悪感。それらを打ち消し、甘やかな期待に胸を焦がしながら、彼の心は、激しくざわめき立っていた。
 廊下の暗がりの先に扉が見えた。マリーンの部屋だ。
 少年は後ろを振り返った。誰もいないのを確かめるように。彼をとがめる母の顔も、伯爵夫人の叱責も……そこにないことを。
「よし……」
 何度も息を吸い込み、ゆっくりと扉に近づく。
 手が震えた。左手に持った燭台が、カタカタと音を立てる。
(ああ、どうしよう……)
 少年は、ここで引き返そうかとも考えた。そうすれば、なにも起こらない。このまま、また屋敷で楽しく過ごせるはずだ。
 だが……
(マリーン……)
 彼は扉の把手をつかんだ。
 勇気をふりしぼって、それを回す。
 カチリと小さな音をたて、扉が開いた。
「あ……」
 鍵はかかっていなかった。
 少年は安堵の息をついた。にわかに沸き起こる淡い期待とともに、彼は部屋の中へ足を踏み入れた。
 手にした蝋燭が、明かりの消された室内をうすく照らし出した。
「……マリーン」
 少年は、囁くように相手の名を呼んだ。だが返事はない。
 燭台をテーブルに置くと、彼は室内をぐるりと見渡した。
 マリーンの部屋は広かった。
 立派な天蓋つきのベッドや長持ち、それに読書好きの彼女らしく、難しそうな書物のつまった本棚や洋服入れなどが整然と置かれていて、彼のイメージする、けばけばしいような女性らしさはまるで感じられない。
 人の気配のしない室内を、リュシアンは確かめるように見回った。
 庭を見渡せる南側の出窓は、彼が庭園の見回りから戻ってくると、いつもそこからマリーンが手を振ってくれた場所だ。もちろん、今は誰もいない。念のため寝台も確かめてみたが、そこに彼女が横たわっているなどということもなかった。
 部屋はただ、しんとして静まり返っていた。
(どういうことなんだ……)
 リュシアンはにわかに失望を覚えた。
 確かに扉は開いていた。だが、それがなんだというのだろう。
 肝心の彼女の姿はなく、部屋はもぬけの殻だ。これでは、結局のところ、彼女の拒絶となんの変わりがあるのだろう。
 暗い室内を歩き回るうち、彼はいかに、自分のしていたことが馬鹿げたことだったかを考え始めた。
(そうだよな……)
(いきなり夜這いに行くなんて言って、逃げ出さない女性はいないよなあ)
 彼女にとって、自分はただ無理やりキスをしただけの、年下の騎士見習いでしかない。たかが屋敷に下男としてやってきた自分の言葉を、彼女が本気に受け取るわけがないではないか。
「ああ、あ……」
 ため息をつくと、彼はどすんと椅子に腰かけた。
「馬鹿だな……俺は」
 口もとに自嘲の笑みが浮かぶ。
(勝手な想像をして。マリーンがもし俺を受け入れてくれたら、なんて……あるわけないだろう。そんなこと)
 静まり返った部屋は、それへの無言の肯定のように思えた。
 自分の情けなさに、つい泣きたくなってくる。
(くそ……)
(もう、部屋に戻ろう……)
 明日からはまた仕事が待っている。
 騎士隊の稽古にしても、そろそろ本格的な実技が増えてくるだろう。そういえば、騎士隊同志の剣技大会ももうすぐあるらしい。
 まともな騎士になること。それが母親の望みであるし、自分自身もそうなりたいと思っている。偉大な騎士であったという父親のように、まだそれに追いつけないまでも、少しは強くなりたいと思う。
 自室に戻って朝を迎えたら、もう二度とマリーンの部屋を訪れることはないだろう。
(もうここを……この屋敷を出ようか……)
 こんなに情けない思いをして、これからも平然と屋敷にとどまることは、とても出来そうもない。それに、どうせあと二週間ほどで最初に決めた修行期間も終わるのだ。今出ていったとしても、ただそれが少し早まるだけのことだろう。カルードだってそう怒るまい。
(明日……伯爵夫人が戻ったら言ってみよう。それでだめなら、また逃げ出せばいいさ)
 燭台を手に、彼は部屋を出た。
 鍵の開いていた扉には、もうなんの意味もなかった。
 あとは自分のベッドに入って眠るだけだ。そう思うと、かえって気分が楽になったような気もする。
(なんだか、せいせいとしたな)
 暗い廊下を歩きながら、少年はうすら笑いを浮かべた。もうさっきまでの不安も、それに期待もない。
 階段を登り、自室に戻れば……なにも起こらず朝になる。
 それでいいのだ。それで、
 階段の手すりに置いた手に、ぽたりと涙が落ちた。
