騎士見習いの恋


*登場人物*

 リュシアン ・・・見習い騎士
 カルード  ・・・騎士隊長 
 マリーン   ・・・カルードの姉
 フィッツウース ・・騎士隊での友人
  クレア    ・・・リュシアンの母
 レスダー伯爵夫人 ・・・カルードの母
   ソラン    ・・・騎士隊での友人
  コステル   ・・・ソランの従姉妹
モンフェール伯爵   ・・・大貴族


騎士見習いの恋  1/10 ページ


 少年は言葉を失ったように、その女性を見つめていた。
 まるで、すべての時間が止まったようだ。
 この屋敷には望んで来たわけではない。現に、自分はたったいま、ここから逃げ出そうと、階段を駆け降りていたはずだった。
 それなのに
 彼はもう、その場を動けなかった。
「あなたは、誰?」
 囁くように女性が言った。
 深い緑の瞳が、静かに見おろしていた。
 肩にこぼれる長い黒髪と、ほのかな香水の香り……
「ぼ、僕は……」
 少年の言葉は、途中でのどにかすれて消えた。
 まるで、
 これから始まる激しい季節の予感を、その目の奥に見ているかのように、
「僕は……」
 今は、それ以上の言葉が出てこない。
 女性がふと首をかしげた。流れ落ちる黒髪をかき上げて、
 うっすらとした微笑みを
 アザレアの花のような、
 そんな優しい微笑みを……浮かべて。
 そのときから、
 少年の恋は、始まっていたのだった。
  



T

 リュシアンは、鼻から血を出したフィッツウースを見て、「ざまあ見ろ」と言った。
 緑の香りを含んだ初春の風が、木々を揺らしてゆく。
 空は青く晴れ上がり、流れる雲は白く高い。
 美しい調和で見事に整えられた庭園の一角にある広場には、騎士たちが剣を振る規則正しい掛け声が響いている。
 その調和を破るように、
「こらっ、お前ら、何をしている」
 隊長騎士の怒鳴り声が飛んだ。
 周りの騎士たちは、さっと緊張の面持ちで訓練の手を止めるが、しかしそれもいつものことだとばかりに、また何事もなかったように、掛け声を上げ、剣を振り始める。
「またお前かリュシアン。稽古中になにをしている」
 隊長騎士は、いままさに喧嘩をしていたように、互いにつかみ合っている二人の少年を見比べた。
「また喧嘩か。その木剣の柄で殴ったのか……乱暴なことを」
「……だって、フィッツの奴がさ、カルード」
「だってもなにもない。それにここでは隊長と呼べ。隊長と」
 少年はふてくされたように目をそらす。
 あどけなさを残したその顔は、まだいくぶん可愛らしくもあり、またすでに憎らしくもある。そこには思春期特有の、何かに反抗せずにはおれないという、断固たる表情もかいま見える。
「リュシアン。まったく、お前ってやつは……」
「フェーデってやつだよ。フェーデ。私闘する権利は騎士なら持っているって言ったじゃん」
「何がフェーデだ。バシュレ(見習い)の分際で。いいか、お前らのはただの喧嘩だ。乱暴だ。誇り高き騎士のフェーデというのはな、己の名誉と矜持、尊厳のためにあえて戦いをいどむという騎士道精神にのっとったものなのだ。分かるか?」
「さあね」
 少年はふんと鼻を鳴らした。
 すると、その隣の背の高い少年が鼻血をこすりながら、ぷっと吹き出した。この二人の悪童が、年中喧嘩や騒動を起こす問題児であるのは、この騎士団の誰もが知っていることだ。
「とにかく、俺は悪くないぜ。フィッツの奴がムカつくことを言うから……」
「いいから。ちょっとこっちへ来い」
 騎士隊長は、他の騎士たちに稽古を続けるよう目線でうながすと、少年を引っ張るようにして庭園の奥へ連れだした。

 整備された庭園には、月桂樹の植えられたパゴーラが、並んだ白い円柱ともに優雅な空間をつくり出し、石畳の広場では、貴族たちを乗せた馬車が優雅に行き交っている。
 女神の彫像が飾られた噴水のへりに少年を腰掛けさせると、隊長騎士はいつものように説教を始めた。
「いいか。リュシアン。俺は、お前の父君にお誓いしたのだ。きっとお前を立派な騎士に育ててみせると。いや父君だけではない。お前の母上にもだ。まがりなりにも伯爵であり、卿と呼ばれた御方を父に持ったお前だ。また剣の達人であり、騎士として、貴族としての儀礼と精神を併せ持ったロワール卿は、赫々たる武勲を残し、惜しまれつつもこの世を去った。その一人息子のお前は、あの方の意志を受け継ぎ、宮廷を代表する騎士となるべく精進してゆくべきなのだ。だが、お前って奴は、いつまでたっても、まともに稽古をしようとすらしない」
「だから、それはフィッツの奴が……」
 唇を尖らせた少年に、騎士隊長は厳しい目を向けた。
「人のせいにするな。これはお前の意識の問題だ。そんなことじゃ、いつまでたっても騎士見習いのままだぞ。普通は十六になればもう立派な一人前の騎士として、いくさにも参加する歳だ。俺だってそうだった。俺は十六になったあの年、お前の父君とともに弓矢の降り注ぐ戦場へと出陣していったものだ。なのに、お前はなんだ。もう来年には十六になるってのに。相変わらず稽古はさぼるわ、たまにこうして出てくると悪友とじゃれあって、他の騎士たちの邪魔をするわで……おい、聞いているのか」
