ケブネカイゼ 9/10ページ


  //フローラ//


 屋敷に戻った彼女は、部屋に入るなり着ていた服を脱ぎ捨てた。
「くそっ、なんだってんだ。レイナルドの奴」
 いまいましそうに吐き捨て、女物の下着まで全部放り投げると、いつものズボン姿に着替えはじめた。
「あんな奴だとは思わなかった。もう絶交だ。二度と会いになど行くものか」
 襲いかかってきたときのレイナルドの顔を思い浮かべ、ぶるっと身震いする。
「おお、いやだ。だから女の恰好をして昼間から外になど出るもんじゃないな」
 気に入りの紫のチュニックを羽織ると、彼女は鏡の前に立った。
「まあ、でも、今日は収穫だったな。フローラという名前が分かっただけでも、公爵に会いに行ったかいがあった」
 ズボンをはき、ベルトで止めるとようやくすっきりした。髪の毛は面倒なので、染めずに後ろに束ねる。そうして鏡を覗き込む。
「……うん。やっぱり少し痩せたかな。よし、今日はちゃんと食べよう。力を付けておかないから、レイナルドの馬鹿ったれにも簡単に押さえつけられちまうんだ」
 キルティスの姿に戻ると、彼は室内を歩き回り、考えはじめた。
(とにかく、フローラを探すぞ)
(彼女を見つけて、そして、今度こそ二人で……)
 気分は、昨日よりはだいぶ希望的だった。彼女の本当の名前が分かったことも大きかったが、この数日間は、自分の彼女への気持ち、自分がいかに彼女を必要かということに、改めて気づいた時間だったのだ。
(たとえ、僕が女でも、君は僕に、今までのように笑いかけてくれるだろうか?)
 まずなによりも、それを確かめたかった。
(今度彼女に会ったら、勇気を出して、まず自分自身を告白しよう)
(よし。まずは、町で聞き込んで、彼女を探してみよう)
 部屋を出たキルティスは、早足で階段を降りた。
 ふと窓の外を見ると、ちょうど一台の馬車が、屋敷から出てゆくところだった。
「あれは……」
 黒塗りの車体に金の装飾をほどこしたその馬車は、ロイベルト侯爵のものだった。
(奴め、こんな早い時間に屋敷に戻っていたのか)
(……にしても、今頃どこへゆくんだ?)
(そういえば、さっき私が屋敷に戻ったとき、リュプリックの様子がなんとなく妙だったな)
 奇妙な胸騒ぎがした。
 口元を引き締めると、キルティスは階段を駆け降りた。
「リュプリック!リュプリックはいるか」
 エントランスを歩きながら大声で呼ぶと、階段裏にある執事用の部屋から男が現れた。
「お呼びでございますか。キルティス様」
 落ち着いた、無表情の顔つきが、今日はやけにしゃくにさわる。
「さっき馬車が出ていったな」
 キルティスは鋭い口調で尋ねた。
「侯爵が戻っていたのか?」
「さようで」
「どこへ行った?」
 執事は答えなかった。
「侯爵はどこへ行った、と聞いている」
「申し上げられません」
「なんだと……この」
 キルティスはかっとなったが、それから、凍りついたように立ちすくんだ。
 ひきつらせた口元から、言葉にならないつぶやきがもれる。
「あ……、」
 彼は、己の中でたった今組み合わさったその恐ろしい考えに、取りつかれていた。
「そんなことが……まさか」
「キルティス様?」
 宙をみすえたままのキルティスに、執事が声をかける。
「ああ……」
「どちらへ行かれます?」
 執事の声など聞こえぬ様子で、おぼつかぬ足取りで歩きだす。
 その目には異様な光が宿っていた。それから、いきなり我に帰ったように大きく目を見開くと、まるで悪魔に追われる者のように、屋敷の外へ走り出した。
(ああ……そんな、そんなことが)
 馬に飛び乗ると、手綱を握りしめ、そのまま屋敷を飛び出した。
 馬を走らせながら、頭の中ではぐるぐると、これまでの色々な場面や言葉などが、ごちゃ混ぜになって渦巻いていた。それでも、彼は心の中で必至に首を振りつづけた。
(そんな馬鹿なことが、まさか……)
 二手に別れた馬車道を左右に見回すと、左手に黒い馬車の影が見えた。彼はためらうことなく、その後を追った。
(確かめなければ……)
 キルティスは、馬車を見失わないほどの距離で後ろにつき、馬を歩かせた。
 前をゆく馬車は、市街へ向かう通りとは反対の、高台の方に向かっているようだった。このあたりは貴族の別邸が点在する、緑豊かな都市郊外である。