(馬鹿野郎……何を泣いているんだ。俺は)
 顔をくしゃくしゃにして、彼は無理やりに笑った。
(……情けないな。これくらいで)
 ぐいと涙をふき、また階段をのぼりはじめる。
 だが、すぐに足が止まった。
 階段の途中の暗がりで、ふと自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がしたのだ。
「……」
 聞き違いだろうか。少年は首をひねった。
 心はにわかにざわめいたままだ。
 ありえるはずのない期待がまた、少しだけ沸き起こってゆく。
 彼は辺りを見回した。
 どこにも、人影はない。
 だが……
 確かに聞こえたのだ。
 確かに……
 リュシアンは、もう一度ゆっくりと振り向いた。
 階段の下……震える手で、そちらに燭台を差し出す。
 と、暗がりを照らす明かりが、うっすらと人影を映し出した。
 そこで、もう一度声がした。
「リュシアン……なの?」
 今度ははっきりと聴こえた。
 そして、階段を上ってくる彼女の姿が。
 少年は目を凝らした。
「マリーン」
 震える声で、そうつぶやくのがやっとだった。
 これは、夢じゃない。
「リュシアン……」
 少しの驚きのこもった声……
 手にした燭台の火が、階段にたたずむ相手を照らしだしていた。
 ローブを羽織った彼女が、そこに立っていた。
「リュシアン。こんなところで……」
「あ……」
 だが、少年は反射的に横を向いた。胸の鼓動がまた早くなる。
「お、俺……」
 何を言えばいいのだろう。どう言えばいいのだろう。
 わけの分からない期待と不安に包まれて、ただ心が震える。
「私の部屋で待っていてくれたのではないの?」
 そのマリーンの言葉が、ふわりと彼を包みこんだ。
「え……」
 リュシアンは顔を上げた。
 夜着のローブを肩に引き寄せた彼女は、うすく頬を染め微笑んだ。
「あ……」
 とびつくようにして、彼はマリーンに抱きすがっていた。
「……ああ、マリーン!」
 無我夢中でその体を抱きしめる。
「マリーン。ああ……俺、俺……」
「リュシアン……」
 涙に濡れた少年の頬に、マリーンの指がそっと触れた。
「ああ、あなた……そんなに、そんなにわたしを、思ってくれていたの?」
「マリーン……ああ、マリーンだよ。俺が好きなのは。俺が欲しいのは……」
 二人は抱き合ったまま、互いの吐息と鼓動とを感じ合っていた。
「マリーン……ああ。本当に、マリーンだ」
「部屋にゆきましょう。リュシアン……」
 彼女はやさしく微笑んだ。
 重なり合うようにして、二人は夜の階段を静かに上っていった。

「ああ……リュシアン」
 少年の体が、ベッドの上で激しく跳ねた。
「マリーン、ああ……俺……」
「ん……リュシアン」
 吹き消された燭台の蝋燭……
 明かり取り窓からの月明かりが、室内をうっすらと映し出す。
「んっ……んん……あっ」
 荒い息づかいに、ときおり上がる喘ぎと、甘い囁き……
「いい……わ……、リュシアン……」
 少年が、反り返った女性の腰を抱きとめ、ややぎこちないが熱情的に、また自らの体を押し当ててゆく。
「マリーン……ああ。……すごい」
「あっ……あっ、あ、」
 しだいに早まってゆく息づかい。
 繰り返しの寝台のきしみは、二人の高まりを示すかのように。
「俺、もう……」
「きて。リュシア……あっ、来て……」
 一瞬びくりと少年の体が震え、彼はそのままマリーンの体の上に倒れこんだ。息をもらしながら見つめ合い、口づけを交わす。
 何度目かのキスの後、照れくささの混じった穏やかな面持ちで、二人は顔を見合わせていた。
「マリーン……俺、初めてでよく分からなかったけど」
「大丈夫よ。ちゃんと感じたから」
 彼女はくすりと笑って、リュシアンのまぶたにキスをした。
「そっか。よかった」
 ベッドに横たわり、彼は幸せそうに息をはいた。
「でもさ……ひどいよ。マリーン」
「なにが?」
「だってさ。さっきは、部屋にいないんだもの。俺、やっぱりダメかと思って、泣きそうになっちゃったよ」
「ふふ。ごめんね。ちょっとね……色々考えたくて。庭園に出ていたの」
「こんな夜中に?」
「ええ。でも、外から私の部屋に明かりが見えたから、すぐに戻ったのよ。そうしたら階段の上に君がいて」
「うん。俺も驚いた」
 二人は寝ころんだまま顔を見合せ、笑いあった。
「そういえば、確か初めて会ったときも、あの階段だったわね」
