ケブネカイゼ 2/10ページ

 
//オードレリン伯爵夫人//    



 翌日、二日酔いの頭痛に顔を歪ませて、キルティスが広間に入ると、すぐさま彼の取り巻きである見知った婦人たちが近寄ってきた。
「これは、ごきげんよう。エルメガルド伯爵婦人。昨日は少し飲みすぎたみたいで……。それから、そちらはええと、おおそうだ。ウィックリフ伯爵夫人の姪の、あなた。名前は……」
「クリセンテですわ」
「そうそう。クリセンテ。ごきげんようお嬢さん」
 手にキスをすると、年若い婦人はさっと頬を染めた。
「キルティス様、そんな呑気なことを」
「おや、エルメガルド伯夫人。あなたにもキスを?」
「いいえ。けっこうですわ。……それよりも大変なんですよ」
「大変?何かあったの?」
 首をかしげるキルティスに、夫人は大きくうなずいた。
「ええ。またです」
「また?」
「人殺しです。今朝また犠牲者が発見されたのです。しかも今度は二人」
「ほう。それはそれは。ではこれで合計八人目というわけですか。まったく。ここのところ物騒な話題ばっかりだ。せっかく二日酔いの痛む頭を、ご婦人たちの美しいお顔と声で慰めていただこうと思ったのに」
「大丈夫でございますか?キルティス様。お水でもお持ちしましょうか?」
 両手を組み合わせて心配そうにしている令嬢の手を、彼はそっと包み込んだ。
「おお。なんと優しいクリセンテ。僕のためにその可愛らしいお顔に憂いを浮かべ、声を震わせてくださるとは。ありがとう」
 まだ少女といってもよい令嬢が、いそいそと出てゆくのを、彼は満足そうに見送った。
「嬉しいね。まだ、僕の人気も捨てたもんではないらしい」
「小憎らしい方。クリセンテはまだ十七ですよ。今からお手をつけてしまっては、ウィックリフ伯爵夫人に叱られましょう」
「大丈夫さ。だってウィックリフ伯夫人も僕のことが大好きなのだから。少しくらい怒らせても、軽くキスをしてあげればもう済んでしまうよ」
「まったく。懲りないお方。この前もいきなりやってきた田舎娘と親しげに踊られて、他のご婦人たちのご不況買ったばかりというのに」
「ああ。シャルラインのこと?そういえば、彼女は今日も来ているの?」
「ええ。おりますとも。ほら、あちらに」
 夫人が指した方を見ると、窓辺に一人で腰掛けている彼女の姿があった。
「おや、そういえば、今日はオードレリン伯爵夫人が見えないな」
「ええ。それですわ。じつは、先程申しました今度の被害者というのは……」
「まさか……」
 キルティスは眉を寄せた。
「そのまさかです。殺されたのは彼女の夫、オードレリン伯爵、その人なのですわ」
「なんてことだ……。それで、伯爵夫人は?」
「彼女は無事ですわ。殺されたのは伯爵とその晩一緒にいた愛人の娼婦です。ですから夫人はそのせいで今日は起き抜けから遺体の確認やら、宮廷騎士団への状況説明やらで、お忙しいようですわ」
「それは、そうだろうね。なにしろオードレリン伯こそが宮廷騎士団の元締めだったわけだから。まさかその方が殺されるなんて。騎士団にとっても寝耳に水のようなものだったろう。しかし……じっさい恐ろしいことになったものだ」
「まったくですわ」
 二人が黙り込んでいるところに、水を入れた瓶を手にして、クリセンテが戻ってきた。
「キルティスさま、さあどうぞ」
「ああ、ありがとう」
 銀の杯に注がれた水を、キルティスは一気に飲み干した。
「ふう。……しかし、それにしてもだ」
 広間を見渡しながら、キルティスはため息まじりにつぶやいた。
「こうして見るに、ここにいる人々は、この事件のことを知っても、まったく深刻な顔をしてはいないね」
 楽しげにダンスをする人々、グラスを片手におしゃべりをする婦人たち。笑い声、手を叩く音、杯の合わさる響き、どれもいつもと変わらぬこのサロンの光景である。
 ビロードやサテン、ダマスク織りなどの色とりどりの豪奢なドレスに、数えきれぬほどの真珠、指輪に光るエメラルメドやルビー、金銀細工を施したベルトや首飾り。高く結い上げた最新流行の髪形をして、それらの豪華な衣装を重そうにまとった白い顔の婦人たち。酌み交わされるワイン。煙草の煙や、さまざまな香水の香りが入りまじったむせかえるような空気。