 夫である侯爵の別邸が、この辺りにもあるのは知っていた。侯爵は、正妻であるケブネカイゼの他にも何人かの妻たちを持ち、いくつかの屋敷を往復して過ごしているのだ。
 ゆるやかな丘を登ってゆく黒い馬車を前に見据え、手綱を握るキルティスの手は、震えだしていた。ここで引き返すべきかと、何度も自分の心に問い掛ける。
 馬車はやがて、林に囲まれた私道に入り、さらにゆくと、その先に白い門が見えた。
 やや古めかしいが、かつては雅びな貴族の別荘であったと思わせる、緑の屋根の石造りの屋敷があった。馬車はその屋敷の門に吸い込まれていった。
 キルティスは少し離れて馬から降りた。木立に入って馬をつなぐと、彼は小走りで屋敷に近づいていった。
 門の内側は、手入れのなされていない伸びきったイチイの木が両側に並び、その先の玄関前に馬車が止められているのが見える。灌木に隠れながら、キルティスは周りの様子をうかがった。ややあって馬車から降りてきたのは、やはり彼女の夫であるロイベルト侯爵だった。侯爵は機嫌が良さそうに軽やかな足どりで、屋敷に入っていった。
 キルティスは、誰も出てこないのを見計らって、屋敷の裏手のへ歩きだした。
 荒石造りの白壁を右手に、建物づたいに回って中庭に入る。少し茶色くなりかかった芝生が広がる中庭には、ビオラやデージーなどの花々が植えられた小さな花壇があった。どうやら、手入れがなされたのはごく最近のようで、いくつかの花壇は、まだ雑草に覆われたままだった。
「さて……と」
 これからどうするかと、キルティスは考えた。
 辺りに人の様子はない。建物のどこかに中に入れそうな窓がないかと、キルティスは屋敷の壁ぞいを歩いた。
 空は真っ青に晴れ渡り、木立からは、チチチと鳥の鳴き声が聞こえてくる。朝一番でサーモンド公爵を訪れ、その帰りにレイナルドの隠れ家に寄ってと、思いがけず長い一日となったが、あまり疲れはなかった。むしろ、精神は研ぎ澄まされている感じがした。
 ふと、どこかから人の声らしきものが聞こえたようだった。
「向こうか……」
 にわかに緊張してくるのを抑えながら、キルティスはそちらに近づいた。
 狭い裏庭に面したひとつの窓から、今度ははっきりと声が聞こえた。
 女の声だ。
 囁きのような……なにか、呻きのような。
 窓に近づくにつれ、しだいに手が汗ばんでくる。
 ひどく嫌な予感がする。
 見ないほうが良い。このままどこかへ走り出したい。
 彼はそう思った。
 芝生を踏みしめる足が震える。
(確かめなくては。確かめるんだ……)
 唇を引き結ぶと、口の中でかちかちと歯が音を立てる。
 バラの飾り窓の向こうに、何かがうごめいてるのが見えた。
 窓を覗き込む勇気が持てず、キルティスは屋敷の外壁に背を付けた。
 心臓が高鳴り、背中に汗が流れ落ちた。
(確かめるんだ……)
 キルティスの頭の中には、ずっと耳元に響いていた言葉たちが、終日を告げる鐘のように一斉に鳴り出していた。
(ケブネカイゼ)
(わしはある不幸な女に屋敷を与えようと思う)
(正妻の座はお前のものだよ)
 歪んだ侯爵の顔と、サーモンド公の侍女の言葉が重なり、
(とにかく真面目な子で……貧しい農家の生まれなんですが、自分が働いて、家族を助けるんだって……)
(キルティス、あの娘はあきらめろ)
 うったえるようなレイナルドのまなざし、
(ベリスの花言葉は……)
(私にはその花は、ふさわしくありません)
 シャルラインのはかなげな笑顔が、現れ、消える。
(キルティスさま……)
(キルティス)
(おお、ケブネカイゼ……)
(キルティスさま)
 ぐるぐると、しだいに世界が回ってゆく。
 一つ一つの言葉、人々の表情が次々に浮かんで消え、
 ケブネカイゼという自分、キルティスという自分、
 誰が誰なのか、それすらも分からなくなる黄昏の時間が……
 頭の中で鳴り響く、それらの言葉と声とに、今すぐ耳を塞いで逃げ出したかった。
「確かめるんだ。確かめろ……」
 青ざめた顔で自らに向かってつぶやき、彼はのろのろと窓に顔を寄せた。
 そこから室内をのぞきこんだ。
 まず、見えるのは、室内の黄ばんだ白い壁、
 それから、バラの花瓶が置かれたテーブル、
 そこで、
 女のうめき声が聞こえている。
 息が苦しい。