「うん。覚えていた?マリーン」
「ええ。後で聞いたら、君はあのとき屋敷から逃げ出そうとするところだったんですって?」
「違うよー。逃げ出すなんて」
 少年は頬を膨らませた。
「ただちょっと、あのおばさん……いや伯爵夫人が怖そうだったんで、それに仕事も面倒くさそうだったし」
「そうね。お母様は。本当に礼儀作法には厳しいわ」
 マリーンはくすりと笑った。
「君が毎日お母様に叱られるのを見ていると、私も昔はそうだったなあ、と思い出したりするもの」
「へえ。マリーンも昔は怒られたんだ?」
「ええ。小さいころはね、本当に泣いてばっかり。反対に弟のカルードの方はいつもしっかりしていて、お母様はカルードばっかりひいきしてるって、内心でふくれたものよ」
「ふうん。でもそれじゃ、やっぱりカルードって、子供のころから優等生だったんだねえ。俺とは大違いだ」
「そうねえ。あの子は君くらいの歳にはもう正騎士になっていたし、宮廷の晩餐会なんかでは、いっちょまえに立派な挨拶をしたりして、皆にかわいがられていたわね。今でもそうだけど、昔からしっかりしていた子だったわ」
「へええ。そうかあ。だから騎士隊の隊長にもなれたんだな。俺にはとてもマネできそうにないや」
 両手を頭の後ろに回し、リュシアンはため息をついた。
「あら、そんなことないわよ。君だって、これからちゃんと勉強して努力すれば」
「そうかなあ」
「カルードによく聞かされたけど、君のお父上はそれは立派な騎士だったんですってよ。私は一度くらいしかお会いしたことはないし、小さいころだったからよく覚えてはいないけど。カルードが騎士道とか騎士の誇りとかいう話をはじめると、いつも決まってロワール騎士伯……君の父上ね……のことが出てきて、あの方がいかに立派な騎士隊長だったか、見事なまでに騎士道を体現していたか、という話を延々と話すのよ。注いだお茶がぬるくなるまでね。だからわたしは、君のことはずっと知っていたのよ、リュシアン」
 マリーンは楽しそうに話した。
「いつもいつも稽古も不真面目で、よく喧嘩もするし問題の多い手の焼く見習いが一人いるってね」
「ひでえなあ。でもまあ、本当か」
「カルードは君のことを『自分の尊敬するロワール隊長の息子だから、自分がなにくれと気を配って、正しい騎士へ導いてやらねばならぬ』とかなんとか、いつも真面目そうに言うのだわ。私その話を聞くたびに、その子はどういう少年なのだろう、どんな感じの顔をして、どんなやんちゃなことをする少年なのだろう、っていつも想像していたものよ」
「こんな奴でがっかりした?」
「そうね」
 マリーンは笑った。
「でもまさか、年上の女性に夜這いをかけるとまでは、想像できなかったわね」
「こんなんで、ごめんよ」
 くすくすと笑い合い、二人はじゃれるように体を絡ませた。
「あ……リュシアン」
 再び唇を重ね、見つめ合う。
「マリーン……いい?」
「うん……いいわ。きて。リュシアン……」
 差し出された手を、少年は握りしめた。
 甘やかな囁きと口づけ……二人の夜がまた始まってゆく。

 翌朝、久しぶりにマリーンを馬車に乗せて、リュシアンはうきうきと手綱を取っていた。
「プルヌスの花も、もうそろそろおしまいね」
 風に吹かれて散りはじめたプルヌスの花びらが、馬車の二人の上にひらひらと舞い落ちる。それを手のひらにすくうマリーンの横顔を、少年はうっとりと見つめていた。
 彼にとっては、世界は昨夜から始まったのだった。
 生まれて初めて女性を……それもずっと思い焦がれていた女性を抱いたのだ。空の色も、太陽も、今朝目覚めたときから、リュシアンにはまったく新しいものに見えた。昨日の夜の甘やかな時間……あのときのマリーンの声や息づかいを思い出すだけで、また熱い思いが込み上げてくる。
 ちらりと横を見ると、マリーンはにこりと笑いかけてくれる。長い黒髪をリボンでたばね、ペールのダマスク織のコットに女性用のマントを羽織った彼女は、いかにも美しかった。
「ねえ。もういいでしょ。そろそろ教えてくれても」
「そうね……いいわ。そのかわり、お母様には絶対に秘密よ?」
「ああ、もちろんさ」
 少年は請け合った。大きな鞄を持って、マリーンがいつも一体どこへ行くのか、彼はずっと知りたかったのだ。
「大学よ」
 意外な答えに、リュシアンは思わず聞き返した。
「大学?じゃマリーンはそこで勉強してるの?」
