騎士見習いの恋  2/10 ページ

      

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 その翌朝、朝食を終えるとカルードは屋敷を去っていった。
 帰り際に、母である夫人にくれぐれもよろしくと頼むと、もうこの家にはなるたけいたくないとばかりに、彼は少年を残してさっさと騎士団の宿舎へと戻ったのである。朝早くからたたき起こされたリュシアンは、眠い目をこすりながらカルードを見送った。
「ふああ、……あ」
 大きなあくびをすると、まだ涼しい朝の空気にぶるっと体をふるわせ、再びベッドにもぐり込む。しかし、すこしもたたぬうちに侍女が部屋にやってきて、頭から毛布をかぶったリュシアンの姿を呆れたように見下ろした。
「もう朝の三点鐘ですよ。リュシアンさま……あ、もう呼び捨てでいいのでしたっけ」
 侍女に揺り動かされて、リュシアンは仕方なく起き上がった。
「さあ、顔を洗い、着替えてくださいな。今日からあなたは下男のお仕事をなさるのでしょう?」
「ん?……ああ」
 寝起きの仏頂面でしばらくぼんやりとしていたが、彼はようやく目の前に立っている侍女と執事に気づいた。
「ええと。ここ……どこだっけ?」
「まあ。まだ寝ぼけておられる。ここはレスダー伯夫人のお屋敷ですよ。そして、あなたは昨日からここにお住まいになられた。これから下男として働くのでしょう。早く起きてください。でないと奥様がお怒りになります」
「奥様……」
 ぼうっとした頭の中で、昨日のことが徐々に形をともなってくる。
「ああ、そうか」
「ほらリュシアンさん。まずはこの服に着替えて。お食事はとっくにかたずけられてしまいましたよ。仕方ないのでパンを一つだけもってきました。これを食べて。それから定められたお仕事に取りかかってもらいます。奥様のいいつけですから」
 押しつけられるように渡された服を見下ろし、彼はこくんとうなずいた。それにやっと安心したのか、侍女は部屋を出ていった。
「仕事か……。面倒くさいなあ」
(これから毎日こうして起こされるのか。それに毎日あの怖いおばさんに睨まれて、怒られたりするのかなあ。やだなあ)
 昨夜の夕食のときもそうだった。豪勢な料理を前に思わずよだれをたらした彼に、夫人はさっそく眉をつり上げた。そしてその後は、食事の間中、徹底的にその不作法を咎められ、スプーンの持ち方から飲み物の飲み方まで、徹底的に注意され続けたのだった。
 その厳しさ、指導の細かさときたら、彼の人生において経験したことのないほどの執拗さで、彼は物を食べているのだか食べていないのだかも忘れ、よく味も分からぬまますっかり疲れ果ててしまった。これからは夕食の度に、あんな目に会うのかと思うと泣きたくなってくる。
(でも……マリーンさんは綺麗だったなあ。やっぱり)
 夕食の席で見たマリーンは、昼間会ったときとはまったく印象が違っていた。品のいい胴着に黒髪をリボンで留め、うっすらと紅をさした唇でにこりと笑った彼女は、まるで宮廷の姫君のようだった。
 食事の前、あらためて夫人の口からマリーンを紹介されたときのこと。丁寧な挨拶のあと、ひそかに彼女はこちらを見て片目を閉じ、舌を小さく出して見せた。そのときの唇の色が、しばらくは頭から離れなかった。
 彼女もカルードも、夫人の前ではまるで別人のように、いたって礼儀正しく、作法もいちいち丁寧だった。そんな二人の様子に満足していたように、夫人はリュシアンに注意するとき以外はとても穏やかだった。食事が済んだあと、マリーンは自分の方にそっと寄ってきて、耳元に囁きかけた。
(大丈夫よ。すぐに慣れるから)
 その彼女の言葉で、リュシアンはここで頑張ってみようと決心したのだった。早起きはつらいし、面倒な仕事をするのは嫌だったが、これから毎日彼女の顔を見れるのだと思うと、この屋敷での生活もそう悪くはないかなと思えてくる。