 キルティスは、それを見た。
 寝台の上でうごめくふたつの体、
 自分の口から荒い息が漏れるのを、キルティスは遠くに聞いた。
 寝台の女が喘いだ。
 侯爵に覆いかぶされ、口づけをされ、悲鳴のような呻きをもらして……
(違う。違う。違う)
 彼は必死に叫んだ。
 白い顔。噛みしめた唇に、きつく目を閉じて、苦しそうに声を上げる、
 その顔。
(違う……違う)
 心の中で何度も否定しながら、それでも彼は見ていた。
 張り裂けんばかりに見開かれた目で。
(シャルライン……フローラ)
(あああ……)
 そのとき彼が見ていたのは、自分であった。
 かつての、十五年前の自分。
 彼の目の前で、苦痛と屈辱に泣き喘ぐのは、彼であり、彼女自身だった。
(じっとしているんだ、ケブネカイゼ)
 恐ろしい男のまなざし。
(いやだ。いや。お父様、助けて!お父さまあ!)
(お前は今日から私の妻にになったのだよ。だからね、お前はもう私のものなのだ)
(いや!やめて、痛い……、お父様!助けて……助けて!)
(無駄だよ。父上はもう帰った。お前を私のもとに残してね。もう話はついているのだ)
(そんなの嘘よ!嘘だわ)
(嘘なのものか。お前は私に買われたのだ。妻に娶ってやるだけでも有り難く思うのだ)
(いやあ。いやだあ!お父様ああ)
(静かにしているのだ。今お前を女にしてやるのだから)
(あああ……いやあ。痛い……いやよう!)
(いい子だ。ケブネカイゼ。そのままじっとしておいで)
(あああ……いやあ……ああ。お父様……)
(あああ……あああ)
 世界が回る。ぐるぐると。
「う……っ」
 キルティスは窓の外で崩れ落ちた。
 手で口を押さえ、頭を地面に突っ伏して、彼は激しく嗚咽した。
「おう……おお……」
 得体の知れない、黒いどろどろしたものが、頭の中からはじけだし、体中に広がってゆく。
「あ……うぐう……うう」
 自らの手で髪を掻きむしり、彼女は声を殺して呻き続けた。
 誰かが今、自分の首を刺し貫いてくれることを願った。耐えがたい苦悶が、このまま自分を狂わせてくれることを、彼女は願った。
 西の空に傾きかけた太陽が、最後の残照を庭園の緑になげかけていた。

 どのくらい時間がたったのだろう。風が涼しかった。
 キルティスは窓辺の壁に背をもたせたまま、そこにじっと座っていた。
 部屋の中からは、もう物音も声も聞こえなくなっていた。
 寝台の上でシーツを引き寄せたシャルラインが、ふと顔を上げた。
 開いた窓から、夕刻の風が室内に流れ込んでくる。風にはためくカーテンの影に、彼が立っていた。
「……キルティス、さま?」
 無言でそこに立っている彼の顔は、今にも叫びだしそうなくらい歪んでいた。
 シャルラインの目から、涙が溢れた。
「あ……わた、わたし……」
 彼女は、ただそれだけしか言えなかった。
「シャルライン……どうして」
 キルティスは、ひどく疲れ切ったようなしわがれた声で言った。
「申し訳ありません……ああ、申し訳……」
「君は……、ああ、君は」
 わっと泣きだした彼女を見て、キルティスはこみ上げてくる怒りに体を震わせた。
「申し訳ありません!ああ……、奥様、申し訳ありません……」
「なん……だって?」
 その言葉に、キルティスの眉がつり上がる。
「なんと……、なんと言った?今、なんといった」
 彼女ははっとしたように凍りついた。
「ああ、あの……あの」
「奥様……といったな、君は。それを……それを知っていたのか?それを知って?」
 わなわなと体が震える。口もとを引きつらせ、声を絞り出す。
「ああ……そう。そう、か。君は知っていて……。そうなのか」
「お、お許しください!」
 胸の前で両手を組み合わせ、シャルラインは叫んだ。
「お許しください。ああ、わたし。……私は」
「最初から、知っていたのか。そうなのだな?そうか。だから、僕のこの髪の色を見ても驚きもしない。そうか……そうなのだな」
 彼女を冷たく見下ろし、キルティスは言った。
「最初から……初めて会ったときから、私がどこの誰だかを知っていた。そうなのだな?」
「ああ……お許しください」
 そう繰り返し、涙を落とすシャルラインを見ていると、よけいに腹立たしい心地がした。