 交わされる甘いささやきと男女の恋のかけひきがいたるところでなされ、一夜限りの恋人たちが互いに見つめ合い、そして刹那の契りを結びに広間を出てゆく。貴族たち、婦人たちはそうして、明日にはまた別の自分となり、別の相手を探してさまよいつづけるのだろう。
 キルティスはふっと、その顔に寂しげな笑みを浮かべた。そうすると、ほっそりとした彼の顔は、もともとの美貌にはかなげな翳が加わって、白い月のような冷たい美しさに包まれる。
「本当にそうですわね」
 エルメガルド伯夫人が、そっと彼の隣に寄り添った。
「人殺しが起こっても、ここではなにも変わらないでしょう。ここは束の間の時間を楽しむ場。ワルツを踊り、お酒を飲んで、お話をする。それは毎日変わらないでしょう。これからも。それに、もう慣れてしまったのでしょう。それは最初は驚き、恐ろしいこの事件について皆様あれこれと推測を述べ合ったりしていましたが。それでも、これで何人目、これで何人目、といううちに、恐ろしいはずの人殺しすらも、日常のように感じはじめているのでは?」
「なるほどね。確かにそうかもしれない。でも、それがもし自分の身近で起こったなら、とても日常だなんて言っていられないだろうに。そう、たとえばオードレリン伯夫人みたいに」
「それはそうでしょう」
 エルメガルド伯夫人は、さり気ない仕種で、そっとキルティスの腕をとった。横でクリセンテがきつい視線を送っていたが、夫人はそれを無視したようだった。
「ですが、そう……、オードレリン伯夫人ですらも、たぶんしばらくすれば、またこのサロンに何事もなかったように現れ、皆さんとお話をし、踊るようになるでしょう」
「でも彼女は、ご主人を殺されたんだよ?」
「愛人の方と一緒にね」
 少し意地悪そうに夫人は言った。
「それは夫である伯爵を殺されたんですから、大変でしょうけど。それでも少なくとも息子を無くすよりは数倍はマシでしょうね。彼女自身、というより私達はたいてい『愛する夫』などというものを持っているわけではありませんから」
「それは過激なことをおっしゃる」
 キルティスは苦笑した。
「それではあなたも、ご自分のご主人を愛してはおられないと?」
「ええ。私達には結婚の自由などはありませんでしたからね。それは、もし自分の夫が殺されたら悲しむかもしれませんが、それでもサロンに来てあなたのような方と一曲ダンスをすれば、すぐにそんなものは忘れてしまえるでしょう」
「そういうものなの?」
「そういうものですわ」
 夫人は、じっとキルティスを見つめた。
「一曲いかがです。エルメガルド伯爵夫人」
「ええ。喜んで」
「キルティス様。わ、私とも後で踊ってくださいますか?」
 そばにいたクリセンテが、顔を真っ赤にして告げた。キルティスはくすりと笑った。
「ああ、いいよ。可愛いお嬢さん」
 キルティスはいつものように、気に入りの婦人たちと踊り、談笑し、杯を交わした。それから、静かな足どりで窓辺の席に近づいた。
「やあ、ご機嫌よう。シャルライン。ここに座ってもいいですか?」
「え、ええ。どうぞ」
 さっと頬を紅潮させ、彼女はうなずいた。
「ああ、疲れた。さすがに五人連続のポルカはいけなかった」
「ダンス、お上手なんですね」
「ああ?見ていたのかい?なんだか断れなくてね。みんな熱心に誘うものだから」
 亜麻色の髪を綺麗に結い上げ、青いサテンのドレスを着たシャルラインは、はじめてこのサロンに来た数日前よりも、いくらか垢抜けて、また落ち着いて見えた。ただ、伏目がちにうつむいたり、頬を赤くして口ごもったりするのは、相変わらず初々しかったが。
 その横顔を見つめていると、彼女がおずおずと口を開いた。
「あの……、なにか?」
「ん?いいや。そういう髪をしていると、君は少し大人っぽく見えるなと思って」
「そ、そうでしょうか?」
「うん。初めて君を見たときは、失礼ながらどこの田舎の娘がやってきたのだろうと思ったのだけれど。今日の君はとてもいいよ。その薄い青色のドレスに、白いリボンはとても良く似合っているね」
「そ、そうですか」
 彼女は顔を赤くして下を向いた。
(本当にうぶな娘だな。本当にこれで伯爵家の血縁の姫君なんだろうか?)