「ええ。でもわたしは女だから、正規には入れてもらえないでしょ。だから、こうして週に二三度くらい行って、講義を聞かせてもらっているのだけど」
「へええ……」
 心底驚いて、リュシアンは彼女を見つめた。
 大学といえば、あまり裕福でなく、将来爵位も騎士の位ももらえない人達が、法学や医学を学びに行くところだと聞かされている。マリーンのような由緒ある伯爵家の、しかも若い女性が大学で勉強するなどという話は、聞いたこともなかった。
「そんなに勉強して、マリーンはどうするの?」
「うん、そうねえ……どうするってこともないんだけど。ただ色々と興味があるから。それに面白いわよ。自分の知らないことを学ぶというのは」
「ふうん。ああ、でもそういやカルードも、十六の頃から大学に行ったって聞いたっけ」
 プルヌスの並木道を抜けると、いつも来る大きな通りに出る。少しゆくと左手に見えてくる煉瓦造りの古い立派な建物は、それでは大学の校舎だったのかと、リュシアンは納得した。
「マリーンは何を勉強しているの?」
「さすがに女性だから、法学と医学はやらせてもらえないけど。自由七課のうちのトリヴィウムの三課……文法、修辞学、論理学ね。あと、他の四課のうち、音楽とか天文学なんかの講義もときどき覗いたりするわね」
「へええ。すごいなあ。俺なんか、大学なんて行ったことも見たこともないのに」
 リュシアンは感心して言った。
「そうね。あなたの年頃なら、もう大学へいってもおかしくない歳よ。だいたい講義に出てくるのは下は十五歳くらい上は二十五歳くらいまでの人達だから」
「ふーん、そうなんだ。大学かあ。マリーンが行ってるんなら、俺も行こうかな」
「いいと思うけど。でも、君には騎士団の方もあるし、それと正式に入学するには、少しお金がかかるわね。それに、なにより君は、まずはちゃんとした騎士になることが先決かもね。大学はそれからでも遅くないわ」
「つまんないの。マリーンとこうして二人でいられるのは、朝と、夫人が出掛けている日の夜だけだもんな……」
 リュシアンは口を尖らせた。マリーンは仕方なさそうに微笑み、彼の頬にキスをした。
「これでもつまらない?」
「マリーン……」
 少年はじっとマリーンを見た。
「うん……まだつまんない」
 いたずらそうに言うと、リュシアンは木々の間に馬車を止めた。
 座席ごしに顔を寄せると、マリーンはふっと笑ったが、そのまま唇を合わせてきた。
「ん……」
 二人は馬車の上で唇を重ね合った。
「マリーン……」
「ん……もう、おしまい」
 求めようとする少年の胸を軽く押しやり、マリーンは鞄を手にして馬車を降りた。
「じゃあね」
 片目をつぶって手を振り、足早に歩いてゆく彼女の姿を、リュシアンはぼうっと見つめながら、
「マリーン……。もう……僕のものだよね」
 そうつぶやいた。

「気持ち悪いな」
 フィッツウースに奇妙な目つきでそう言われても、彼は怒るでもなく、太陽のような笑顔で友人を振り返った。
「なにが?」
「お前が、だよ。お前。今日はなんか、ずっとにやにやしてるぜ。何かあったのか?」
「んー。まあ、な」
 騎士団の稽古場で、いつものように並んで素振りを始める騎士たちの中で、珍しく真面目に木剣を振っているリュシアンを、ずっと不審そうに見ていたのは悪友のフィッツウースである。
「普段は稽古なんて面倒でいやだって顔で、あくびをしてはカルードに怒られるお前がさ。そうして嬉しそうに剣を振るなんざ、普通じゃないよな。どう考えても」
「そうかなあ」
「そうかなあ、じゃねえよ。てめえっ、この……」
 リュシアンを小突くついでに、フィツウースはその耳に囁いた。
(何があったんだよ?教えろよ)
「んー、いや。その……な」
 照れたようなリュシアンを見て、彼はぽんと手を叩いた。
「ははあ。そうか……。てめえ、ついにやったか。そうだな?そうなんだろ」
「なんのことかな?」
「ふざけんなよ。お前。やったんだろ?この前言っていた女と」
「そこっ。うるさいぞ。女の話は稽古の後にしろ!」
 これもいつものように、隊長のカルードがこちらを睨んだ。フィッツウースは身を縮めて、いったん剣を振るふりを見せつつ、頃合いを見てまた囁きかけた。
(なあ。本当か?お前もついに……)
「ああ。やった」
 自慢したい気持を抑えきれずず、リュシアンはうなずいた。
「そうか、ついにやったか。で、どうだった……なんて、聞くまでもないか、その顔を見れば」
「うん」