「ああ、分かってる。分かるとも。僕だって、君のことを何も知らないわけではない。サーモンド公爵邸の炊婦をしていた娘に、フローラという名の者がいたそうだ」
 シャルラインは泣きぬれた顔を上げた。
「その娘は、貧しい農家の生まれで、自分のかせぎで家族を養わなくてはならないのだという。そして、どこかの豚侯爵に見初められ、愛人か妻かは知らないが、そうなることで家族を助けられると思ったのだろう。その娘はな。……そして、その侯爵の妻が、普段は男装している変人のにせ女だということも知っていて、利用しようとしたのだということも!」
「いいえ……いいえ、それは違います。利用しようだなんてつもりは!」
「利用じゃなければ、じゃあなんなのだい?この僕、あの豚侯爵の妻と、君はダンスを踊り、デートもした。それに何度も口づけもしたとも」
 体の奥底から沸き起こってくる訳の分からない怒りが、熱病のように彼を支配していた。
「どうしてだ。どうして、君は僕に微笑みかけたのだ?!どうして僕とキスをした?どうして……僕と、どうして……どうして!」
 シャルラインは目を伏せた。
「それは……」
「それは?」
 涙に濡れた頬を赤らめ、彼女は囁くように言った。
「あなたを……お慕いしていたからです」
「お慕い、だって?」
 キルティスは口もとを歪めた。
「君は、この僕を、本当は女なのだと知りながら……知っていながらお慕いしたってわけかい?ほう。では、君はレズビアンなのかい?」
「いいえ、違います」
 彼女はそっと目を閉じた。
「それなら……どうして」
「私は……知っています。いいえ、知りました」
 これまでの彼女とは別人のような穏やかな声。
「あなたの心と魂は、誰よりも高貴なもの」
「高貴だって?この僕が?とんでもない。ただの生まれ損ないさ、僕は」
 キルティスは自嘲気味に鼻で笑った。
「それに……君はまだ知らないのだ。僕がこれまで、どんなことをしてきたかを。そうさ、この世界に僕ほど汚れた存在もないだろうよ。体は女でも女でない。心は男でも男でない。呪われているんだ。僕という存在自体が世界には許されない、間違った人間なのさ」
「いいえ、それは違います」
 シャルラインは首を振った。
「私は知っています。私に微笑みかけてくださった、あなたの瞳の美しさを。私の手をとり、私を馬の背に乗せてくれたときの、あなたの優しい指先を。私を抱きしめてくださった、あなたの腕の震えを。あなたは汚れてなどいません。間違った人間などでもありません。少なくとも、私にとっては」
「……」
「だから、男も女もありません。あなたは、あなたのままでよいのです。私は、あなたを愛しています」
 シャルラインの目が、まっすぐに自分を見ている。キルティスはしばらく口が聞けなかった。
 黙ったまま見つめ合う二人だったが、キルティスは先に目をそらした。
「……それなら、それならどうして……、どうして君は、あの男に抱かれたのだ。それも、僕の目の前で」
「それは……」
「ああ、分かってる。家族のためだろう。君が犠牲になることで、救われるものがいるのだろう」
 再び沸き起こる、言いようのない怒りに、キルティスは拳を握りしめた。
「だが、何故なんだ?何故君は怒らない。その身を汚されたのに。何故、理不尽を呪わないのだ?誇りを奪われ、踏みにじられたのに」
「でも、それは……仕方のないことです」
 シャルラインは、奇妙なほど穏やかに言った。
「仕方ない……だって?」
 何度も首を振り、キルティスは室内を歩きだした。
「仕方ない?僕には分からない。だって君は……、怒りや憎しみは沸かないのか?分からないよ。君の言うことが……君の心も。それにこの世の中もだ!」
 まるで世界の不条理に絶望するように、彼は叫んだ。シャルラインがくすりと笑った。
「何だ?何がおかしい!」
 眉を逆立てたキルティスを、彼女はまっすぐに見つめた。
「あ、あなたはまるで……無垢なおさな子のようですわ」
「なに?」
 馬鹿にされた気がして、キルティスは思わずかっとなった。
「なんだ。よく笑っていられるな、君は!」
 キルティスはテーブルを蹴り付けた。花瓶が床に落ちて砕けた。
「キルティスさま……」
「そうか。なら、勝手にするがいい!君があの豚男の妻になりたいというのならな!」
 吐き捨てるように言うと、彼は窓を乗り越えて、庭園を駆け出した。
(くそっ!)