 少年は鼻くそをほじっていた。
「腹へったよ。カルード」
 年上づらをしたこの隊長の長説教などは、彼にとってはたいした意味は持っていないらしい。 騎士はため息をついた。
「ああ、なんてことだ。仮にも俺はこの宮廷における四大騎士隊の中隊長に、今年ついに昇格したばかりというのに。以前と変わらずお前の世話を焼かされ、さらに今度は隊長としての責務をも邪魔をされ……いや、まったくこれほど不幸な騎士は、この王国始まって以来いまい……ああ」
 苦悶の顔つきで頭を抱えつつ、ちらりと少年の方を見るが、彼はまだ鼻くそに夢中だった。騎士隊長は今度こそがっくりとした。
「もう戻っていいかい?カルード」
 少年は池に手を入れて、ちゃぷちゃぷと手をゆすいだ。退屈そうにあくびをし、ぼりぼりと髪を掻くその様子を、騎士はうらめしそうに見た。
 やがて、正午を告げる鐘の音が庭園に響きはじめた。
「ほら、そろそろ稽古も終わりの時間だし。もう戻ろうよカルード。どうせ後でうち来るんだろ?」
「……ああ。行くとも」
 騎士隊長は口を真一文字に引き締めた。その端正な顔に、なにかの決意をみなぎらせた表情で。
「俺は決めたぞ。リュシアン」
「何を?」
 見習い用の木剣をくるくると回しながら、少年が聞き返す。
「俺は決めた……」
 騎士は重々しくそう繰り返しただけだった。まるで、彼の父か兄でもあるように、強いまなざしで少年の背中を見つめながら。
 
 リュシアンの住む屋敷は、都市貴族の住まう中心部からはやや離れた、閑静な通りの一画にあった。
 いつものように乱暴に扉を蹴り開けて、彼は鎧や稽古道具をどさりと放り出すと、廊下の奥から中年の女が現れた。
「お帰りなさいませ。坊っちゃま」
「ただいま」
 きゅうくつな胴着を脱ぎ捨てると、リュシアンはズボン一枚の姿で絨毯の上に上がりこんだ。
「ねえメアリ、なんかおやつある?」
「また何かしでかして、カルード様に叱られたんですか?」
 メアリは、もう十年以上もここで働いている炊婦だ。少年の様子にぴんときたのか、投げ捨てられた服を拾いながら、彼女はそう尋ねた。
「別に。違うけど……」
「いいんですよ。あたしには隠さずとも。奥様には告げ口なんていたしませんから。そうそう、胡桃のパイが半分残ってますよ。お部屋にお持ちしますからね」
「ありがと。母さまは?」
「もうすぐお帰りでしょう。今日は官庁には行事はありませんから。あ、そうそう。リュシアン坊っちゃま。カルード様は今日もいらっしゃるのですかね?」
「さあ、たぶんね」
「おお。それじゃ。また料理は三人分かね。さて、今日は何にしよう。鶏のスープはおとつい出したし。さて」
 ぶつぶつとつぶやきながら台所へ入ってゆく炊婦を見送り、リュシアンは二階の自分の部屋へ上がった。
 騎士隊長のカルードがやってきたのは、夕刻近くになってだった。
 メアリが部屋に呼びに来たとき、リュシアンはベッドでうたた寝をしていた。
「おいでください坊っちゃま。奥様とカルード様がお待ちです。まあ、そんな恰好のままで。風邪でも召したらどうします」
「んん……」
 目をこすりながらのろのろと起き上がり、大きなあくびをする。
 ベッドの上には、こぼしたパイの食べかすや、服などがだらしなく散らかっていた。床の上も同様で、木剣や騎士の鎧、わけの分からないがらくたなどが乱雑に転がり、部屋の主の性質を如実に物語っていた。
 部屋を見渡したメアリは、その惨状には眉をひそめただけでもう何も言わなかった。何度掃除をしても、数日たてばまたもとの木阿弥なのだから。
「せめてチュニックなりシャツなり着てきてくださいな。仮にもカルード様は子爵様なのですから」
「分かってるよ」
 少年はぼりぼりと頭を掻いて、もう一度大きなあくびをすると、メアリに手伝われて服を着替えはじめた。
 一階の客室に入ると、テーブルにはすでに早めの夕食の用意が整えられていた。向かい合って座る、母のクレアとカルードは、今しがたまで何事かを話し合っていた様子で、やってきた少年に意味ありげな顔を向けた。
「まあ、リュシアン。そのぼさぼさの頭。寝癖がついているわよ」
「ああ。母上。お帰りなさい」
「お帰りなさいって、もう私はずっと前に帰ってきていましたよ。昼寝でもしていたの?」
「うん」
 席に着いたリュシアンの隣で、カルードが笑いをもらす。
「今カルードに聞きましたけど、また今日も稽古中に不真面目なことをしていたのですって?」
 母のクレアは三十台の半ばというあたりで、リュシアンに似た赤茶色の長い巻髪を綺麗に結った、まだ十分に美しい女性であった。少年が何かをしでかすたびに、こうして隊長であるカルードの訪問を受けてため息をつくのが、もっぱら彼女の最近の習慣である。