 だらしなく笑みの漏れる口許をなんとか引き締めると、リュシアンはうっとりと言った。
「なんていうか、その、女の人の体って、あったかい……」
「けっ。なに浸ってるんだよ。ったく。そんなに良かったのか?」
「うん。初めてでさ、よくやり方が分からなかったんだけど、なんかやさしく誘導してくれてさ」
「なにい?てことは、相手は経験済か?」
「そう、なるのかな?よくわかんないけど」
「痛がらなかったのかよ。その女は」
「うーん。そうだな……今思えば」
 リュシアンは首をひねった。マリーンがすでに誰かとああいうことを経験していたのか、などということは考えもしなかった。
「やっぱり……年上だと、普通はもうみんなやっちゃってるもんなのかなあ?」
「年上だって?いくつなんだよ、相手の女は。カルードの屋敷の侍女なんだろう?そいつ」
「あ、ああ、まあ……な」
 まさか、相手がそのカルードの姉上だとまではとても言えず、リュシアンは適当にごまかした。
「えーと……そう、十八か九っていってたかな……たしか」
 ちなみに、マリーンは二十三歳であった。
「なるほど。お前より三つくらい上か。そりゃ微妙な年齢だよな」
「そ、そうなのか?」
「うむ。十五、六の娘ならいざ知らず、その歳になれば、たいていは恋人の一人や二人いた過去があっても不思議ではなかろう。まあ、いいとこのお嬢さんならともかく、侍女なんだろう?屋敷の下男とか、主とか、屋敷の息子とかにすでにやられているという可能性も……まてよ、その屋敷はカルードのおっ母さんの屋敷だろ?てことは、カルードもその侍女とは面識があるわけだな。ううむ……もしかすると、カルードの奴は、その屋敷に滞在したとき、つい魔が差して、その娘を犯しちまったということも決してないとは……」
「まさかあ……」
 リュシアンは笑った。
「いや、わからんぞ。カルードだって男だ。普段は真面目そうに騎士隊長の仮面をかぶり、俺たちをえらそうに指導しているが、その実どえらいスケベの女好きで、侍女とねんごろになるなんてことはもしかしたら日常茶飯事なのかも……」
 ぶつぶつとつぶやいていたフィッツウースが、ふと顔を上げると、
「俺がどうしたって?」
 目の前に、当のカルードが立っていた。睨むようにこちらを見下ろし、そのつり上がった眉はぴくぴくと動いている。リュシアンはすかさず勤勉そうに剣を振りはじめた。
「あっ、裏切り者。リュシアン……てめえ」
「フィッツウース!」
 騎士隊長の一喝が広場に響きわたった。
「そんなに素振りが嫌なら。練馬場を十周走ってこい」
「そんな……。いや、俺、ほんとは素振りが大好きで」
「嘘をつけ」
「いえ……ついあまりに好きなんで、その……隊長のことを考えて、どうすれば見事な素振りが出来るかの考察を……」
 自分の言い訳の苦しさに気づいたのか、フィッツウースはがっくりと頭をたれた。
「……走ってきます」
 走り出したフィッツースから目を離すと、カルードはリュシアンの方を振り返った。慌てて剣を振り続けるリュシアンを無言で見つめ、騎士隊長はようやく離れていった。
(ふう……危なかった)
 リュシアンはほっと息をついた。
 もし、自分とマリーンのことがカルードに知られてしまったら、大変なことになる。彼は騎士団の隊長であり、マリーンの弟でもあるのだ。
(そうだよな。もしバレたら、ただじゃすまないだろうなあ……)
 息を切らして練馬場を走る親友の姿に目をやりながら、彼はこの恋の困難さについて、ようやく理解しはじめたのだった。

 その日の夕食後、リュシアンはマリーンの部屋を訪れた。
「あら、リュシアン。なあに」
「あの……ちょっと入っていい?」
 マリーンは読みかけの本を閉じ、微笑んで彼を迎え入れた。
 部屋に入ったリュシアンは、思わずちらりと寝台の方を見た。とたんに昨夜のことが思い出されて、顔を赤くする。
「……」
「どうしたの?」
 マリーンは、薄い絹地の部屋着を羽織り、髪を無造作に後ろに束ねただけの姿だったが、それでも充分に、彼をどきどきさせるくらいに綺麗だった。
 向かい合って座ると、リュシアンはおずおずときりだした。
「……あの、さ」
「うん?」
「あの……」
 稽古のときにフィッツに言われたことを思い出しながら、リュシアンはちらりとマリーンの顔を見た。
(確かに、マリーンは初めてじゃなさそうだった…)
 かつては恋人がいたのだろうか。それでは、今ではどうなんだろう?