(おや、そういえば……、今日はリュプリックの奴が見えないな)
 キルティスは広間をさっと見渡した。シャルラインがこのサロンに来るときは、いつも付き添いにあの男がいたものだが。
(あいつめ。今度はいったい何を企んでいるんだろう。また僕のことで奴と何かつまらぬくわだてをしているのではないだろうな)
(しかし、よく考えてみると、この娘とあいつとに何の関係があるんだ?)
 もう一度シャルラインの方を見る。目の前でうつむいているのは、どう見てもただの少女めいた田舎娘、それ以上には思えない。
(まあ……いいさ)
 どんな理由があるにしろ、それはさほど自分には関わりがありそうもない。また、この娘がここにいても、自分に害をなすこともありそうにない。
(それに……たまには、こういう娘もよいな)
「踊りませんか?」
 シャルラインは驚いたように顔を上げた。そこにキルティスが微笑んでいる。
「は、はい」
 手を取り合い、二人は広間の中央へ歩みだした。優雅なワルツのリズムとともに。

 その数日後のこと。
 昼時を過ぎたばかりの人もまばらなサロンに、オードレリン伯爵夫人が現れた。
 たまたま早くから来て、一人ワインを飲んでいたキルティスは、広間に入ってきた夫人に気づいて立ち上がった。
「これはオードレリン伯爵夫人。このたびは大変でしたね」
「ご機嫌ようキルティス様、もう四日ぶりでしょうか」
 夫人は、品は良いが決して華美になりすぎないドレスに、きちんと結い上げた髪をして、いつものように挨拶をしたが、その顔はやはりどことなくやつれ、頬はひどく青白かった。
「大丈夫ですか?もうこのようなところに来てもよろしいのかな?あなたにとって大変な事件が起こったのだから、ゆっくりと休んでいらしてもよいのに」
「いいえ。もう大丈夫です。お気遣い嬉しいですわ」
 彼女はキルティスにに近づくと、耳元に囁いた。
「少しよろしいでしょうか。庭園でお話ししても」
 キルティスはうなずき、無言で夫人の後について広間を出た。
 ウィックリフ伯夫人の別邸である屋敷の庭園は、広い敷地をもち、どこも美しく整えられていた。門から屋敷までの道には、デザインされた灌木が整然と並べられ、その間にビンカやベリス、バーベナなどの花々が植えられた花壇が彩りを添える。中庭にはポーム遊びなども出来る広場が設けられ、彫刻の刻まれた噴水は円柱やポーチで囲まれた憩いの場になっていて、月桂樹で仕切られた道を進むと、そこはちょっとした散策コースになっていた。
 オードレリン伯夫人は、庭園の奥まったところまでキルティスを連れてきて、周りに人けがないのを念入りに確かめると、ようやくこちらに向き直った。
「おや。こんなところまで連れてきて、あなたは僕をどうするおつもりですか?色っぽいお話だったら、僕は皆のいるまえでもかまわないのに」
 冗談めかして言ったキルティスだったが、それに返事はせず、夫人は真顔で首を振った。
「キルティス様。私、怖いのです」
「それは、そうでしょう。あなたのご主人が殺されたとあっては」
 怯えたような彼女の表情に、キルティスも戯れ言を言うのをやめた。
「今回は大変でしたね。本当に。大丈夫ですか?あなたはとても青ざめてみえるよ」
「ええ。大丈夫です。それよりも……」
 心配そうに辺りを見回し、夫人はひとつ息をはいた。
「誰もいないよ。どうしたんです?なにか気懸かりなことでも?」
「ええ。そうなんです」
「僕に話せることなら、聞きますよ。ただ、僕は騎士でも衛士でもないから、それを聞いて力になってあげられるかは分からないけれど」
「ええ。でも、なにから、お話しすればいいのか……。ああ、そうですわ、とにかくまずはあの人が殺されたときのことを。もう噂でお聞きになられたかもしれませんけれど」
「ええ、少しだけ。伯爵は、その……愛人の方と同じ部屋で殺されていたと」