「お前って子は、カルードに迷惑ばかりかけて。少しは彼の立場も考えなさい」
「だって、フィッツの奴がくだらないちょっかい出すから……」
「人のせいにしないで。もうすぐ十六歳になるのだから。少しは責任とか自覚というものを覚えなさいね」 
 お決まりの台詞を言われ、リュシアンはふくれっ面になった。
 なにせ彼はつむじを曲げるのが早い。母のクレアもカルードも、そんなことはよく知っていたが、それ以上に、この少年を大切に思っていることもまた確かだった。少年を叱る彼らの声には、叱咤よりもむしろ懇願の響きが強かった。
「まあまあ、伯爵夫人。そう咎めるばかりでは。それに、私の立場などはどうでもかまいませんよ。要は彼が、これから数年後に立派に騎士として成長してくれれば、それでいいのですから。そう……君の父君のように」
 そう言ったカルードは二十歳を過ぎたばかり。いかにも騎士らしく精悍な顔つきだが、また知的な雰囲気のある美青年だった。
 十六歳にして正騎士として戦場に出て、見事な活躍で宮廷にその名を響かせた彼は、今では王国有数の剣の名手と認められ、若いながらも騎士の一隊を任されている。そんなかれの真摯なまなざしは、いかにも「君の将来を大変気に掛けている」といわんばかりに少年に向けられていた。
「……」
 リュシアンはぷいと横をむいた。
 この真面目すぎる騎士隊長の言葉に、彼はときどき無性に反発したくなるときがある。
 それに毎日のように家に押しかけてきて、その日の不祥事をいちいち母に話して聞かせるのも、彼にすればたまったものではない。カルード自身はそんなに嫌いではなかったが、年上面をして勝手に世話を焼かれるのは面倒くさい。それがリュシアンの本心だった。
「この子は。せっかくいつもこうしてカルードが心配して来てくれるというのに。ちゃんと返事もしないで。まったく……」
「いいのですよ。伯爵夫人。それに今日はちょっと、彼にも聞いてもらわなくてはならないことがあって来たわけですからね」
「そうね」
 カルードの言葉に訳知り顔でうなずく母を見て、リュシアンは嫌な予感を覚えた。
「では、話してもいいでしょうか、伯爵夫人」
 身を乗り出したカルードに、夫人はくすりと笑って言った。
「ええ。でもその前に、その伯爵夫人ていうのは、もうやめてちょうだい。うちの人が亡くなってから、もうこの家に爵位はありませんから。この子がそれを継げるのはいつになるかも分からないし。昔みたいにクレアおばさんと呼んでくれていいのよ。うちの人は死ぬまでずっとあなたを本当の息子のように、そう……リュシアンの兄のように思っていたのですから」
「はい。私もロワール卿には、ひとかたならぬご厚情を賜りました。そのおかげで、今こうして私がいられることは間違いありません」
 騎士は大きくうなずき、少年に向き直った。
「リュシアン。君のお父上は、それは本当に立派な騎士だったのだよ。そう、あの方こそ騎士の中の騎士。今私がここに生きていられるのもあの方のおかげだし、私の剣も乗馬も、すべてあの方のご指導があったからこそなんだ。おそらくロワール卿が亡くなったとき、君はまだ騎士見習いにもなっていなかったから、いかに君の父上が卓越した騎士であり、それのみならず指導者としても熱心で、見事な隊長であったかは知るまいが、それは本当に素晴らしいものだった。そう、伝説の勇者、ゲオルグその人のように」
 カルードの熱弁は、メアリの作ったシチューが冷めるまで続いた。その間、少年は何度も頭をばりばりと掻き、鼻くそをほじりかえして母に睨まれた。
「……ということなのだ。私が君に言いたいのは」
 ようやく、いつもの説教とも教育論とも騎士道精神ともつかぬような、壮大な小言を言い終えると、カルードは息をついてグラスのワインを飲み干した。
 とりあえずは、これで食事ができるとほっとして、リュシアンはさっさと固パンをシチューに浸して、乱雑に食べはじめた。
 自分の話に少年がどれほど感銘を受けたのか、またしても騎士は確かめられなかった。夫人の手前、あからさまに憮然とした顔はできないが、なにも変わらぬ少年の様子に、カルードは落胆のため息をついた。
「ごちそうさま」
 素晴らしいスピードで料理をたいらげたリュシアンが、その余勢をかって席を立とうとするのを、間一髪で母が引き止めた。
「お待ちなさい。まだカルードのお話は終わっていないのよ」
「なんでさ?いつもの小言ならもう腹一杯聞いたよ」
 少年が耳の穴を指でほじりかえすのを見ながら、騎士は「ここで怒ってはならぬ」とばかりに、やんわりとした笑顔で言った。
「リュシアン。お座り」
「ちぇっ。なんだよ」
 仕方なく席についたリュシアンを前に、ひとつ咳払いをすると、彼は今度はやや冷静な口調で話し出した。
「さきほどすでに、君の母君にはお話をして了解も取ってある。あとは君が承知するだけだよ」
「なにさ。あらたまって」
「うむ」
 騎士は腕を組んだ。カルードがこうして、もったいぶったように話をするときは、きまってろくなことがない。