(誰かいてもおかしくないもんな。マリーンは二十三歳……それにこんなに綺麗なんだし)
 前にも増して、最近ではマリーンが本当に眩しく見えるときがある。その宝石のような緑がかった瞳と長い睫毛、サンゴのような唇となまめいた舌の色、そばに座るとふっと香る、花のような香水の香り。こうしていても、コットの胸元から覗く、そのふくよかな胸元をちらりと見るだけで、どきどきと心臓は高鳴り、その体を抱きしめ、口づけをすることを想像してしまう。
 マリーンの声、マリーンの匂い、そのしぐさ、指先の一つ一つの動きまでもが、たまらなく愛しい。そして、それらを自分だけのものにしたい。そう思わずにはいられない。
 たった一度、体を合わせてからというもの、彼にとってマリーンの存在は、そのものすべてが熱情をかきたてずにはおけない、ただひとつの対象なのだった。
 だから、もし自分以外の男がマリーンの体に触れたり、彼女を抱いたりすることがあるとしたら、きっとその相手を許せなくなるだろう。たとえ過去であっても、マリーンを抱いた男というだけで、自分はその相手を憎んでしまうに違いない。
 リュシアンはとても訊きたかった。あなたには恋人がいるのかを。
 ……そして
(僕を……あなたは僕を、どう思っているのか)
 自分を恋人のように思ってくれているのか。それとも、違うのか。
「マリーンは、その……」
「なあに?リュシアン」
 せめて、恋人がいるのかどうかは訊き出したかったが、それすらも、なかなか口に出せない。
「マリーンは……」
 リュシアンは勇気を出して口にした。
「マリーンは、僕のこと……好き?」
 それが限界だった。彼は思わず赤くなって、下を向いた。
「なあに?いまさら……」
 マリーンはやや驚いた顔をしたが、くすりと笑うと、リュシアンの額にそっと唇を当てた。
「……私、嫌いな人にこんなことできないわよ」
「うん……」
 今はこれだけでも充分だった。
「僕も……大好きだよ。マリーン」
 二人はもう一度唇を合わせると、どちらからともなくベッドへいざなった。

 リュシアンは毎日のようにマリーンの体を求め続けた。
 二人にとっては、朝の見回りを終えたリュシアンが屋敷に戻るまでの間と、週に三度ほどの馬車での送り迎えのときだけが、貴重な逢瀬の時間になった。
 マリーンは花壇の水やりをしながら、仕事に向かうリュシアンと玄関前で視線を交わす。それから彼女は誰にも気づかれぬよう、屋敷に戻るふりをして庭園の奥へと向かう。何度目かの逢瀬で待ち合わせに定められた、木立の奥まった場所にあるプラタナスの大木の前で、二人は激しく抱き合った。
 マリーンを馬車に乗せて大学へ送ってゆくときも、少し道を外れて寄り道することが頻繁だった。もう御者席のない簡易馬車は使わなかった。天蓋のついた囲い座席の中型馬車なら、カーテンを閉めてしまえば外からは座席の中は見られない。
 プルヌスの並木道を横にそれ、木々の間に慎重に馬車を止めると、リュシアンは御者席を降り、マリーンのいる座席の扉を開ける。扉を閉めるのももどかしく、マリーンを座席に押し倒し、彼はその唇を激しく吸った。服が乱れるのを恐れるように、かすかに抵抗するマリーンも、何度目かの口づけでうっとりと目を閉じる。ペティコートの奥に入ってくる少年の手に、その体をびくりと震わせて。
 熱に浮かされたような少年の愛撫の手に、彼女はぎゅっと相手を抱き寄せる。口づけは激しく、お互いにの唇を吸い合い、舌を貪り、荒い息と喘ぎとがせわしなく交換される。
 少年は、果てることを知らない若さで、彼女の体をつらぬき続けた。すべてを受け入れられた喜びに、うち震えながら。
「リュシアン……、もう……もう、行かないと……私」
 座席で起き上がりかけたマリーンを、少年はもう一度たぐりよせた。その体を引き寄せ、また口づけをする。胴着に手をさし入れ……ぴくんと体を震わす彼女の上に、再び覆いかぶさってゆく。
「マリーン……」
「ダメ……だってば。もう、そんなにしたらまた……あっ、ペティコードがずれちゃう……」
「マリーン……。好きだよ。マリーン」
