ケブネカイゼ 5/10ページ
//レイナルド//
目を開けたとき、彼女は、自分が見知らぬ部屋に寝かされていることに気がついた。
頭上の明かり取り窓から、朝の光が部屋の中に差し込んでいる。寝台の上で起き上がると、彼女はまぶしそうにまばたきをした。
「う……、ここは……」
腰から下にかけて、鈍い痛みが残っていた。
「いたた……、そうか、私は……」
少しずつ、昨夜のことが思い出される。自分が殺した名も知らぬ男の顔が、うっすらと脳裏によみがえってくる。
(うう……思い出しても気持ち悪い)
彼女はぶるっと体を震わせた。自分の腕にはまだ、あの男の手の感触が残っている。
(ああ。思いだしたぞ。それから部屋をノックする音がして、あわてて窓から飛び下りて逃げたんだ。でも体が痛くて走れなかった……)
そして、追手に追いつかれ、もうだめだと思ったとき、誰かの手が差し出された。
(助かった……といっていいのかな。これは。ということは、ここはそいつの……)
注意深く部屋を見回してみる。そう広くはない、この古びた寝台と、使い古された長持ちが一つあるだけの殺風景な部屋だ。
それから自分の身の回りを確かめると、持っていたはずの短剣がないことに気づいた。それどころか、彼女が着せられていたのは男物のチュニックで、その下は全裸のままだった。
痛みをこらえて寝台から立ち上がると、彼女は部屋の扉を開けた。鍵はかかっていない。
扉の外は短い廊下になっていて、左手に階段が見えた。
「いつつ……くそっ」
下半身の痛みに顔をしかめつつ、手すりにつかまり階段を降りてゆく。
一階は、少し広い居間になっていた。煉瓦造りの暖炉の前にはテーブルと長椅子があり、そこに見知らぬ男が腰掛けていた。黒い髪の、まだ若い男だ。
「おお、起きたかい」
こちらを向いた男が言った。男は短剣を研いでいるようだった。
「それは……私の短剣だ」
「よく寝てたな。気分はどうだい」
「よくはない。勝手に私にこんなものを着せて……私に触ったな」
相手が自分を助けた恩人などということにはかまいもせず、彼女は刺々しく言った。男は一瞬むっとした顔をしたが、すぐににやりと笑った。
「そりゃあ、あんな血まみれの服を着せたままで、俺のベッドに寝かせるわけにはいかなかったんでな。それに、あんたに触らなきゃ着替えさせられないだろう」
「勝手なことを」
「あんたの短剣にも血が付いていたよ。手入れもしていないようだな。あれじゃ切れ味もよくはないだろう。とくに人を刺したりする場合はな」
彼女は眉をつり上げた。
「おっと。そんな顔はないだろう。命の恩人に対して。せっかく助けてやったのに」
「頼んでなどいない」
吐き捨てるように言うと、キルティスは男を睨みつけた。
「わたしの何を知っている?見たのか?」
「見たって、なにをだ?あんたが人を殺すところをかな?」
「き、さま……何故それを知っている!」
「やっぱりそうか」
男はにやりと笑った。
「きさま……、きさまは……」
「まだ名前は言ってなかったよな。俺の名はレイナルド。けちな泥棒だよ」
「泥棒……だと」
レイナルドと名乗ったのは、黒い髪と灰色がかった緑の目をした、まだ二十代半ばほどの男だった。その顔に不敵な笑いを浮かべているのが、いかにも油断のならなそうな印象である。
「泥棒といってもさ、それは俺の夜の顔。昼間は普通の都市貴族として暮らしている。だからあんたのゆくサロンにも何度か行ったことはあるのさ」
「……」
「あんたが男のなりをして、毎夜の殺しにいそしんでいるとき、俺は金持ちの貴族の家に忍び込んで、金銀宝石をいただているってわけ。それにしてまさか殺しの犯人が、男装の麗人だったとはねえ。驚き驚き」