「君の将来について、色々と私なりに考えてみたんだが」
 べつにあんたは俺の父親じゃないだろう、とリュシアンは考えた。
「つまり、このままでは良くはない。このまま君が稽古をさぼりつづけ、いざこざや喧嘩を続け、騎士としての技量や誇りはおろか、最低限の礼儀と学問さえも身につけずに、このままただだらだらと若き日の貴重な時を過ごしてしまっていいものかと」
 母親のクレアは、その話をいちいちもっともだというように、横でうなずいている。
「そうなのだ。君の年齢を思うと、今が最後のチャンスなんだ。ここでちゃんと社会性を身につけ、宮廷での礼儀を学ぶこと。それがひいては、一人前の騎士としての作法と誇りを身につけることにもつながる。さぼりぐせを直し、他人との協調を覚え、弱きを助け、強きを省みる。こうした騎士道の基本たる精神のあり方を、今君の年齢で学ばずして、今後の将来においてこの王国を担ってゆく立派な騎士の一人になることはかなわぬと、私は考えるに至った」
 「だから、何?」とリュシアンは思った。さっさと結論を言えばいいものを。これだからカルードの話はうざったいのだ。彼はまたあくびをしかけたが、母に睨まれあわてて手を膝の上に乗せた。
「つまり、ありていにいうと。君に勉強の場を与えたいのだ」
「勉強……?」
「そうだ。それも社会性を身につけ、他人を思いやり、なおかつ礼儀作法をも学べるという、絶好の機会をだ。どうだ?」
 少年がなんの興味も示さないことに、カルードは少し拍子抜けしたようだったが、この素晴らしい思いつきには自信があったのだろう。騎士は、少々大仰そうに両手を広げて言った。
「私の実家。つまり、私の母方の屋敷で君をあずかり、しばらく下男としての修行させたいと思うのだ」

 リュシアンは、まったくもってうんざりとしていた。
 翌日の稽古でも、いつものように悪友たちと軽口を叩き合いながらも、その様子にはどことなく元気がなかった。
(とってもいいお話だわ。リュシアン)
 昨日のカルードの提案と、母親が示した賛同の言葉が思い出される。
(カルードのお母様、つまりレスダー伯夫人のお屋敷で、お前をしばらく預かっていただくというのは。私も賛成だわ)
(それにちょうど良い機会だわ。私もずっと思っていたのよ。あの人が死んでから、うちではお前に何かを教えたりできる人がいないし、かといって家庭教師を雇えるほどのお金の余裕もない。私も官庁の仕事で家を空けることが多いし、メアリは家の仕事で手一杯。でも、お前の歳のころには、やっぱり誰かについて礼儀作法や言葉使いをちゃんと習ったりした方がいいでしょう。これから立派な騎士として、宮廷人としてやってゆくためには、そうしたことがとても大切だと思うの)
(あなたも来年にはバシュレを卒業して、ちゃんとした騎士になるのだから。大人としての言葉や礼儀を身につけなくてはね。そう、カルードの言うとおりだわ。今のうちにちゃんと学ぶべきことを学ばなくては。それに、なんて良い考えなのでしょう。レスダー伯夫人なら私も長年のお付き合いがあるし。お屋敷もここから馬車で半刻ほどの距離だわ。そうしなさい。いいわね、リュシアン)
 黙ったままの少年に、カルードが追い打ちをかけた。
(よし。決まったな。母君のご了承も得た。事は急げだ。さっそく明日、稽古が終わったら屋敷に案内しよう。実はうちの母にはもうこのことは頼んである。あとは、そうだな、ついでに学問の教師の方も探してみるつもりだ。とりあえず必要な荷物だけはまとめておけよ。なあに、大体のものは向こうで揃うから、心配するな。まずは三ヵ月、屋敷で働くことを覚えて、慣れたら学問と騎士道の両立を目指そう。頑張ろうなリュシアン)
 というようなことで、
 結局、彼が何も口をはさめぬままに、物事は流れるように決まってしまったのだった。
「ああ……あ」
 リュシアンは、稽古用の木剣を地面に叩きつけた。
(カルードの馬鹿野郎。勝手に何もかも決めやがって。なんだい)
 憂鬱なため息をついて、仕方なくまた剣を拾い上げる。
「どうしたんだよ、さっきからぼうっとして。お前らしくねえな」
「フィッツか……」
 横から声をかけてきたのは、親友のフィッツウースだった。
「フィッツか、じゃねえよ。気のない声しやがって。よう。どうする、今日もまたフケるか?」
 フィッツウースは、リュシアンより一つ上の十六歳だ。長く伸ばした黒髪を、洒落た様子で時々かきあげてみせる、なかなかのハンサムだ。騎士団の中でも歳が近いこともあって、リュシアンとはよくつるんで悪さをしたり、喧嘩をしたりもする。昨日も殴り合いの喧嘩をしたばかりだったが、翌日になればもうけろりと忘れて、また馬鹿を言って笑い合う。それが二人の関係だった。
「ほら、昨日言っただろ。ソランの従姉妹のコステルのこと。あの娘の友人たちのパーティがあんだよ。今抜け出して行けば一番のりだぜ。きっと可愛い娘がわんさか……おい、聞いてんのか?」