 こみ上げてくる怒りが胸を詰まらせる。
(くそったれだ!なにもかも)
(私も。この世界も!)
 芝生を蹴り付け、つんのめりながら、ところかまわず木の幹を殴りつけ、枝を払いのける。
 拳に血がにじみ、頬を葉で切られながら、キルティスはやみくもに走った。
(消えちまえ!なにもかも……みんな)
 怒りと絶望と後悔と……あらゆる感情が心の中で激しく渦巻いた。

 屋敷に戻ったキルティスは、自室に鍵をかけ、三日の間そこに閉じこもった。
 部屋から一歩も出ず、食事もほとんど取ろうとしない主を心配し、侍女たちは扉の外から声をかけたが返事はなかった。
 侯爵は屋敷に一度だけ戻ってきたが、妻については、体調を悪くして部屋に寝ていると知らされただけだった。妻を見舞うこともなく侯爵はすぐにまた屋敷を出ていった。
 室内はひどい有り様だった。鏡台や飾り棚は引き倒され、割れた置物や服などが床に散乱して、壁に投げつけられた椅子の残骸がばらばらに転がっていた。暗がりの中のかすかな息づかいのみが、ここにいる人間の存在を示していた。
 壁を背に、膝を抱えてじっと座っていた彼の体がぴくりと動き、ぼさぼさの髪の奥でぎろりと目が光った。その頬は、この数日でまたいっそうこけて、唇は死人のようにかさかさだった。
 狂人のように視線を泳がせる、その彼の唇からぶつぶつと呟きがもれた。
 今の彼には、立ち上がって部屋を歩き回ったり、物を叩きつけたりすることも、己の髪を掻きむしって涙を流すことすらも、もうできないようだった。怒りと悲嘆のための涙も、絶叫するための喉も、まったく枯れはて、壊れてしまったのかように。
 疲れ果て、諦め、そして絶望して、ただ彼はじっとそこに座っていた。
 今が昼なのか、夜なのかも分からない。そんなことすらもうどうでもよかった。
 自分が何を考えようが、何をしようが無意味に思えた。いっそのこと、この身をどうにかしてしまおうかとも思ったが、そうすることもできない。自ら命を絶つほどには、やはり彼は誇りを捨てきれなかったし、このまま弱々しく消えてしまうことは癪だった。
 もし死のうと思ったのなら、侯爵に身を奪われた、あの十二才のときに命を絶っていただろう。それをせず、十五年間、憎悪とともに生き、人殺しを続け、呪われた人生といえども、それを生き延びることを選んだ彼である。
(ふ……、死ぬ勇気もない、ただの臆病者なのだろう)
 自嘲気味に彼は笑った。笑う、といっても、口の端をわずかにつり上げるくらいしか、今の彼にはできなかったが。声を出すことも、もう苦痛に思えた。何も食べずに、このまま死ぬのなら、それはそれでかまわないか、とも彼は考えた。
(明後日……といっていたか。シャルラインの婚礼は……)
 さきほどリュプリックが来て、扉の前で話していったが、婚礼は立会人だけでひっそりと交わされるらしい。なにせ、身分のない女を大侯爵が娶るのであるから、妻というよりはただの妾の扱いである。
(結局、どうすることもできぬのか)
 暗がりをじっと見すえながら、彼はため息を吐いた。
(侯爵夫人だなんだと、いい気になって、気まぐれで男装したり、サロンで婦人たちの人気をとったところで……ただ一人の、愛する人間すら守れないのか、私は)
(なんて無力なのだろう。しょせん……名前を変え、男もののズボンをはき、婦人たちの前で颯爽と振る舞って、自分では本当の男になったつもりでいても、世間から見ればやはりただの女……侯爵の妻でしかないのだ。彼女を妻にしたり、家を与え、養ってゆくことなど、私にはできないのだ)