なんといったらよいものかと探るように、キルティスは黙って男を見ていた。ただちにこの男に飛び掛かって、息の根を止めるべきかとも考えたが、それも今の体力では無理そうだった。
「くそっ。とにかく何か着るものをくれ」
「ああ、いいよ。でも女物はないけどいいかい?」
自分で言ったことがよほど面白かったのか、男はくっくっと笑った。
「なんでもいい。ズボンとブーツ……いや履くものは何でもいい。それから髪を結ぶものがあると助かる」
「はいはい。今お持ちしますよお姫さま。ついでにもうすぐスープが出来るから、座って待っていなよ」
いちいちしゃくにさわる物言いだったが、彼女は口を引き結んだだけで何も言い返さなかった。体の痛みがまだあったのと、じっさいお腹がすいてもいたからだ。
男の用意した服に着替えると、二人はテーブルに向かい合って食事をとった。
「どうだい?このスープは。なかなかいけるだろう?」
「悪くはない」
彼女はぼそりと言った。食事は豆のスープにパンだけの質素なものだったが、それは、体に染み渡るような、なにかなつかしい味がした。
いつものように髪をまとめてたばね、男物のチュニックにズボン、長靴下を身につけた彼女は、すっかりもう「キルティス」そのものだった。ただし髪を染めることはできなかったので、輝くような金髪はそのままではあったが。
「ふーん。やっぱり似合うねえ。そういう恰好が。やっぱりあんた、ただの女じゃないんだなあ。見た目もそうだが、話し方といい、その声といい」
「いちいち私のことを女と言うな。そんな言葉聞きたくもない」
「ああ……分かったよ。もう言わないよ。あんたのことを女、なんてな。女、っぽくないもんなどう見ても。女、なんてもう言わないことにするよ」
キルティスはぎろりと鋭く相手を見た。レイナルドは笑っていた。
「ごちそうになった」
スープを飲み干し、パンをたいらげると、彼女はスプーンを置いた。
「これは……みんなお前が作ったのか?」
「ああ、そうさ。このスープ、うまかっただろう」
「まあ……」
「ここは俺の家だからな。といっても普段は夜しか使わない家なんだが」
「侍女や炊婦はいないのか?」
少し興味を持ったようにキルティスは尋ねてみた。
「そりゃそうだ。だって俺は泥棒なんだぜ。いわばここは隠れ家だ。そんなものを雇っていたらすぐに足がついて護民兵にふんじばられちまう」
「隠れ家か……確かに。こんなボロ家、見たことがないな」
狭い室内をまじまじと見回して、彼女はくすっと笑いを漏らした。
「ああ、悪かったね。でもここは俺様の城さ。どんな大貴族の屋敷よりもぐっすりと眠れる。それに、豆のスープも味わえる」
レイナルドはそう言って片目をつぶった。
「しかし……あんたも俺も、よく考えれば似た者みたいだな」
「私と……お前が?」
「だってそうだろう。俺は夜は泥棒のレイナルドになり、あんたは女の恰好をし人を殺す……おっとそう怖い顔しなさんな。もう同じスープを飲んで同じ服を着合った仲じゃないか」
テーブルの下からワインの瓶をとり出し、楽しそうにレイナルドは言った。
「昼間はあんたはキルティスという男になり、俺は都市貴族として真面目に暮らしているわけだ。お互い別の顔をもって、二通りの生活を生きている。こりゃ似た者といわずしてなんとするよ」
「ではレイナルドというお前の名前は、泥棒のときの名でしかないのだな。本当の名はなんというのだ?」
「それなら、あんたの名前も教えて欲しいね。うるわしの金髪の美女のお名前を」
「私は、キルティスだ」
「じゃあ俺もレイナルドだ」
二人はテーブルをはさんで、しばらく睨み合うように見つめ合った。