 仕事用の服に着替え、水桶で顔を洗うと、すっきりと気持ち良かった。こんなに朝早く起たのはいつ以来だったろう。
 執事に伴われて中庭に出ると、植木に水をやっていたマリーンが声をかけてきた。
「おはよう。よく眠れた?」
「う、うん……」
 朝の光の中で初めて見る彼女は、格別に綺麗だった。リボンで縛った黒髪は陽光に照らされてつやつやと輝き、適度にふっくらとした頬には笑うと小さなえくぼができる。
「ふうん……。なかなか似合うじゃない。その恰好も」
 お仕着せの緑色のチュニックを着たリュシアンを、マリーンはまじまじと眺めた。
「マリーンさんは、植え込みに水をやっていたの?」
「ええ。私好きなのよ。花が。だからこればっかりは侍女にやらせずに、早起きして自分でやっているの」
「ふーん」
「ほら、見て。ベリスの花よ。きれいでしょう?」
 彼女は楽しそうに花の名を説明しはじめた。
「あっちのがバーベナ、赤いのがアルメリア、それから紫色のがムスカリ……香水にもなる花よ。向こう側にはリリウムやビオラの花壇もあって、あれはお母様のお花なの。もうひと月もたてば、リナムやビンカなんかも咲き始めるわね」
「へえ、詳しいんだね」
「まあね。こうして朝の花たちを見るのが大好きなのよ。でも。昨日みたいに寝坊したときはできないのだけどね」
 水壺を手にして微笑むマリーン。リュシアンもつられて笑顔になる。
「これからお仕事?頑張ってね」
「うん」
「ほら。何してる。こっちだ」
 執事はリュシアンを呼ぶと、庭園をぐるりと指した。
「まずは庭園の見回りからだ。ごみ拾いと草むしりもかねてな。その次は馬車磨き、それが終わったら屋敷の廊下の掃除だ。のろのろしていると奥様にお目玉くらうぞ」
「ちぇ」
「あ、リュシアン」
 歩きだしたリュシアンを彼女が呼びとめた。
「後で私を馬車で送ってくれる?御者の練習ついでに」
「う、うん」
 胸がどきどきした。 
「それからね、私のことはマリーンて呼び捨てでいいのよ。君は本当の下男じゃないんだから。じゃあね」
 屋敷に戻るマリーンをうっとりしながら見つめるリュシアンの背中に、執事の怒声が飛んだ。

「い、いいですか。出しますよ」
 おそるおそる手綱を握ると、馬車がゆっくりと走りだした。
 二人乗りの狭い座席に並んで腰掛けていると、馬車が揺れる度に隣に座るマリーンの肩が触れる。手綱に集中しつつも、つい横をちらちら見たりしてしまい、しばらく馬車がまっすぐに走らなかった。
「うまい、うまい。その調子よ。もうちょっとスピードを上げて」
 マリーンは楽しそうだった。手綱をとるリュシアンにアドバイスを送りながら、彼女は通りすぎる風景に目をやり、晴れ渡った青空や緑の木々に微笑した。髪を綺麗に編んで、大きなふちつきの帽子をかぶり、白いサテンの胴着に身を包んだ彼女は、生き生きとして輝いて見えた。
「そう、そのまままっすぐ行って、坂を上って左手に王城が見えたら次は右に」
 はじめはよたよた頼りなく走っていた馬車は、しだいにまっすぐに、一定の速度で走るようになった。御者をするのは初めてとはいうものの、乗馬に関してはリュシアンは多少の自信があった。
「だいぶ慣れたみたいね」
「うん。なんとか」
 リュシアンの顔にも笑顔が浮かんだ。
「ふふ。じゃ今度からはもう少し大きな馬車にしましょうか」
 馬車はいくつかの庭園を抜け、プルヌスの木々が立ち並ぶ通りへと進んでいった。
「もうそろそろ咲き始めているわね」
 白い花をつけはじめた枝を見上げ、マリーンはうきうきするように言った。
「屋根なしの馬車にして良かったわ。私プルヌスの花大好きなの」
 少年はそんなマリーンを、横から眩しそうに見つめた。やわらかな春の風が、馬車の二人を撫でつけるように吹き抜ける。