 サロンでの、貴公子然といい気になっていた自分が、ただの馬鹿者に思えた。すべては、侯爵夫人という隠れ蓑の裏側で、責任をとらずにできる遊戯でしかなかったのだ。
(私は……たぶん自分が男の姿になることで、何からも縛られずに生きているという、意味のない証を手に入れたと思っていたのだ)
(だが、結局……それはただの、ささやかな反抗……、逃避でしかない。現実から目をそむけることでしかないのだ)
 とうに涙は枯れたと思っていたが、何日かぶりに熱いものがこみ上げてきた。それは途方もない無力感と、かつての自分への憐れみにも似た涙だった。
(そんなことは分かっていた)
(分かっていたのに……、私にはそれを認める勇気がなかった)
 自分の膝に顔を埋めると、ぽたぽたと涙が床にこぼれ落ちた。
(それに、決して私だけが、あの十二才の私だけが不幸であったわけではないのに……)
(フローラだって、そう……)
(それに、他にも……一体、この世界中には、そうして、悲しい現実に耐えねばならない少女が何人いるのだろう?)
 ふと顔を上げ、彼は天井近くにある明かり取り窓を見上げた。
 その小さな夜空に光る星たちを見ながら、少しずつ、少しずつ、己の心の中で、静けさが広がってゆくのを覚えながら、
 彼ははじめて、自分の中にある、ケブネカイゼとしてのキルティスを、感じ始めていた。
「……」
 静かな夜の時間が流れてゆく。
 かれはじっと座っていた。
 起きているとも、眠っているとも分からぬ、奇妙なまどろみのなかで、
 彼の脳裏には、フローラの顔が現れては消え、また、現れた。
 キルティスの心に浮かぶときの彼女は、両手で顔を覆って涙を流していたり、花のような優しい微笑みを浮かべたりしていた。
 彼女が囁きかける。
(それは……)
(仕方のないことです)
(あなたは、まるで……)
(おさなごのようですわ)
 しみ入るように心に響く、フローラの言葉。
 知らず、キルティスは目を閉じたまま、ふっと微笑んでいた。
(そうだね)
(……ああ、そうだ)
(君はとても強かったんだね。フローラ)
(君は、自らの運命を嘆きもせず、僕のように、どす黒い憎悪に染まって誰かを呪いもせず)
(きみはただ、ただ……はかなげに微笑んでいたね)
 風がふいた。
 閉め切っていた窓の隙間から、涼しい風がそよぎ、
 ゆっくりと、キルティスは立ち上がっていた。
 長い間動かずにいて、膝がひどく痛んだ。
 風に誘われるように、窓を開け、はだしのままで外に出た。
 ひんやりとした土の感触。月明かりのもとを、彼は歩きだした。
 屋敷の門を抜け、誰もいない通りを、ゆっくりと、何かに導かれるようにして。
 夜の通りを歩き続けた。風が背中を後押しした。
 長いこと歩きつづけ、彼はよく見知った場所に来た。
 庭園の芝生を抜けて、奥まった木立に分け入って、
 その場所に来ると、彼は地面に膝をついた。
 木々の間で、白いバーベナの花が月光に照らされていた。
 シャルラインに手を引かれて見つけた、小さな花畑。
 彼は土の上に座り込んだ。
 あのとき咲き誇っていたベリスとバーベナの花は、今は盛りを過ぎ、花を付けているのはごくわずかだけだった。
 それでも、目を閉じると、かすかな花の香りが彼を包んた。小さな花びらに手を触れると、あのときの時間が蘇ってくるようだった。
 シャルラインと過ごした日々……彼女の細い手をとって歩いたこの庭園、彼女の忘れがたいあのはかなげな微笑み、風そよぐ草原で馬を降りて、二人で見つめた夕日、あのときの彼女の目の輝き。白いバーベナの花を見ながら、キルティスはそれらを思い起こしていた。
(はじめて会ったとき、はじめて君を見たときから、僕は何故だかとても、君のことが気になって仕方がなかった)