「まあいい。お前の本当の名などに興味はないからな」
先に目をそらしたのはキルティスだった。
「だが、俺はあんたのお名前に実に興味があるね」
「……」
彼女は、自分がこの男によけいなことを漏らさなかったかどうか思い返した。万が一、ケブネカイゼの名を知られてしまっては面倒なことになる。それは彼女にとっては、すべての破滅につながるのだった。
「お前は……私を宮廷騎士隊に突き出さないのか?」
「どうしてだ?」
驚いたように男が言った。
「だって、お前は知っているのだろう。私が人を殺していたことを」
「ああ」
ワインをなみなみと杯に注いで、レイナルドは言った。
「あんたを騎士に突き出すだって?そんなことするくらいなら助けたりはしないさ。なぜって、俺も泥棒だからな。あんたが捕まったら、つまるところ俺だって捕まるさ。人殺しも泥棒も、捕まったら、見せしめに縛り首か市中引回しであの世行きだ」
そう言って、指で首をはねるそぶりをする。
「おおこわ。それに、あんただって、たぶん俺を通報したりはしないだろう?」
「それは……そうだが。では何故、お前は私を助けたのだ」
「あんたも飲むかい?」
キルティスはうなずいた。杯にワインを注ぎ、男は乾杯のそぶりをしてそれを飲んだ。
「別に、意味はないさ。ただ……あんたがなんだか気になったんでな」
「気になった?」
「そう。というか、あんた美人だしな。あんたがあのサロンで人気の貴公子、キルティスさんだと気づいたのは、気を失ったあんたの顔を見ていて、似ているなと思ってさ。それに、その声も特徴的だよな。女にしてはかすれた声で」
「……」
キルティスもぐいとワインを飲み干した。ふくよかな味のする濃密な液体がのどを通ると、少し気分が落ちついてきた。
「この声は……もとからじゃない」
彼女はつぶやくように言った。
「十四のときに、水銀を飲んで喉をつぶしたんだ。私はそのときに、女を捨てたんでな」
「ほう」
「そうさ。だから私はもう女などではない。夜、この髪の色で男に抱かれ、そして男を殺すときもな。心はもう、女などではない」
彼女の目の中に、恐ろしい光がきらめくのを、男は見た。
「あんたは……、どうして。どうして、そんなにして人を殺すんだ?なにか、恨みでも?」
「恨みだって?恨み……。そんなものでは言い尽くせはしない」
キルティスの眉間に皺が寄り、その口許がつり上がった。
「私はね……クッ、……私は、」
その唇から、絞り出すような、かすれた声がもれた。
「世の中の、くそったれ男どもを……ぶち殺して、ぶち殺して……、」
凄まじい憎悪の光を宿した、目の前の人間に、男は息をのんだ。
「ぶち殺すんだよ……」
「……」
どちらも、しばらく何も言わなかった。
ぶるぶると震える拳を見つめ、キルティスが息をついた。その目から毒々しいものは消えていた。レイナルドはほっとした様子で額をぬぐった。
「……すまなかったな」
少し恥ずかしそうに、彼女は言った。
「関わりのないお前に、こんなところを見せても仕方がなかったのに、つい気が高ぶって」
「まだ体が痛むんだろう。しばらく休んでいた方がいい」
「すまないが、そうさせてもらえると有り難い」
力なく微笑んだ青白い顔を見て、レイナルドは尋ねていた。
「だが、何故だ……何故きみは、そんなにまでして……」
「お前には分からないだろう」
キルティスは、ふっと笑った。
「殴られて、犯されて……また殴られるんだよ。そんな気持ちかあんたに分かるかい?」
男は黙って首を振った。
「それでいい。簡単に分かられちゃたまらない」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「二階のベッドを借りていいかい」