「ああ……」
 気のない返事に、フィッツウースは首をかしげた。
「なんだ?なんかあったのか?もしかして、またカルードから母子二人で説教を食らったのか?」
「ああ、まあなー」
「なんだよ。そんなのいつものことだろ?お前らしくもない。たかが説教くらいでしょげ返っちまって。この俺を見ろ」
 フィッツウースは胸を張って、自分を指さした。
「俺なんか、今年が正騎士の資格試験の年だってのに、なんとも思っちゃいないぜ。どうにでもなれってなもんよ。そんなもの。くだらねえよ。学問だの宮廷作法だの。騎士なんだから剣さえ使えればいいじゃんか。なあ。この時代はいくさより女だぜ。いかにいい女を捕まえられるか。人生それよ、それ。だからお前もさ、ちっと元気だして。こんなくそつまんねえ素振りの稽古、とっとと抜け出してさ……」
 そのとき、ちょうど騎士隊長のカルードがこちらを見たので、フィッツウースは急いで適当に剣を振りはじめた。
「ふいー。あぶねえ、あぶねえ……」
「俺よー、今日からカルードの母方の屋敷で働かされるんだ」
 リュシアンは木剣をぶらぶらさせ、ため息まじりに言った。
「なんだそりゃ?」
「三ヵ月もさ。修行だって」
「マジ?」
「ああ……。昨日カルードがうちに来たのもそのことでさ。なんか俺がいる前でとんとん拍子で決まっちまって」
「そうか。あの隊長さん……カルードは確か、お前の死んだ親父さんにえらく世話になったらしいって誰かが言ってたな。なんでもお前の親父さん、この騎士団では伝説の隊長の一人だったって?」
「らしいね。俺には関係ないけど」
「それでカルードもいつもなにくれとお前の世話を焼くんだな。でも、なんで反対しなかったんだよ?」
「ああ?」
「目の前で勝手なこと言われてさ、ただ黙ってたのか?お前は」
「そうなんだよな……」
 リュシアンは、彼にしては大変珍しい様子で、力なげに苦笑した。
「俺、なんかさ……ここのところ母様には逆らえないんだよな。というかさ、母様の悲しい顔が見たくないってのかな。以前だったら、さんざん悪さしたり、喧嘩したりして、家にカルードが来て母様と話をしていても、全然へっちゃらだったんだけど。後で怒られるにしてもさ。どうってことねえなって思ってたんだけど」
「ほう。最近はそうでもないと?」
「うん。なんだかな、母様が俺を見るときにさ、あの目が悲しそうだったりするとね。どうにも嫌な気分になるんだ。だからなるべく、家ではおとなしくしようかな、とかさ」
「へええ……お前がねえ」
 少し感心したように、フィッツウースはうなずいた。
「ようやくお前も大人になったてきたか。うむ。そりゃいいことだと思うぜ」
「なんだよ。馬鹿にして」
「いやいや。馬鹿になんぞしませんて。でもさ、心が大人になったんだから、そろそろ体の方もそうならねえとなぁ」
 にやにやしながら悪友は囁いた。
「今日のパーティ。うまくすりゃ、美人の処女をゲットできるぜ?お前……あっちはまだなんだろ?」
「ああ。お前は?」
「とっくに」
「くそー。いいなあ」
「へへっ、そんなわけで、俺はこの素振りが終わったら抜けるぜ。次は乗馬だろ。練馬場へ行く途中でサラバってなもんよ。お前はどうする?」
「あ、じゃあ俺も……」
 この際、カルードとの約束などはほっぽりだして、パーティで可愛い娘とダンスをした方が、よほど楽しいに違いない。
「いいや。お前はうちの屋敷だ」
 リュシアンの背後に、眉をつり上げた騎士隊長が立っていた。
「次の乗馬はお前からだ。リュシアン。二番目がフィッツウース。そのあとの模擬試合の順番も同様だ。いいな。最後までずっと目を離さないからな。お前たち二人から」

「よし。今日はここまで」
 汗みづくで地面にへたりこんだフィッツウースの横で、リュシアンも泥だらけの手足を投げ出し、大の字になった。
「なんだ、だらしないぞお前ら。この程度の稽古で。特に見習い組、今年か来年には正式の騎士になりたいんだったら、もっと体力をつけておくんだな。いっぱしにパーティだ舞踏会だと浮かれていては、青白い顔のへっぴり騎士にしかなれんぞ」
 騎士たちを叱咤するカルードの言葉は、明らかに自分たちに向けられたものに違いない。リュシアンとフィッツウースは、むっつりと顔を見合わせた。
「それから、リュシアン。乗馬の腕は多少は上がったようだな。だが、模擬試合はまだまだだ。ただ闇雲に剣を振るだけでは、生身の相手には簡単に攻撃を読まれるぞ。まずは基本の型を身につけろ」
 皆の前で名指しで注意を受け、リュシアンは顔を赤くした。
「では本日はこれで終了。明日からは実戦形式の剣を持った乗馬に入る。皆心してかかるよう。では解散!」
 稽古が終わると、カルードはまっすぐこちらにやってきた。
「よし、では行くか。リュシアン」
 もう逃げられなかった。少年は無言で頬を膨らませた。
 馬に乗った二人は、カルードの案内のもと、彼の母であるレスダー伯夫人の屋敷へと向かった。
「おい。まだ怒ってるのか?」