 熱く囁きながら体を重ねてくる少年を、彼女はついこらえきれぬようにまた抱きしめる。
「あ……ああ。また……ん、ダメ……」
「いい?」
「あ……リュシ……アン、欲し……」
「マリーン。いいの?……また」
「うん……来て。今度は……このままで」
 座席に体を起こし、彼女は少年の肩をつかみ、それを受け入れる。
「ん……は……。いい……あっ」
「マリーン……マリーン!」
「あっ……ああ」
 高まりは、やがて絶頂へと登りつめる。窓のカーテンの隙間から、花の残ったプルヌスの枝が見えた。うす紅色の花びらが、二人のいる馬車の屋根に、ひらひらと舞落ちてゆく。

 マリーンへの思いは日増しに深まるばかりだった。
 それだけに、この屋敷の滞在期間が日一日と少なくなってゆくことが、リュシアンにとっては無性に苦しく感じた。
 花に水をやる彼女と、朝の挨拶をするひととき。一番綺麗なマリーンを見られる瞬間だ。時には密かな囁きを交わして微笑み合い、そして、プラタナスの木の前での待ち合わせ……
 相手の顔が木々のあいだから見えた時の、心がはやるような喜び。駆け寄っていって抱きしめ、口づけをする。指に絡まるマリーンの黒髪、やわらかな唇の感触……
 揺れる馬車での二人きりのドライブの時間。プルヌスの並木道を駆け抜け、舞落ちる花びらを頭上に見ながらの抱擁……
 それらすべてが、あとたった十日で終わってしまうのだ。
 あと五日で、あと……
 一日ごとに日が過ぎるにつれ、言いようのない焦燥がつのる。
 そうであってもなお、激しく抱き合い、体を重ね、唇をむさぼらずにはいられない。まるで、この屋敷で残された時間を味わいつくそうとするかのように。
 いっそのこと、マリーンとどこかへ逃げ出したいとさえ、彼は考えた。そうだ、二人だけで……
 しかし、甘い想像の次に頭に浮かぶのは、決まって母親の顔……そして、カルードやレスダー伯夫人の顔だった。マリーンは八つも年上の名家の伯爵令嬢であり、ほかならぬ自分は、たった十五歳の騎士見習いにすぎないのだ。誰がみても、それは許される関係ではない。そのことを思うと、彼は悄然として、ただうなだれるより他になかった。
 そうして、数日があっという間に過ぎてゆく。
 マリーンと口づけをし、熱情にまかせて彼女を腕に抱くその度に、屋敷を出る時間が近づいてゆく。
 さらに数日後、母親のクレアから手紙があった。
 そこには、いつものように、こちらの近況を確かめる言葉と、レスダー伯夫人とカルードへの感謝の言葉が書かれ、手紙の最後は、あと少しの期間だけれど、しっかりと修行をするように、と締めくくられていた。
 羊皮紙を放り投げると、彼はごろりとベッドに横たわった。
 本当に、もうすぐここを出ていかなくてはならないのか、マリーンと別れなくてはならないのか、そのことがまだ、彼にはいっこうに信じられなかった。
「でも……しかたないでしょう」
 マリーンのその言葉に、少年はむっとなった。
 屋敷での滞在期間が終わる三日前の晩、久しぶりに夫人の外出があって、彼女の部屋を訪れたのだ。
「仕方ないって?」
 ベッドの上で上体を起こし、不満そうにリュシアンは言った。
「だってさ……だって。そんなの……」
 たったいま、あれだけ激しく求め合い、今だってこうして、ひとつベッドで寄り添っているというのに。マリーンの気持ちが確かめられていないような、そんな不安な気持ちにとらわれる。
「いやだよ。このまま……別れるなんて」
 黙ったままの彼女を、少年はじっと見つめた。
「マリーンは平気なの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「だったら、どうしてそんなに平然としていられるの?もうすぐ僕ら、離ればなれになっちゃうんだよ?」
 リュシアンの目から涙がこぼれた。
「リュシアン……」
「マリーンはいつだって大人だよ。そりゃ八つも年上だもの。俺なんて、あなたから見ればただのガキだろうさ。いつもわがままを言うのは僕の方だし、あなたを抱くとき、いつも先に服を脱ぎ捨ててはしゃいでいるのも僕の方さ。いつだって。……でも、しょうがないじゃないか。好きなんだもの!マリーンが」