キルティスの体の衰弱は思ったよりもひどく、それから数日間は外に出られなかった。一日の半分をベッドの上で過ごし、時に眠り、ときに目を開いたまま、じっと何かを考えるように天井を見上げながら。
レイナルドは、自分の寝台が占領されたことに関しては、文句のひとつも言わず、一日に二度、彼女のために料理を作った。また、医学の知識も多少はあるらしく、どこから手に入れてきたのか湿布薬を持ってきて、恥ずかしがるキルティスの腰に塗ってやったりもした。
そうして二日がたち、三日がたつと、彼女の体はずっと回復してきて、普通に歩いたり、動いたりできるまでになった。
「ところで、そろそろ聞いたほうがいいと思っていたんだが」
この家での三日目の夕食のときに、レイナルドはそう切り出した。キルティスも、最初の頃よりは、だいぶ打ち解けた気分になっていた。もちろん、完全にすべてを信頼していたわけではなかったが、それでも、少なくともこの陽気で話好きの男が、自分に対して悪意をもってはいないということはどうやら確かなようであった。
「つまり、その、あんたの家……というか、お屋敷に連絡をしなくていいものか、ってね」
「なんだって?」
一瞬、キルティスは物騒な顔つきで眉をつり上げた。
「そう怒るなよ」
「べつに怒ってはいない。それで?私の屋敷がなんだって?」
「ああ、だからさ。あんたも、たぶん……俺もそうだが、貴族の人間だろう。つまり、家族もいるし自分の本当の屋敷もある。そのあんたがこうして三日間もここにいて、屋敷の人達はさぞ心配しているのではないかなと思ってさ」
黙っているキルティスに、男はあわてて付け足した。
「ああ、俺は別にかまわないんだ。俺の屋敷はまあ人が多いし、俺一人がしばらく帰らなくても誰も気にもとめない。だからこそ、こんな稼業がなりたつんだがね。でもあんたは……あんたは、女だし。どこぞの貴族令嬢か伯爵夫人か知らないが、つまり、身分ある貴族のご婦人が三日間も屋敷に戻らなかったら、やっぱりまずいんじゃないかとさ」
「よけいな心配は無用だ。そんなことは、お前には関係がない。それは、助けてもらい、こうして家にかくまってもらい、食事までもらって、お前には感謝しているが。しかし、そこまでお前に心配してもらう必要はない。私は、私で勝手にやる。私の屋敷がどこだろうと、私がなんだろうと、誰が心配していようと、そんなことはお前とは関わりがないことだ。違うか?」
「まあ、そりゃそうだがね」
男は苦笑した。
「そう言うとは思ったが、でもさ、万が一……万が一、あんたを探すために、騎士隊や護民兵たちが動いて、ここを発見するようなことがあったら、それは俺の命にもかかわることだ。そうだろう?」
「……」
「貴族の令嬢であれば……あ、失礼、令嬢って言葉は使ってもていいんだっけ?……あんたを見ていると、もしやけっこうな家名の貴族なんじゃないかと思ったからさ、そうだったらなおのことお嬢様がいなくなった、奥様がいなくなった、って大騒ぎになるんじゃないかと」
「そんなことにはならない」
きっぱりとキルティスは言い放った。
「お前にも事情があるように、私にも事情があるのでな。安心していい。屋敷の連中が、私を探すために騎士隊を雇ったり、護民官に通報したりすることはありえない。だから、そんなことは気にしなくてけっこう」
「ああ、分かったよ。それならいいさ」
「……」
彼女は無表情を装いながらも 男の口に出た、「奥様」とか「伯爵夫人」という言葉に、内心はひどく苦痛を感じていた。