 馬上で黙ったままのリュシアンに、カルードが声をかけた。
「あれは仕方ないだろう。俺は隊長だ。皆を指導し、悪いところは注意を与える。別にお前だけをこき下ろしているわけではないよ。俺はただ本当のことを」
「分かってるよ。うるさいな」
 唇を引き結んだ少年を横目に、カルードはふっと表情をやわらげた。リュシアンの剣の素質に一番期待していたのは、他ならぬ彼でもあったのだ。
 鮮やかな緑の木々にはさまれた、石畳の道をしばらくゆくと、大きく景色が開けた。そこは美しい庭園だった。
 整然と並んだ白い円柱とアーチの向こうに、広い芝生の中庭が続き、見事に刈り込まれたツゲやイチイの木が、門のように立ち並び彼らを出迎える。玄関へ続く石畳の両側には、ベリスやアルメリア、プリムラなどの色とりどりの季節の花々が植えられ、薬草やハーブの花壇なども、すべてがきめこまやかに整えられていた。
 屋敷の母屋は、三階建てのたいそう立派な造りで、両側には高い塔を備えている。青い屋根をもった石造りの塔の壁には、びっしりと蔦がからまり、この建物の長い歴史を感じさせる。
 馬を降りた二人は、幾何学模様の彫られた大きな扉の前に立った。カルードが扉を叩くと、すぐに執事らしき男が顔を出した。
「母上は?」
「お待ちかねでございます」
 うやうやしく頭を下げた執事は、彼らを屋敷の中に案内した。
 臙脂色の絨毯が敷かれた廊下の壁には、銀の燭台がずらりと並び、神々を描いた美しい絵画が飾られていた。二人は執事について廊下を通り抜け、階段を上がった。
 三階までくると、にわかに執事の顔つきが変わった。廊下をゆき、奥まった部屋の前で立ち止まると、執事は、決して大きすぎる音を立てないように、注意深く扉をノックした。
 しばらくして中から声がした。
「お入りなさい」
 うなずきかけるカルードに続いて、リュシアンも部屋に入った。
「ただいま戻りました。母上」
 大きな飾り窓から西日が差し込む広い室内には、年代物のテーブルや椅子など、品のよい調度品がしつらえられており、壁も天井も繊細な色彩で品よく整えられていた。
「カルードね」
 椅子から立ち上がったのは、シックな紺色の胴着の上にシェルコットと呼ばれるゆったりとしたスカートと一体になった上着をまとった、毅然とした雰囲気の夫人で、歳は四十になるならずというところか。リュシアンの母より少し上だろう。
「ずいぶん御無沙汰だこと。この家に戻るのはいつ以来でしょう」
 おだやかだが、どこかきっぱりとした口調だった。そのきりりと結い上げた黒髪や、微笑んだときの目の力からも、名のある伯爵家としての誇りが窺える。
「こちらが、お話ししたリュシアンです」
「は、はじめてお目にかかります。リュシアンです。どうぞよろしくお願いします」
 挨拶だけはしっかりとするようにと、何度も母に言われていた。リュシアンは慣れぬ言葉使いで頭を下げた。
「いらっしゃい。リュシアン。私がこの屋敷の主、そしてカルードの母親でもあります。日頃はカルードがお世話になっていますね」
「い、いえ。その、僕のほうこそ」
 リュシアンはもじもじと下を向いた。きつい香水の香りがする。
「この前お話した通り、彼を三月ほどの間、この屋敷で預かっていただきたいのです。その間は下男として仕事をさせ、騎士の稽古の時間はここから通うように」
「分かっています。あのロワール伯爵のお子さまでしょう。それにご主人が亡くなられたとはいえクレア夫人とは昔からのお付き合い。覚えていないでしょうがね、リュシアン、あなたも以前にこの屋敷に遊びに来たこともあるのですよ。カルードの話だと、とてもやんちゃな少年だと聞きましたが、私は元気なのは嫌いではありません。ただ、この屋敷にいる限りはね、それなりの節度と礼儀をもって行動してもらいます。いいかしら?」
「はあ……」
 少年の曖昧な返事が気に入らなかったのか、夫人は赤い唇をぐっと結んた。カルードははらはらした顔をしてリュシアンを小突いた。
「母上、なにぶん、こいつは作法もなにもなっておりませんので。どうかみっちりと仕込んでやって下さい。掃除から庭園の手入れまで、なんでもさせて」
「そういうのは、執事のカストロに教わるがいいでしょう。私はあまり時間がとれませんから、お食事の時のマナーを指導させていただきます」
「はい。母上。どうぞよろしくお願いします」
 深々と頭を下げるカルードに、あわててリュシアンもそれに習う。それに少し満足したのか、夫人は鷹揚にうなずいた。
「それでは、お部屋に行って休むがよいでしょう。仕事は明日からということでね」
「ありがとうございます」
 礼を述べて部屋を出ようとするリュシアンに、夫人はひとこと付け加えた。
「まずそのぼさぼさの髪を切りなさい」
 二人はややぐったりとなって部屋を出た。しかし額の汗をぬぐったのはカルードの方だった。
「すっげえなあ。カルードの母上は。なんというか、迫力がね」