「そうです。それはべつに隠すことではありませんから。それに、もうたいていの方は知っていることですし。夫にも、多くの伯爵と言われる貴族の方々同様、何人かの女がいました。もうそのことはとうに知っていたし、私としてもじつのところ夫への心からの愛情などというものはすっかりなくなっていましたから。ですから、じっさい夫が死んでいるとあの朝聞かされたときも、悲しいというよりは、ただ恐ろしいという気持ちしかありませんでした」
 夫人の口調は意外にもしっかりしたものだった。ただその目線は、まるでなにかに怯えるように、ときどきおぼつかなげに左右に揺れた。
「そんな私を軽蔑されるでしょうか?」
「いいえ。とんでもない」
「ありがとうございます。それで、その日、まだ日が昇るか昇らないかといううちに、起こされた私は、階下で待っていた宮廷騎士団の人達にその知らせを受けたのです。前の晩夫がどこにいるのかは知りませんでした。ただ私には見当がついていました。最近一番熱を上げている女、これも高級娼婦だった女ですが、夫はその女に小さな屋敷を与えていたのです。騎士団に事件を知らせてきたのはその女の屋敷の侍女だったそうです。私はそれを聞くと朝食もとれないまま、騎士たちに連れられて馬車でその屋敷に向かいました」
 夫人は低い声で話しつづけた。
「比較的この都市でも人の少ないところにその屋敷はあります。二階建てのその屋敷に、私は何度か行ったことがありました。多くのときは、夫に急ぎの用があるときなどに、仕方なく訪ねたのでしたが。ですから、夫の愛人であるその女のことも顔は見知っておりました。私は騎士のあとについてその屋敷に入りました。階段を上がり、寝室らしき扉の前に立ち、騎士が扉を開けました。そのときまでは、私はなにも恐ろしいことはなく、夫が死んだと聞かされてもきっと自分はさほど意に返さず、勇敢に振る舞えるものと思っておりました。……ですが、扉が開いたとたん私の足はがくがくと震え出しました。床に……床に赤黒い血が広がっていました。私は思わず騎士の腕に倒れ込みそうになりました。それでもこの目で自分が確かめねばならないと、私はおそるおそる部屋に足を踏み入れました」
 そのときのことを思い出すように、夫人は目を閉じた。
「大丈夫ですか?少し深呼吸して。そこの石の上に腰をおかけなさい」
「ええ……」
 夫人は何度か大きく息をはき、道の脇にある置き石に腰を下ろした。
「大丈夫ですか?なにか飲み物をとってまいりましょうか?」
「いいえ。大丈夫ですから。お行きにならないで。とにかく、まずぜんぶを話してしまわなくては……」
「それで……、そう、私は部屋に入りました。まず見えたのは床に広がった血だまり。そして転がっている女の背中。私は悲鳴を上げかけながらも、騎士たちが言うようにその死体の顔を確認しました。女は喉を短剣で掻き切られていました。見開いた青い目が……ああ、私の方を見ている気がしました……」
 両手で顔を覆う夫人の肩を、キルティスはそっと抱いた。
「いいんですよ。無理にしゃべらなくとも。ご婦人にとっては耐えがたいことでしょう。いくら確認のためとはいえ、騎士たちも非情なことを」
「いいえ。平気です。本当に。それに、これはぜひ聞いていただきたいのです。キルティス様に。そしてどう考えていいのか教えていただきたいのです」
「分かりました。僕にできることならなんでもいたしましょう。他ならぬあなたのお話です。最後までお聞きしましょう」
「ありがとうございます。それで、死んでいた女は確かに、私の知っているその女でした。茶色の巻き毛で豊満な体をした、さほど美人ではないどこにでもいそうな娼婦ですが。女は服を着たまま倒れていました。騎士たちが言うには、おそらく扉を開けた瞬間に殺されたのではないかということです。部屋の扉の前で、扉に足を向けて倒れていたからです。それから、騎士たちは寝台の方を指さしました。私にはそこになにがあるのか、すでに分かっていました。亜麻布のシーツは血でべっとりと汚れていました。そこに夫は仰向けで死んでいました」