 馬車はプルヌスの並木道を抜け大通りに出た。この辺りはたくさんの馬車や人々が行き交う、都市でもにぎやかな地域だ。
「あ、もうここでいいわ。止めて」
 リュシアンが慌てて手綱を引くと、馬車ががたんと大きく揺れた。
「きゃっ」
 よろけたマリーンは少年にしがみついた。
「びっくりしたあ」
「あっ。す、すみません」
 目の前にマリーンの体があった。彼は真っ赤になった。
「もう。慣れてきたと思ったけど、まだまだね。馬車を止めるときは一番気をつけないと」
「うん……。気をつけます」
「それから。レディが降りるときは、御者は先に降りて手助けをするものよ」
 それを聞いて、リュシアンはすぐさま座席から飛び降りた。馬車の反対側に回って扉を開けると、マリーンが笑いながら手を差し出した。彼はどきどきしながその手をとった。
「ありがとう」
 地面に降り立つマリーンを見つめながら、この手をいつまでも離したくないと、リュシアンは思った。
「帰りの迎えはいいわ。少し遅くなるから」
 鞄を手に歩きだすマリーン。髪を揺らしながら歩いてゆくその背中が、通りの先の建物の門に消えるまで、彼は見送り続けた。
「やった。手……握ったぞ」
 うっとりとつぶやく。
 やわらかなマリーンの手のぬくもり、よろめいたときに触れた彼女の体の感触を思い出すと、その辺を駆け回りたくなるような気持ちだった。

 それからのリュシアンは、周りが驚くほど、それはよく働いた。
 大嫌いな早起きにも慣れ、鐘の音とともに飛び起きると、彼はすぐさま着替えて玄関に駆け降りて、中庭で水をやるマリーンと朝の挨拶を交わした。定められた庭園の見回りと馬車の整備を済ませると、騎士団の稽古がある日はそちらに出掛け、また屋敷に戻って食事をとり、マリーンを馬車で送ることが習慣のようになった。
 彼女は週のうち二三日か、多いときは四日は鞄をもって出掛けることがあって、リュシアンは馬車の扱いは自然と上達していった。また、掃除や厩や鳥舎の手入れに庭園の彫像磨きなど、屋敷での仕事はいくらでもあった。ようやくそれらが終わり、夕食の時間になっても、まだ彼の緊張はとけなかった。
 食事の場は夫人による礼儀とマナーの講習会だった。食事はたいがい、夫人とマリーンとの三人であったが、マリーンが遅い日には夫人とリュシアンの二人だけとなった。そんなときは、彼にとってはほとんど地獄のようなもので、他に話し相手がいないときの夫人は、徹底的にリュシアンに注意を傾けて、ちょっとした不作法を見逃さず、指導を怠らないのだった。
 カルードはあれ以来まったく顔を見せなかった。
 リュシアンから見ても、彼が自分の母親であるレスダー伯夫人を恐れているのは明白だった。騎士団の稽古の際には、屋敷での生活について彼はリュシアンにあれこれと尋ねてはた。それにリュシアンは笑いながらうなずいて、自分がうまくやっていること、真面目に仕事をしていることを誇らしげに伝えた。
 リュシアンは週に一通ほど、自分の母にも手紙を書いた。
 住み込んでいる間は家には戻らないというのが取り決めだったので、むしろ寂しがっているのは母のクレアの方であるようだった。彼女はリュシアンの手紙に、その三倍ほどの長い返事を送ってきた。それはたいていが、彼に対する心配の小言や、カルードやレスダー伯夫人への謝辞などで、そうした人達への感謝を忘れずちゃんと仕事をこなし、騎士として立派になって欲しいという、お決まりの文句で締めくくられていた。
 その返事としてリュシアンは、自分がいかにこの屋敷で真面目に働いているか、毎日仕事をこなし、礼儀とマナーを学び、騎士の稽古もさぼらず、全てを完璧にやり遂げているかということを、いちいち大げさに書きつづった。ただし、それらの勤勉さが、すべてはこの屋敷で出会った美しい女性……マリーンのためである、などということはもちろん一行も書かなかったが。

 リュシアンが屋敷に来てひと月ほどが過ぎた。