「まったく。お前がちゃんと返事をしないから、ひやひやしたぞ。母上は礼儀とかちゃんとした返答とかにはとても厳しいんだから」
「みたいだね……」
 廊下を歩きながら、今後のことを考えると、げっそりとしてくる。
「あああ。明日からは大変なことになりそうだよ……」
「うむ。そうだぞ。お前は今日から、この屋敷の下男兼騎士見習いなんだからな。しっかりと屋敷の仕事をこなし、稽古もさぼらず、遅刻もせず来るのだ。そして毎日規則正しい生活を送るんだ。ちゃんとした挨拶、言葉使い、食事のマナー、そして騎士としての思慮深さ。たった三月でどれだけできるかはわからんが、とにかく頑張ってみろリュシアン」
(ちぇっ。人のことだと思いやがって。まあ、こんな豪勢な屋敷で暮らしてみるのも悪い気はしないけどさ)
(しかし、本当にでっかい屋敷だよなあ)
 前を見ると、廊下ははるか先まで続いており、扉の数も数えきれないほどだった。カルードに付いてゆきながら、リュシアンは壁から突き出た鹿の剥製に触ったり、裸婦の絵画に顔を近づけてにやにやしたりしていたが、階段にさしかかったときだった。
 一瞬のいたずら心が起こった。
 リュシアンは自分でも思いがけぬ素早さで、さっと階段の手すりに身を隠していた。前をゆくカルードはそれに気づかず、そのまま廊下を歩いてゆく。
(しめしめ……)
 リュシアンはそろそろと階段を降りた。なんとなく、屋敷を探検してみたくなったのだ。
(へっ、俺を甘く見るなよ、カルード)
 内心で舌を出す。足音をたてぬように階段を降り、二階と三階の間の踊り場から窓の外を見たとき、彼はふと思った。
(待てよ。そうか、このままこの屋敷を抜け出しちまおうか……)
 その咄嗟の思いつきは、あっという間に大きく広がった。
 明日からは下男としてつらい仕事が待っているだろう。そんな面倒は決して自分の望んだことではない。それに、あの厳しそうな夫人もどうもいけない。何か気に入らないことをしでかせば、すぐに叱られそうな雰囲気だ。
 早起きに仕事にマナーに挨拶……すべてが嫌いなことばかりだった。 こんな堅苦しい屋敷でやっていけるはずがない。そんなものを押しつけようとしたカルードに、一泡ふかせてやるか。
(そうさ……)
 階段を降りる足が自然と早まった。
 逃げ出すことを考えると、すばらしく自由な気分になってきた。稽古をさぼって、馬で遠乗りに行くときのような。そんな気持が沸き上がってくるのだ。
 だが、ふと彼は足を止めた。圧倒的な誘惑に歯止めをかけるもの。
(でも母上が……なんというだろう)
(俺がこのまま逃げ出して、のこのこ帰っていったら母様は……)
 泣くだろうか。それとも、また悲しそうな顔で、ただだまって首を振るのだろうか。
(……くそっ)
 さっきまで勢いよく階段を駆け降りていた足から、もうすっかり力が抜けていた。
 リュシアンは階段の途中で立ち止まり、首を振った。
(ダメだ……こんなんじゃ)
 心の中でつぶやく。
 唇をかみしめて、また階段を上ろうとしたときであった。
「あら、カルード?帰ってきたの?」
 階段の上から声がした。
 そこに、一人の女性が立っていた。
「あ……」
 荷物の入った革袋が、手からどさりと落ちた。まるで時間が止まったように、リュシアンは目を見開いていた。
「あなたは、誰?」
 絹の薄物をまとった女性がこちらを見た。首をかしげたその肩に、長い黒髪がこぼれ落ちる。
「あ……」
 リュシアンと女性の目が合った。
「お、俺は……」
 言葉が出てこない。
 相手の姿に吸いよせられるように、リュシアンはただ見つめることしかできなかった。
「……」
 こんな綺麗な女性を見たのは初めてだった。これまで彼が知っている女性は、母かそれとも同世代の少女くらいのものであった。そうでなければ、カルードの母のような上流の伯爵夫人くらいだったが、今目の前にいる女性は、その誰とも違っていた。
「あ、あの……その」
 リュシアンは口ごもった。その目は相手に吸いよせられたままだ。女性の身につけた絹の薄物から、かすかに体の線が透けてみえる。
「分かった。あなた……もしかして、リュシアンね」
「え?ええ……」
 リュシアンは驚いて女性を見た。自分を知っているのだろうか。
「やっぱり」
 女性がにこりと微笑んだ。そうすると、まるでアザレアの花のようにあでやかな顔になる。
「そういえば、この前カルードが、教え子を連れてくるっていっていたものね」
 女性が階段を降りてきた。花のようないい香りがした。
(これが……女の人の匂い)
 なにか、くらくらとするような心地で、彼はそばにきた女性を見つめていた。
「今日からこの家に住むんですってね。よろしくね」
「あ……はい」
「あ、そうだ。ごめんなさい、まだ名前を言ってなかったわね。私は……」
 女性が言いかけたとき、階段の上に人の気配がした。
「姉上。それにリュシアンも、」
 上の階の手すりごしに、カルードが顔を覗かせた。
「そこにいたのか。突然いなくなったんで驚いたぞ」
「あ……」