(もし私が……伯爵どころか、侯爵夫人だと知ったら、お前はどんな顔をするのだろうな。ロイベルト侯爵夫人ケブネカイゼ。それが私の名だと知れば)
(それに、……シャルラインは)
ふとよぎったその名前に、彼女は体が震えるのを感じた。
(シャルライン……)
無邪気な笑い声、おずおずとした控えめな笑顔が思い浮かぶ。
(……会いたいな)
キルティスは心の中でそうつぶやいた。そして自分で驚いた。
今までも、サロンの女性たちと仲良くなってつき合ったりしたことは何度もあった。自分の秘密を知られてはならないので、相手とベッドを共にするまではなかったが。それでも女性の扱いや、自分が女性に対して、可愛いとか愛しいとか思う気持ちは、たくさん味わってきた。
だから、今のシャルラインに対する気持ちも、そういうちょっとした、「恋愛一歩手前」の感情なのだろう。彼女はそう思った。
(でも……、なんだか本当に会いたくなってきたな。あの娘に)
考えはじめると、彼女の可愛らしい声が頭の中にあふれてくる。二人でダンスをしたときのつないだ手のぬくもり、庭園の木陰で口づけをしたときの唇の感触までもが、蘇ってきて、キルティスは思わず赤面した。
(私は、どうかしているのかも。熱があるのかな。まだ体調が戻っていないからか)
「どうした?ぼんやりして」
「ああ……、いや、なんでもない」
「そうか。それならいいんだが。体はだいぶ良くなったみたいだな」
「ああ。おかげで痛みはほとんどなくなった。お前の薬が効いたのだな。その……世話になった。この礼はいつか返させてもらおうと思っている」
「まあ、いいってことよ」
嬉しそうにレイナルドは言った。
「言ったろう。俺はあんたに興味があるって。いや、誤解するなよ。あんたを……その、女性としてなんとかってんじゃなく、まあ、同じように二つの顔を持つもの同志、面白い奴だと思ったわけで。勝手に助けて世話をやいただけだよ。気にするな」
「お前は、けっこういい奴なんだな。レイナルド」
「おお。初めて名前で呼んでくれましたな。キルティスくん」
「そうだったか?」
「そうさ。三日前のあんたったら、まるで俺のことを、仇でも見るような目で睨んでいたものな。世の中の男をなんとか……って」
キルティスはくすりと笑った。顔を見合わせて、二人は声を上げて笑った。
「それで、世話になったついでに、もうひとつ頼みがあるんだが」
「なんだ?この家はやらんぞ。狭くてボロだが俺の城だからな」
「いや違うよ。そのう」
長い金色の髪を撫でながら、彼女はいたずらそうな目をくるめかせた。
翌日、キルティスは久しぶりにウィックリフ伯夫人の別邸を訪れた。
馴染みのサロンだというのに、門をくぐるときにはひどく緊張した。たった数日ぶりであったが、もう何ヵ月も来ていなかったような気がする。下男に案内されて屋敷の回廊を歩く間も、もしかして自分が殺人鬼として手配されてしまっているのではないか、などという不安がこみ上げてくる。
「キルティス様がお越しです」
扉を開けて下男が告げたとき、広間の婦人たちがはっとしたように静まった。
「……」
キルティスは、内心の緊張を隠しつつ、広間に足を踏み入れた。だが、サロンはそれまでとなにも変わらなかった。優雅な音楽は鳴りやまず、そこに彼を取り押さえる騎士も、嫌悪の顔つきで自分を指さす人々もいなかった。
「まあ……。まあ、キルティス様。お久しぶり」
さっそく、何人かの婦人たちが、周りに集まってきた。
「いったいどうなされたのかと心配いたしましたわ」
「本当に。なにかお病気でもされたのかと」
「お元気そうでなによりですわ」