 慣れた手つきで手綱をさばきながら、彼は隣に座るマリーンを振り返った。
「ねえ。そろそろ教えてよ」
「うーん。そうねえ」
 マリーンは気持ち良さそうに座席で目を閉じていた。
 うららかな春の陽気に、新緑の香りのする風が吹く。カタカタと揺れる馬車は、ちょうど眠気を誘うくらいに心地よいのだろう。
「眠いの?」
「うん。ちょっとね。昨日はちょっと寝るのが遅かったから」
 梢の間から差し込む日差しの中を、花の香りのする庭園を抜け、馬車はいつもの道を走ってゆく。
「ねえ、ずるいよ。いつもこうして送らせているくせに、どこへゆくのか教えてくれないなんて」
「うん。……そうね」
 膝の上に乗せた鞄をなでながら、マリーンは少年の方を見た。
「それじゃ、誰にも言わない?」
「うん。もちろんさ」
「お母様にも内緒よ?」
「当然」
 リュシアンにしてみれば、いったいマリーンがいつもどこへ何をしにゆくのか、気掛かりで仕方がなかったのだ。楽しそうな彼女の様子などから、まさか恋人に会いに行くのではなどと、悶々と考えて眠れぬこともあった。普段は、恋人とか男の友人がいるような様子はまったくないので、そんなことはあり得ないとは思いつつも、これは彼にとっては極めて重大事だった。
 だが、マリーンはいたずらそうにぺろりと舌を出した。
「うーん。やっぱり教えない」
「なんだよー。ずるいや」
 リュシアンは不満げに唇を突き出した。
「うふふ。ごめんね。でも、そのうち話すわ」
「そのうちっていつさ?」
「ふふ……そのうち、よ」
 馬車は、いつのまにかプルヌスの並木道に入っていた。
「わあ。すごい。今日が一番の見ごろだわね」
 満開に咲いた花の下を、二人の馬車が駆け抜ける。
「きれい……」
 頭上を覆う薄桃色のアーチを見上げるマリーン。
 手綱をとるリュシアンは、花よりも輝くような彼女の横顔を、うっとりと見つめた。馬車は、花に覆われた並木道のゆるやかな丘を上っていった。
「んん……、なんだか気持ち良くて……このまま眠っちゃいそう」
 座席のマリーンは、眠たそうに目を閉じた。
「すぐ起きるから……ちょっとだけ……」
「しょうがないなあ。もう」
 リュシアンは馬車の速度をゆるめた。
 プルヌスの花びらがひらひらと舞落ち、風がさわやかな花の香りを運んでくる。小さな寝息を立てはじめたマリーンを、彼は不思議な胸の高鳴りとともに見守っていた。
 肩まで垂らした彼女の黒髪が、ふわりと風に揺れ、頬にかかる。
(綺麗だな……やっぱり。マリーン……)
 目を閉じたマリーンの薄紅色の唇が、まるでプルヌスの花びらのように見えた。
 後ろを振り返ると、馬車道には誰の姿もない。木々を揺らす風と、鳥の鳴き声の他は、いたって静かな、町はずれの小道である。
 自分が何をしようとしているのか分からなかった。心臓がどきどきと音をたて、手綱を握る手がじっとりと汗ばんだ。
「……」
 リュシアンは馬車を静かに道の脇に止めた。
 まだマリーンは起きなかった。
 座席にもたれた彼女の肩にためらいがちに触れ、軽く引き寄せる。甘い香水の香りがリュシアンの鼻孔をくすぐった。
「マリーン……」
 目を閉じた彼女のサンゴ色の唇から、かすかに息がもれている。リュシアンはおそるおそる、その顔に手を回した。
 馬がブルルと鼻を鳴らしたので、彼は一瞬どきりとしたが、そのまま震える手をマリーンの頬にあてると、自分の顔を近づけた。
 ゆっくりと、その唇に自分の唇を触れる。
「ん……」
 唇を合わせたまま引き寄せると、マリーンの体がぴくりと動いた。やわらかな唇の感触に、たまらず興奮をつのらせながら、リュシアンは夢中でその唇を吸った。
「ん……んんっ」
 マリーンがぱっと目を開いた。
 状況が分からないのか彼女は大きく目を見開き、まばたきをした。ようやく唇をもぎ離すと、彼女は喘ぐように声を上げた。
「リュ、リュシアン……」