 リュシアン夢から醒めたように、その場に固まった。降りてきたカルードがさっそく説教をはじめる。
「まったく。ちょっと目を離すとこれだ。お前には思慮深さや責任ってものを、もっと身に着けてもらわないと。それから姉上も」
 横でくすくすと笑っている女性を、呆れ顔で指を差す。
「なんですか。その恰好は。下男扱いとはいえ、屋敷にやってきた客の前でそれは。はしたない」
「あ、あら……私、なんて恰好で」
 初めて気づいたように、彼女は自分の服装を見下ろし、慌てて肌の透ける胸元を手で隠した。
「それにその髪も。まるでさっき起きたばかりみたいにひどい有り様ですよ」
「ああ、そうなのよ。実は昨日も帰りが遅くて、眠ったのがだいたい深夜の三点鐘……」
 情けなさそうに、カルードは頭に手をやった。
「とにかく、部屋に戻って着替えをなさったらどうです。侍女を呼びますから。母上に見つかったらまたうるさいですし」
「そうね。そうします」
「すまなかったな、リュシアン」
 カルードはややばつが悪そうに言った。
「びっくりしただろう。あとでちゃんと紹介しようと思っていたんだ。こちらが……私の姉のマリーン。母上と二人でこの屋敷で暮らしている」
「よろしくね。リュシアン。弟がいつもお世話になっています」
 にっこりと微笑んで、女性が手を差し出した。
「マリーン……さん。こちらこそ」
 その手を握りながら、リュシアンの視線はつい胸元へ向いてしまう。横でカルードが咳払いをした。
「はいはい。分かってます。すぐに着替えるわ。それから、このことはお母様には内緒にね」
「もちろんですよ。僕だってまた何を言われるか分からない」
 彼女は、笑いながらリュシアンに手を振った。
「それじゃ。リュシアン。またね」
「は、はい」
 階段を上がってゆくその後ろ姿を、ため息をつくカルードの横で、少年はいつまでも見つめていた。

「さて、ここが当分のお前の部屋だ」
 カルードに連れられ三階に戻ったリュシアンは、案内された部屋に荷物を置いた。下男としての仕事は明日からということで、今日はまだお客扱いだった。侍女が運んできたハーブの香りのお茶をすすりながら、彼が考えていたのは、さっきの女性のことだった。
(マリーンさんていうのか。あの人。綺麗だったなあ……とても)
 ちらりと垣間見えた胸元を思い出し、リュシアンは赤面した。
「どうした?さっきからずっと黙りこくって」
「うん。あの……カルードにはお姉さんがいたんだね?」
「ああ。前に言わなかったか」
「うん。でもそういえば俺、ずっと前にもここに来たことがあるみたいだね。もしかして、そのときに会ったことがあるのかも」
「そうだな。お前の親父さん、ロワール隊長がおられた頃だからな。確かあれは、俺の騎士隊への入隊記念のパーティだったかな。ロワール卿とお前、それにお前の母上も一緒にこの屋敷に来たっけな。そのときにたぶん姉上のことも紹介したと思うが、なにせお前は小さかったしな。そのときは俺が十四で、姉上が十七だったと思う」
「カルードは今二十歳だったよね?」
「ああ」
「ということは、マリーンさんは二十三歳かあ……」
(八つ年上なんだ……)
「それがどうかしたか?」
「あ、ああ……いや。そのう、ずいぶん綺麗なお姉様だなと。その、もう、け、結婚とかは、しているのかな……とか」
「いや。まだ独り身だよ姉上は」
 カルードは笑いながら答えた。
「それが母上にとっても頭痛のたねのようだけどな。まあ、二十歳を過ぎれば普通、貴族の間では貰い手のない遅れ姫と笑い話にされる。母上はいつもそのことで愚痴をこぼすんだが、なにせ姉はあの調子だし、それに少し気も強いしな、そのへんの令嬢たちのようにひらひらと優雅に振る舞って、貴族のぼっちゃんたちをひきつけるような人ではないのさ」
「ふうん。でも美人だし、やさしそうで、素敵な人だと思うけど」
「まあな。母上に似て見かけはいいんだけど。ちょっと変わっているというのかな。あまり結婚などには興味がないようだな。以前はいい結婚話もいくつか来ていたみたいだけど、結局はそれも全部断ってしまって。今だにこの屋敷でこうして、母親と二人で暮らしているというわけさ。俺からしてみれば、さっさとどこぞのいい屋敷にでも嫁いでしまえばいいのにと思うがね。二十歳を過ぎると持参金の額も上がるし、母上はそれで、いつも決まって俺に愚痴をもらすんだ。だから俺も、あまり屋敷には帰らないようにしていたんだけど。色々と面倒だからな」
(そうか……まだ結婚していないんだ。マリーンさん)
 なんとなく嬉しくなって頬を緩ませる。
(それに、今日から俺はここに泊まるんだよな。ということは、今日からあの人と一緒の屋根の下で……)
 にやにやとした笑みを浮かべ、リュシアンは幸せそうに息をはいた。しばらくして、侍女が夕食の用意が整ったことを告げにきた。



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