顔なじみの婦人たち……オードレリン伯婦人にマルガレーテ、エルメガルド伯夫人、そしてクリセンテを前に、キルティスは笑いかけた。
「ああ、皆さん御無沙汰してました。僕はこのとおり元気ですよ。ご心配をおかけして」
一人一人にうなずきかけ、その手にキスをしながら、キルティスは、自分の居場所がまだあったという、大きな安堵感に包まれていた。
「本当に大丈夫ですの?どこかお体がお悪かったののでしょうか」
「ありがとう。エルメガルド伯夫人。ご心配をおかけしましたね。少し頭がいたくて休んでいただけ。今はこの通り、ぴんぴんしています。よろしかったら後で一曲いかが?」
「は、はい」
「まあ。キルティス様、一番は私ですわ。今度パヴァーヌのステップを教えてくださると約束していましたもの」
「もちろん。マルガレーテ。鮮やかなペオニアの花のようなあなた。久しぶりに見るとまた一段と美しい」
「ああ、キルティス様。お久しぶりでございます」
「やあ。クリセンテ。可愛らしい君。僕がいない間に誰か良いご子爵でも見つけたかい?」
「そんなことあるわけないです。私はずっと、キルティス様が戻られるのを待っていました」
「ところで、キルティス様。その頭は……」
婦人の一人が、キルティスの黒い髪を指さした。
「ああ、おかしいかな?たまには気分を変えようと思って。僕にはかつらは似合わない?」
「いいえ。よくお似合いですわ」
「ほんと、なんだかエキゾチックでどきどきします」
婦人たちがはしゃぐのを見回して、キルティスは頭に手をやった。ここに来るのに金髪ではまずかろうと、レイナルドに頼んで借りたのだ。キルティスとして髪を茶色く染めるには、屋敷に戻らなくてはならないので、これは間に合わせの考えだった。
周りの反応にすっかり安心すると、キルティスはいつものように婦人たちと饒舌に会話を楽しんだ。
「それでは、キルティス様、あとで」
「ダンスの約束、お忘れにならないでくださいまし」
ダンスの約束を取り付けると、婦人たちは広間に散っていった。彼のそばには、オードレリン伯夫人のみが残っていた。
「大変ですわね。皆さんと踊る約束をしてしまわれて」
「ああ。でも、嬉しいですよ。三日もたって、僕のことなどすっかり忘れてしまっているのではないかと思っていたので」
「まさか」
夫人はくすりと笑った。
「キルティス様がお見えにならない間、皆さんずっとつまらなさそうにしていましたのよ。それにあれやこれやと心配したり。私もずっと心配いたしました。考えてみれば、私、キルティス様のお住まいも知らなかったのですから。お見舞いに行こうにも行けず。もしかして、あの殺人鬼の手にかかってしまわれたのではないかしらなどと、つい考えてしまったり」
「僕が、殺人鬼に?ははは、まさか」
じつに皮肉めいたその言葉に、彼は頬をゆがめた。
「いいえ。まだご存じないかもしれませんが、キルティス様が来られなかった間にも、また一人犠牲者が出ましたの。今度はフォルラン子爵が」
恐ろしそうに手を組み合わせる夫人の横で、キルティスはその顔に妖しい微笑みを浮かべた。あのとき、自分の腕をつかんだ男の表情を思い浮かべるように。
「おかわいそう。まだお若い方でしたのに。やはり裸のまま、寝台で血まみれになっていたそうです。噂では、子爵と一緒に屋敷に入る女を見たという従者がいたようですが」
「それは……やはり女でしたか」
「ええ。話によると、透けるような亜麻色の金髪をした女らしいのです。ただ、その従者は顔までは見ていないので、まだ犯人を特定できてはいないそうですが」
夫人は、恐ろしそうに眉をひそめた。
そのとき、キルティスは広間の隅にさっきから探していた姿を見つけた。
(シャルライン!)