「マリーン」
 少年は熱いまなざしでマリーンを見つめた。そして強く引き寄せると、再びその唇に唇を押し当てていった。
「んっ……」
 むさぼるように何度も唇を重ね、離してはまた重ねる。もはや自分にすら止められない、激しく、熱い思いが、彼を支配していた。
「ん……ああ」
 何度目かの口づけで、マリーンの体からふっと力が抜けた。
 少年はその体を強く抱きしめた。
「マリーン。マリーン!」
「ああ、ダメ……リュシアン!」
 少年をもぎはなすと、彼女は飛び下りるように馬車を降りた。
 ほのかに紅潮した頬に、乱れた髪をなでつけながら、マリーンは静かに言った。
「もう……ここでいいわ。その鞄を取って」
「あ、ああ……」
「君は、もう帰りなさい」
 鞄を手にしたマリーンは、急ぐように歩きだした。
「マリーン……」
 プルヌスの並木道のむこうに小さくなる彼女の姿を、少年は熱のこもったまなざしでずっと見つめ続けていた。

 それから数日間が過ぎても、彼女は姿を見せなかった。
 日課であるはずの早朝の水やりにも、彼女は現れなかった。もちろん馬車での送り迎えもなくなった。
 リュシアンは、自分のしてしまったことを後悔もしたが、それでも次に思うのは、一度知ったマリーンのやわらかな唇の感触、髪の匂い、そして、抱きしめたときの甘やかなぬくもりだった。
「よう。どうした?さえない顔して」
 騎士団の稽古中でも、ぼんやりとして口数の少ないリュシアンに、悪友のフィッツウースがさっそく声を掛けてきた。
「なんかあったのか?こないだまではにこにことしてた奴が、こんどはしゅんとなって。わっかんねえよな。カルードの屋敷に住み込みを始めるってんで不機嫌だったのが、次はこの世の春みてえにはしゃぎはじめて、そんでおとといあたりからはなんだか、この世の終わりって感じのツラに変わって。いったい何があったんだよ?」
「ああ……それがなー」
 リュシアンは木剣で地面をなぞりながら、口ごもった。
「なんだよ。俺とお前の仲だろ?この騎士隊に入って以来、喧嘩とさぼりと脱走をいつも共にして、隊長さんの罵声をもっとも多く浴びた者同士だぜ。いまさらなにも隠し事はなしにしようぜ」
「そうなんだけどさ」
 とはいっても、さすがに、カルードの姉君で七つ年上の女性に惚れて、しかも無理矢理キスをしてしまった……などとは、とても言えない。
「そうか。女、だな?」
 フィッツウースはパチンと指を鳴らした。
「う……」
「図星か」
 とたんに顔をにやつかせて、彼はリュシアンの肩に手をやった。
「なんだ、そんなら早く言えよ、おい。で、どんな娘だよ?カルードの屋敷の侍女かなんかか?」
「あ……ああ、まあ……そんなとこ」
「そうかそうか。お前もついに、好きな女が出来たか。いや、良かった。遅すぎるくらいだぞ」
 周りでは騎士たちが黙々と素振りを始めていたが、リュシアンとフィッツウースの二人は、剣を振るふりをしながらひそひそと話を続けた
「で、どんなんだ?その娘は。美人か?」
「う、うん……まあ」
「そうかそうか。いいなー、このっ」
 肘で小突かれ、リュシアンは思わず苦笑した。
「それで?何悩んでるんだ?なんかあったんだろ?お兄さんに相談してみな」
「うん……、そのな……」
「なに照れてるんだよ。まさか、もう手を出しちまったのか?」
 うなずくように下を向いたリュシアンに、フィッツウースは驚いたように声を上げた。
「なんだ?マジかよ?」
「そこっ。うるさいぞ。真面目にやれ」
 向こうからカルードの怒声が飛んできた。
(馬鹿……、大声出すなよ)
(ああ。やべえやべえ)
 フィッツウースは頭を掻いた。
(そっか……そうだよな。考えてみれば、カルードのおっ母さんの屋敷で、そこの侍女に手を出しちまったら、やっぱカルードだって立場ねえもんな)
(そう、だよな……)
(で、本当にやっちまったのか?)