 夫人は肩を上下させ、大きく息をついた。
「裸のままでした……。毛布はかけられていましたが」
「伯爵も短剣で?」
「ええ。でも私は一目見て、それきり顔をそむけて二度と見ることはできませんでした。夫の胸から上は血だらけでぐしゃぐしゃでした。たぶん、致命傷は心臓への一突きだったらしいのですが、騎士たちが言うにはその後で何度も首といい顔といいめった刺しにしたようだというのです。さすがに私ももう耐えられずその場に倒れ込みそうになりましたが、血の匂いのするこの部屋では気を失いたくないと頭のどこかで思ったのでしょうか。私は覚えておりませんが、あとで騎士たちに聞くと私は悲鳴も上げずに部屋を飛び出して、屋敷の外に出るなりその場に倒れたのだそうです」
 夫人はハンカチを顔にあて、震えながら嗚咽した。
「可哀相に。ひどい目にあいましたね。言葉などではとても慰めになどならないでしょうが」
「いいえ。こうしてあなたが私のそばにいて、お話を聞いてくださる。それだけでも私はずいぶん気が楽になった気がいたします。それに、今はもう、少しは落ち着きましたの。というよりも、その翌日から夫が死んだ後のいろいろなもめごとがいっきに押し寄せてきましたので、それどころではありませんでした。それに……こういう言い方をしてはまたしても私のことを軽蔑なさるかもしれませんが」
 夫人は、つと上目遣いにキルティスを見た。
「私と夫である伯爵が、互いに愛し合う夫婦ではないことは、このサロンでも知られていることです。キルティス様もご存じでしたわね?」
「ええ。まあ」
 オードレリン伯夫人がサロンに来るのは、自分に合った恋人を探しているためだということは、公の噂であったし、夫人自身もそれを認めた上で、色々な男性にアプローチをしていた。キルティスも一度ならず、夫人に交際を求められたことがある。
「ですから、こうした際ですけれど、私が、夫を失ったということ、つまり愛を無くした悲しさにうちひしがれているわけではない、ということは正直に申さないといけません。それはあんな、あのようなむごたらしい夫の姿を見たのですから、悲しみと、それに恐ろしさとをどうして感じずにいることができましょうか。その日の夜は恐ろしくてたまらず、お酒を飲んで寝台に入ってもほとんど眠れないほどでしたから。ですが、さきに申しましたとおり、翌日からは色々な雑事が……騎士隊や護民兵の捜査に対する指示やら、親戚や地方の縁者への訃報の手紙、夫の葬儀の日取り、棺桶や花や墓地の手配、愛人の屋敷の措置、それに夫の財産の相続について……おお、それにさらにその翌日にまったく恥知らずな人達がやってきて、夫の財産について自分にも権利があるだの、取り分は何割だのというあさましい話をするだけして帰っていったりしましたわ。それらの半分ほどは、夫の部下だった方や、夫が信頼していた騎士団の団長のルイス卿におまかせしたりしましたが。到底私ひとりではすべてを取りまとめることなどできませんもの。幸い夫のご友人たちにはご親切にしていただき、書類の束や、押しかけてくる弔問客たちを前にして、ただうろたえている私を気づかって、そうした雑務を引き受けてくださったりしました。そうでなかったら、まったくものごとが進まぬまま、私は疲れて眠ることもできずに倒れていたことでしょう」
「私はオードレリン伯爵とは、直接の面識はありませんでしたから、弔問にはあえてまいりませんでしたが、そういうことなら私も訪れてあなたのためになにかをすればよかったですね」
 キルティスは気の毒そうに言った。夫人は首を振った。