彼は心の中でその名を呼んだ。
「どうかしまして、キルティス様?」
「え?……いや、なんでもないよ」
にわかに口元に笑みを浮かべたキルティスに、夫人は怪訝そうな顔をした。
「それで、以前にも申しておりました、容疑者のことですけれど。マルガレーテ嬢のことはどうなったのでしょうか?」
(ああ……シャルライン)
壁ぎわに腰掛けている姿を見つめると、にわかに心が落ちつかなくなる。すぐにでも、そちらに走ってゆきたい衝動にかられるのだ。
「キルティス様」
「ああ?……はい。それで、マルガレーテがどうしたって?」
夫人は呆れたように口を尖らせた。
「ですから、以前言っておられたでしょう。現場で見つかった長い金髪とマルガレーテの髪がそっくりで、しかも彼女は殺された娼婦と親しい間柄でもあったので、この殺人の容疑者に近いのではないかということです。なにかその後で分かったことはありまして?」
「ええと……、いや、とくにないね」
「ありませんの?」
「うん。それに、たぶんマルガレーテはもう関係ないんじゃないかな」
夫人はぽかんと口をあけた。
「それでは、それでは……キルティス様は、以前おっしゃったマルガレーテが殺人犯だという疑いを、もうまったく持っておられないとおっしゃいますの?」
その声を聞いて、何人かが振り返った。夫人は失言に気づいたがもう遅かった。すでに広間のそこいら中で、今の話を聞いた人々がひそひそと囁き始めていた。
「ああ、失礼。オードレリン伯夫人……僕、ちょっと」
夫人が困り果てているのを幸いに、キルティスはさっとその場を離れた。
「あっ、キルティス様……」
追いかけようとした夫人は、周りにやってきた人々に阻まれた。
「ちょっと伯爵夫人。今おっしゃられたことは本当ですの?」
「マルガレーテ嬢がなんとかって……」
「は?いえ、その……あれは」
「人殺しの容疑だとか申していましたが」
「そんな大変なことなら、ちゃんとお聞かせください」
新たな噂の種を見つけた人々は、こぞって夫人に詰め寄った。夫人の言葉を聞いた誰かが告げたのか、当のマルガレーテ嬢本人も、遠くから夫人のほうを睨み付けていた。ひそひそと交わされる噂話は、またたくまに広間中に広まり、サロンはにわかに騒然とした空気に包まれた。
「やあ。シャルライン」
久しぶりに会うシャルラインに、キルティスは少し照れながら声を掛けた。
「あ、キルティス様。ご機嫌よう」
「あ、ああ……」
ずっと頭に描いていたとおりの彼女がそこにいた。派手ではない紺色のドレスに亜麻色の髪を後ろで束ね、うっすらと化粧をした、数日前と変わらぬ清楚な姿で。
「ちょっと、こっちへ」
キルティスは、汗ばんだ手で彼女の手をとった。
庭園に出た二人は、中庭を横切り、月桂樹の垣根が続く迷路までやってきた。引っ張るようにして連れてきたので、息を切らせているシャルラインを、そっと引き寄せる。
「ああ……シャルライン。どんなに会いたかったか。君に……」
「キルティス様……」
いつになく情熱的なキルティスの様子に、少し驚いたようなシャルラインだったが、抱きしめられると、うっすらとその頬を染めた。
「なんだか、もう何ヵ月も君に会わなかった見たいな気がする」
シャルラインの髪に指をからめながら、キルティスは声を震わせ囁いた。
「ねえ……キスして、いい?」
「キルティス様……あ」
ゆっくりと顔を寄せ、シャルラインの唇に唇を合わせる。やわらかな感触がキルティスを陶然とさせた。
「シャルライン……」
ぴくりと顎を震わせたシャルラインを、やさしく抱き寄せる。二人はしばらく月桂樹の垣根を背にして、ぴったりと体を合わせていた。
「ごめんよ、シャルライン。無理に引っ張ってきてしまって。どうも僕は、君に会えなくて欲求不満だったみたいだ」
「いいえ。私も、あの、キルティス様にお会いしたくて……ずっと」
「本当に?」
「は、はい」
恥ずかしそうに下を向いたシャルラインがとても可愛らしい。
「でも、でも私、私は、他の方々のように綺麗ではないですし、本当はこういう場所が似合うような女ではありませんから」
「そんなことはない……」