(それは何故だったのだろうとずっと思っていた)
(でも……もう分かったよ)
 キルティスは微笑んでいた。
(それは、きっと……君が、僕と同じような境遇だったからなのだね)
(初めてのダンスを踊ったとき、君は笑顔の中にもどこかに悲しみをひそめた目をしていた)
(君は僕にはないものをたくさん持っていた。優しさや、慎ましやかなところや、それに静かな強さも)
(僕が君にこれほどまでに惹かれたのは、きっとそのため)
(君は勇敢だったんだ。じっさいは、きっと……僕よりもね)
 花の香りを含んだ風の囁きが、彼の頬を撫でつけた。
 今、確かにフローラを……その心までもを、彼は近くに感じていた。
(ためらいがちな微笑みで、君は僕をここに誘った)
(君は……)
 キルティスの目から、涙が流れた。
(はじめから、こうなることは決まっていたというのに)
(君は……ああ、君は)
(花の美しさに純真に喜びながら、僕の手を引いてくれた)
(君は、草原の風に髪をなびかせながら、戻らない時間を嘆くこともなく、ただそっと目を閉じていた)
 小さな白い花にそっと触れせ、キルティスは心の中で囁きかけた。
(それでは君は……自分のその運命を、不幸や苦痛さえも、受け入れていたというの?)
(僕が、世間の男たちを憎悪し、短剣を握り、殺しつづけていたあいだにも)
(君は……君は世界に絶望することもなく、己の不幸せを嘆くこともなく、ただ<僕をそっと思い続けていてくれたというの?)
(僕、は……)
 彼女の微笑み。はかないけれども、けっして恐れてはいない、その静かな、強き微笑。
 涙に頬を濡らしながら、彼女は自分に言ったのだ。その言葉を。
(男も女もありません)
(……私は、あなたを愛します)
 キルティスは立ち上がると、近くの木の幹に拳をぶつけた。
「ああ……!」
(僕は、なにを見ていたんだろう?)
(僕は、なんという馬鹿なんだ!)
 その頬に、幾筋もの涙が伝った。
(私はあなたを愛します)
(ああ……あれが真実でないのなら、一体なにが真実か!)
(彼女がそれを言うのに、どれほどの勇気が必要だったかも知らずに。僕は……)
 心の中で、フローラの言葉が、輝きを増して響いてゆく。
(あなたは、あなたのままで良いのです)
(あなたのままで……)
 全身の血が駆けめぐるような、はじめての高揚を、キルティスは感じていた。
(僕が求めていたすべては、その言葉だったんだ!)
 あふれる涙をぬぐいもせず、彼は天を見上げた。
 静かなる力が、全身を包み込んでゆくような、そんな気分だった。
 どのくらいの時間、そこにじっとしていただろう。
 目を閉じて息を整えると、今しがたの激しい高ぶりは、ひとまずは去っていった。
 木にもたれかかっていた体を起こし、彼は、ゆるやかに白みはじめた暁の空を見上げた。
(僕は命をかけよう……)
 揺るぎない静かな言葉が、その心に生まれた。
(世間と体面とを気にして、運命から逃げていたのは僕だ)
(ケブネカイゼを憎み、キルティスを利用していたのは、僕だ)
(弱かったのは、僕だ)
(ああ……)
 手にしていたベーベナの花を胸にかざし、彼は祈るように目を閉じた。
(シャルライン……いや。フローラ。僕に、僕に最後の勇気を……)
 最初の陽光が東の空にきらめき、梢の緑が、黄金の光を受けて輝いた。
 朝日が彼の行く手を照らした。
 怒りや絶望からではなく、己の内で自然に灯されたかすかな光、
 それに導かれるように。
 彼は歩きだした。




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