 リュシアンは照れながらうなずいた。
(ああ、キス……しちまった)
(なんだあ?キス?それだけかよ?)
(それだけってなんだよ?)
 憤慨するリュシアンに、経験豊かな友人は笑いかけた。
「キスね。なあ、そんなことで悩んでんのかよ。いいじゃん。誰だってするだろう。お前ももう十五なんだしさ」
「うん。でも、無理やりっていうか、その、眠っている間にしちまってさ」
「はあ?眠っている間だあ?」
「ああ……それで、その後なんか気まずくなって、それからその人、俺のまえに姿見せなくなって……」
 フィッツウースは呆れたように首を振った。
「そりゃ、さすがにまずいだろう。お前、まさか……する前に好きだとか、愛してるとか何もなしで、いきなりしたとか?」
「うん。……そう」
「バッカ。そりゃ、確かに、怒るわなあ。動物の発情じゃないんだからさ。そっか、そりゃまずいわ」
「やっぱり。怒ってるかな……」
「そりゃ、やっぱまずいだろう。いきなりってのは」
「やっぱ……そうかあ」
「で、口きいてくれないのか?」
「ていうか、顔も見せてくれない……」
 しょげ返ったリュシアンに、フィッツウースはなぐさめるように言った。
「そうか。まあそう落ち込むな。考えようによってはだな、キスされて怒るってのはな、多少なりとも相手に気があるってことだ」
「そうなのか?」
「まあ、経験上、たぶん……な。しかしそれより、とにかくあやまっちまえよ、その娘に。とりあえずそれしかないだろう。いきなりでゴメン、とかなんとかさ」
「うん……」
 剣の素振りの時間が終わり、カルードから練馬場へ移動の指示が出たので、二人は他の連中について並んで歩きだした。
「とにかく。女ってやつはな、しょっちゅう怒ったり嫌がったりするものさ。その度にくよくよと後悔していちゃあ、きりがないぜ」
「そうかなあ……」
「そうさ。気まずくなったらまずはあやまりな。そんで、とりあえず仲直りしてから、またすりゃいいのさ」
「何?なんの話だ?」
 二人の会話を聞いていた少年騎士が近寄ってきた。
「おお、ソラン。聞いてくれよ。実はリュシアンの奴が……」
 ソランはリュシアンと同じく十五才の騎士見習いだった。よく整えられた銀色の髪に色白の肌をした、いかにも生まれの良さそうなおぼっちゃん顔の少年である。
「リュシアンがさ、カルード隊長の母上の屋敷で女と……」
「おいよせよ。フィッツ」
 慌ててフィッツウースの口をふさぐ。
「いいじゃんか別に」
「だめだって」
「なんだよ。早くいえよ」
「リュシアンの奴が、女に無理やりキスを……」
「キス?リュシアンが女と?いつ?どこで?誰と?」
「誰とでもいーだろ!」
 リュシアンは真っ赤になって叫んだ。
「いや、聞かせろ」
「そうだぜ。コイツったらよ、なんでも寝ている間に強引に……」
「わあっ、バカ、フィッツ!」
「お前ら!」
 騎士隊長カルードの怒鳴り声が、三人の背後で上がった。
「わっ、隊長」
 逃げようとするフィッツウースを捕まえると、カルードは鬼のように眉をつり上げて、三人を指さした。
「お前ら、今から乗馬の障害走試験だ」
「そんなあ……」
 不平を上げる友人たちの横で、リュシアンはぼんやりと空を見上げた。彼にとっては、隊長の怒鳴り声や罰などは大したことではなかった。それよりも心に占めていたのは、ひたすらただ一人の年上の女性のことだけだったのである。

 当のマリーンが、リュシアンの前に顔を見せたのは、それからさらに三日ほど後のことだった。
 いつものように彼が庭園の見回りから戻ってくると、屋敷の扉の前にマリーンが立っていた。
 おずおずと近づいたリュシアンに、彼女はにこりともせずに、今から馬車で送ってくれるようにと、無表情に言いつけた。
 マリーンと馬車に乗るのは何日ぶりのことだったか。リュシアンはどきどきとしながら御者席に乗り込み、手綱を取った。
 少年の内心の狼狽には気づかぬかのように、彼女は感情のない声で「いつものところへお願い」と告げた。