「いいえ、本当にそうなのです。ですから、そんな私がキルティス様のような方と、お近づきになったり、お慕いしたりするようなことは……とても」
「待って、シャルライン。僕を、お慕いしているって……それは本当なの?」
「あ……わたし」
「僕を、この僕のことを……、僕が強引にキスしたからとか、こんなふうに引っ張ってきたから仕方なくついてきたとかではなく、僕を……本当に僕のことを、少しでも思ってくれているというの?君は」
シャルラインは、おずおずとうなずいた。
「ありがとう。嬉しいよ。とても」
「そんな……、私などは」
「そんな卑屈なのはだめだよ。誰の目を気にする必要もない。君は君だよ。僕はそんな君が、そんな自然な君が……好きなんだよ」
「キルティス……さま」
驚いたように、シャルラインは目を見開いた。
「もちろん知っていただろうね?それとも、君は僕のことを、誰とでもただの遊びでキスをしたり、こうやって抱きしめたりするような奴だと思っていた?」
「いいえ……あの」
頬を染めてかぶりを振るをシャルライン。その手を取り、キルティスは微笑んだ。
「ああ、本当に嬉しいよ。なんだか、久しぶりに君にこうして会って、君の顔を見ていると、自分でも不思議とうきうきしてくるみたいだ。しかも、君が僕のことを慕ってくれているなんて。なんて素敵なんだろう」
月桂樹の迷路の中で、二人は静かに抱き合った。それは、まるで初めて恋をする若い恋人たちのように、少しだけぎこちなく、甘酸っぱさの残る、そんな抱擁だった。
キルティスがサロンを出て、馬車に戻ったのは夕刻近くになってだった。
「やあ、レイナルド。まだ待っていてくれたのか」
御者席でうとうととしていたレイナルドが、あくびをしながら起き上がった。
「なんだ。だいぶ遅かったな」
「ああ。すまない。いろいろと挨拶だの、ご婦人に踊らされたりだの、いろいろあってさ」
ここに来るまでよりも、ずっと朗らかな笑顔になったキルティスを、レイナルドはじろりと見た。彼女は馬車に乗り込むと、かつらを脱ぎ捨て、黒い帽子をかぶった。
「ああ暑かった。まったく頭がむずむずして大変だったよ」
「なにかいいことでもあったのか?なんだか、すっかり気が晴れたような顔をしているから」
「そう、かな」
キルティスは自分の顔に手を当てた。つい笑みがこぼれるのを抑えられない。
「でも本当に助かったよ。たまには髪を染めずにかつらってのも面倒じゃなくていいかもね」
「ああ。それに意外と似合っていたぜ。まあ、俺としては、あんたのその綺麗な金髪のほうがよっぽど好きだけどな。さて、どうする?またいったん俺の家にもどるか?」
馬車を発車させて、レイナルドは尋ねた。
「……いや。自分の屋敷に戻るよ」
「ほう。そうか」
「うん。いつまでもお前の所に世話になっているわけにもいかないしね。それに……」
キルティスは穏やかな顔で言った。
「逃げてばかりもいられない」
そこにどんな事情があるのかということは、レイナルドは決して尋ねなかった。キルティスは、御者席で手綱を握る男に、ただ「ありがとう」と言った。
キルティスが馬車を止めさせたのは、まだ侯爵の屋敷までは遠い、大通りからやや離れた人けのない路地だった。
「じゃあ、本当にここでいいのか?」
屋敷の場所を知られたら自分の素性までも知られてしまう。いくら命の恩人といえども、まだそこまでレイナルドを信頼してはいない。
「ああ、助かったよ」
通りに人影がないことを確かめて、彼女は馬車から飛び下りた。念のため帽子を深くかぶり顔を隠す。
「落ちついたら、また改めてお礼にいくよ。いつもあの隠れ家にいるのかい?」
「ああ。夜はたいていいるかな。たまに戻らない日もあるが。盗まれるようなものはあそこには置いていないから、錠はいつも開いている。勝手に入ってくれ」
「そうするよ。じゃあまたな」
軽く手を振ると、キルティスは早足に歩きだした。レイナルドの馬車は通りの反対へ、ゆるゆると動きだした。
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