「リュシアン……」
 マリーンは困ったように微笑み、少年の背にそっと手を触れた。
「リュシアン、ありがとう。……でもね」
 彼女の声はむしろ静かだった。
「君は、今修行中の身よ。騎士の稽古も、それに学問も。これからが大変な時なのよ。君のお母様の望むような、立派な騎士になるために。だからね……、だから……君は行かなくては。お父様が亡くなってから、ずっとお母様と二人だったのでしょう?これからはお母様を守って、家を継いでゆくことが君の役目なのだから」
「なんでさ……」
 顔を上げた少年の目は、ひどく奇妙なものでも見るように、見開かれていた。
「なんで、そんなことを……。そんなカルードみたいなことを言うのさ」
「ごめんなさいリュシアン……でもね」
「マリーンは……」
 少年はぐいと涙をこすり、唇を噛んだ。
「マリーンは、僕のことなんてどうでもいいんだな。ただの……これはただの遊びで、マリーンにとっては僕とのことは、いずれは終わることが分かっていた気楽な遊びだったのか」
「ちがうわ。……そうじゃない」
「じゃあ、なんなんだよ?」
「……」
 二人の間に、互いの距離を思い知るような、そんな沈黙が訪れた。
(何か言ってよ。マリーン……)
(マリーン!)
 重くのしかかる無言の時間に、リュシアンは耐えられなくなった。
 そのとき、夜の三点鐘が窓の外から聞こえてきた。
 ゴーン、ゴーン
 宮廷と、都市の市壁が閉じられる、一日の終わりの時間……
 普段なら聞き流すだけのいつもの鐘の音も、今はひどく重たく、耳に痛く響くように、彼には感じられた。
 鐘の音の余韻が消えかかるころ、静かにマリーンが口をひらいた。
「もうすぐ……侍女が燭台を消しにくるわ」
「……マリーン?」
 少年はおそるおそる顔を上げ、相手を見た。
「君との時間は、これで終わりにしましょう」
 彼女は目をそらしたまま、そうはっきりと言った。
「マリーン!」
 誰かに聞かれることも忘れ、リュシアンは声を上げた
「どうしてさ?どうして……」
「しかたないわ」
「だって……。そんなのって、そんなの……」
 少年は何度も首を振り、すがるような目でマリーンを見た。
「……じゃあさ、下男の仕事が終わってこの屋敷を出ても、外で会えばいいじゃない。そうだよ。べつにここで会えなくもさ。どこかの庭園で待ち合わせたりして……ときどきでもいいからさ」
「だめよ……」
 マリーンは困ったように首を振った。
「だって……君はまだ十五才の、騎士見習いだわ。これからいろいろな修行をして、立派な騎士にならなくてはいけないのよ。大切な……とても大切な時期だわ。私なんかがそれを邪魔しては……君と君のお母様、それに亡くなった立派な騎士だった君のお父様にも、申し訳がたたないわ。それに、カルードにだって……」
「カルード?なんでカルードが出てくるのさ」
「カルードは、君の騎士隊長で、いわば師匠でしょう?この屋敷に働きに来ることになったのもカルードの提案なのだから。騎士として、彼も責任を感じるはずよ。君の将来に」
「将来?そんなもの。糞食らえだ!」
 リュシアンはかすれる声で叫んだ。
「そんなもの。騎士なんかも、みんなやめてやる……」
「リュシアン」
 マリーンの声は静かだったが、そこには毅然とした強さがあった。
 少年ははっとなった。
 彼に向けられた目は、抱き合うときに見せる熱情と陶酔に満ちた恋人のものではない。それは強い理性と、彼に対する性愛以外の愛情……年長者として相手に向かう時のまなざしだった。
 それは、母親に咎められる時のような、後ろめたいような苦い気持ちを思い出させた。
「駄々をこねないで。子供みたいに……。お願いだから」
「マリーン……」
 少年の目にまた涙が浮かんだ。
 マリーンは今度は目をそらさなかった。そして言った。
 最後のひとことを。
「日常に戻りなさい。楽しかったけど……ひとときのプルヌスの花の夢は、おしまいよ」



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