 馬車に揺られながらマリーンは一言も発せず、横を向いてこちらを見ようともしない。リュシアンはひどく悲しい気持ちになった。
(やっぱり、この間のことで怒っているのかな。あたり前だよなあ。でも、あのときはなんだか、マリーンの横顔を見ていたら、どうにも我慢できなくなって……)
 そんな言い訳をしたところで通じるはずもないことは、彼にも分かっている。まさか、もうレスダー伯夫人にも話したのだろうか。もしそうなら、それが理由で屋敷を追い出されることだってあるかもしれない。
(あああ、やっぱり思い切ってあやまろう。それしかないな)
 馬車はゆるやかな坂を上るプルヌスの並木道に差しかかっていた。
 花は少し散りはじめていたがまだ美しく咲き誇っていて、数日前と同じく、彼らの頭上に薄桃色のアーチを作っている。それを見上げていると、あのときの自分の行為がまざまざと思い出され、リュシアンはまた頬がかっと熱くなるのを感じるのだった。
「リュシアン」
 前触れもなしに声を掛けられ、手綱を持ちながら彼はびくりとした。マリーンが、じっと自分を見ていた。
「あ……、ああ。何?マリーン」
「馬車をとめて」
「え?ここで?」
「とめて」
 彼女は静かに繰り返した。
 リュシアンは、言われたとおりに道の端に馬車をとめた。
「……」
 無言の時間が息苦しい。心臓がどきどきと高鳴った。
 彼は横に座るマリーンにちらりと目をやった。
 あやまるのは今だ……そう思って息を吸い込むが、何かを言おうとしても、のどがひきつったようになって何も口にできない。
(ああ……くそ)
 リュシアンは、情けなさにうなだれるような思いで、唇をかんだ。
「……この間は、ごめんなさい」
 少しの沈黙のあと、口をひらいたのはマリーンの方だった。
「あのときは、私の不注意でした。君に対してあまりに軽率に接してしまった……私の責任よ」
 奇妙なほど静かな口調だった。リュシアンは驚いてマリーンを見つめた。
「そんな……。責任って、どうしてマリーンがあやまるのさ?あやまるのは俺のほうで……」
「いいえ……」
 彼女は首を振った。まっすぐ少年を見るその目には、なにか断固とした光があった。
「私はあなたより八つも年上なのよ。私の方がもっと考えるべきでした。ただ、君は騎士見習いといっても、もう十五歳なのだし、年頃の男の子が女性やなにかに色々と興味をもったりすることは、ちゃんと分かっていたはずなのに。隙を見せてしまった私が悪いの。ごめんなさい。そして忘れましょう。あのことは」
 マリーンの口調は穏やかであったが、かえってそれが、リュシアンには苦痛に感じられた。
「マリーン。どうして……」
 わけもわからない怒りのようなものが、じわりとこみ上げてくる。
「どうして……そんなことを」
 リュシアンは声を震わせた。彼女はそっと目を伏せた。
「仮にも、君は私の家に下男として勉強しに来た身なのだから。それを助けるはずの私が、かえって君を惑わせたり、君の仕事を妨げるようなことをしては……」
「違う!」
 少年はマリーンの言葉をさえぎった。
「違うよ、マリーン。僕は……僕は、あなたが好きなんだ!」
「リュシアン……」
 馬車の上に立ち上がり、マリーンの顔をまっすぐに見下ろす。
「好きなんだ……」
 言葉に出すと気持ちが軽くなった。もう怖いものはなかった。
 彼はマリーンの上にのしかかり、彼女があっという間もなく、押さえつけるようにして、その顔を見据えた。
「リュシ……アン」
 彼女は少年を見上げた。
「僕くらいの年頃は、女性やなにかに興味があるから、だって?……違う。僕が好きなのはあなただ。他の誰でもない。マリーンだけなんだっ!」
「んっ!」
 少年の唇が、マリーンの言葉をふさいだ。はらいのけようとする彼女だったが、リュシアンはその手を押さえつけると、さらに唇を強く押し当てた。
「ん、……んん」
「あなたが好きなんだ。あなたが……」
 いったん唇を離し、耳元に告げると、また深く唇を重ねる。
「ん……ああ」
「好きなんだ……マリーン。好きなんだ……」
 吐息のような声が耳に響くたび、彼女の抵抗は弱くなっていった。
「リュシアン、だめ……、ん……」
「マリーン……マリーン!」
 繰り返される口づけ……
 激しく自分を求める、熱く、純粋な愛の言葉。
「リュシ……アン」
 彼女の手から、ふっと力が抜けた。
 それまで固く閉じていた唇も、少年を受け入れるようにかすかに開かれた。二人の唇はより深く重ねられた。
「ああ、マリーン……好きだよ」
 少年の手が、無意識のようにマリーンの胸元をまさぐる。
 彼女の手が、ためらいがちに背中に回される。
 荒くなった二人の息と、押し殺すような喘ぎとが重なり、それは舞落ちるプルヌスの花びらとともに、淡く溶けていった。
「……降ろして」
 何度目かの長い口づけの後、彼女はやや上気した頬に手を当て、囁くように言った。
「ここでいいの?」
「いいの。君はもう……」
「はいはい。帰りなさい、だろ?」
「そうよ」
 足元の鞄を取り、立ち上がった彼女はにこりと笑った。
 少年は御者席から下りて、マリーンの手を取って馬車から助け降ろす。二人の目が合った。
「……」
 だが彼女は、そのままくるりと背を向けて、何事もなかったかのように早足で並木道を歩いていった。
 少年はその背中をじっと見つめた。数日前とは微妙に異なる、今しがたの口づけの感触を思い返しながら。

 翌日の騎士団の稽古は、彼にとってはなかなかひどいものだった。
 リュシアンはしばしば剣を振るのを忘れ、昨日のことを思い出してはうすら笑いを浮かべ、隊長のカルードから叱責をかった。そうかと思えば、普段からは考えられぬような真面目さで、いきなり真剣に剣を振りだしたり、きりりとした顔つきで颯爽と馬に飛び乗ったりして、フィッツやソランなどの友人たちから気味悪がられた。
 稽古が終わり、マリーンに会いたさに、大急ぎで屋敷にかけ戻ると、なんとも信じられぬような事態が彼を待っていた。
「えっ?もういっぺん言って」
「ですから……今夜は、奥様はロルレアン公爵の晩餐会にお出かけでお戻りにはなられません。ですので、お夕食はマリーン様がお戻りになられしだいおすませくださるようにと……」
 侍女にそう告げられ、リュシアンは思わず息をのんだ。
(ということは……、今夜はマリーンとこの屋敷に二人きり)
 ひきつった彼の顔が、次にだらしなく崩れるまで、長くはかからなかった。
 どうやって自室に戻ったのかも思い出せなかった。彼の頭の中は、すでにマリーンとのことだけでいっぱいだった。
(二人きりの夕食、二人きりの夜……)
 あれこれと想像をめぐらすだけで、気が高まって、いても立ってもいられなくなる。
「いかん……落ちつけ。落ちつけ」
 何度か深呼吸して、自らに言い聞かせるようにつぶやく。
「そりゃ、やりたいけどさ。マリーンと……」
 友人のフィッツウースは、自分と一つしか年が違わないというのに、もう何人もの女性と経験があるようだ。そろそろ自分だってと、フィッツの自慢話を聞くたびに、彼は思っていたのであった。
(マリーン……)
 昨日の口づけを思い出す。
(応えてくれた気がしたんだ……)
 はじめは、ただ一方的に自分が唇を押し当てていただけだったが、
(確かにマリーンの唇を感じたんだ。マリーンの唇が、俺を求めたように……感じたんだ)
(マリーン……)
 彼女が屋敷に戻ってきて、二人だけで食事をするとき、自分はどんな顔をしているだろう。マリーンはどんな顔をして自分を見るのだろう。
 少年の心は溢れんばかりの思いと、沸き起こってはたちまちまた消えてゆく淡い期待にむせかえり、決して落ち着くことはなかった。



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