「いいえ、とんでもない。あなたにはなんの縁もゆかりもないあんな人のために、キルティス様にお手数をおかけするわけには。それに来ていただかなくてよかったですわ。なにしろこの数日の私ときたら、雑事に翻弄され、弔問客の対応に追われてばかりで、化粧や服の身だしなみなどに気をつかう暇も気力もなくして、それはひどい有り様だったのですから。充血した目や乱れた髪、皺のよった服など、とうていあなたに見られたくはありませんでした」
 そう言って、夫人はくすりと笑った。すっかり話をしたことで、少し元気が戻ってきたのか、夫人は立ち上がった。
「だいぶ落ち着きました」
「それはよかった。では戻りましょうか?」
「お待ちになって。あと少しだけ。じつはこれからが本当にお話ししたかったことなのです。そうですわ。このことをお話しして、あなたに何か意見を言っていただきたかったのです」
 夫人は注意深く周囲を見回し、また声を小さくした。
「夫が亡くなった翌日のことです。騎士隊の人達が夫と女が殺された現場を調べていたのですけど、夕方になって私のもとに騎士たちが来て、その報告をしてくれたのです」
「ほう」
「私としては、まだショックと恐怖から立ち直れていなかったので、そのときは彼らの話をうわのそらで聞いていたのですが、何日かして少し落ち着いてきたときにそのことをふっと思い浮かべたのです。騎士たちは、私に色々なことを聞いたり、部屋の様子などをこまごまと話してくれましたが、そのなかでも私が一番気になったのは、殺された主人と女がいた部屋に落ちていたという、これです」
 夫人はハンカチを取り出し、それを開いて何かを取り出した。それは一本の髪の毛だった。
「それはもしかして、犯人の?」
「ええ。たぶん間違いないと、騎士たちも言っていました」
「それは金髪ですね」
「ええ。少し銀色がかった。というか亜麻色にも近い薄い色の金髪でしょうか」
 その髪の毛は、陽光に照らすと、きらきらとした淡い色の金髪に見えた。
「でも、それは本当にその殺人犯のものなのでしょうか?」
「確かかどうかは分かりません。ただ、あの晩、殺された夫の愛人の女は暗い栗色の髪をしていました。それは確かです。それにまた、あの部屋はその女の寝室でしたから、他のお客がいたとも思えません」
「なるほど。すると……犯人は女。しかも髪の長い女ということになりますね」
「そうなりますね。だとすると、今まで殺された人々が寝室で裸で殺されていた、ということの説明にもなりましょう」
 キルティスは、考えるように顎に手をおいた。
「ふむ。つまり、これまでの被害者たちは、その女との情事の後で殺されたということか。確かに理屈は合いますね。眠っているときなら女の細腕でも短剣一本で男を殺すことができる」
「それからもう一つ。私、考えたのです。昨日の夜はずっとそれを考えていましたの」
「なんでしょう?」
「この髪の色の女についてです」
 夫人は、指に挟んだその髪の毛を目の前にかざした。
「では、なにか心当たりでも?」
「ええ。夫の愛人だった殺された女、名前をジョアンヌといいます。その女は娼婦でした。おもに貴族たちを相手にする高級娼婦です。夫がそんな女のために多くのお金を使って屋敷を与えると言いだしたとき、いくら夫を愛してはいないとはいえ、私はその女に嫉妬しました。だって私は、親に決められて身分ある夫のもとに嫁いできましたのよ。私の実家は落ちぶれた貴族の家系でしたから、伯爵の地位を持つ夫のもとに、私の父は嫌がる私を無理やり嫁がせたのです。十七のときでした。つまり私はお金のために、結婚させられたのです。でもそれも仕方のないことです。今考えると、私は父のやり方を憎むことはもういたしません。でも、その娼婦は、娼婦のくせに、やすやすとそうやって夫を騙し、たった何度か夫と寝ただけでその愛情とお金とを同時に手に入れ、私と同じように裕福に暮らすことになったわけですから……ああ、でもそんな話をしたいのではありませんでした。つい感情的になってしまっていて」
「気にすることはないですよ。大変なことがあった後ですから。ちょっとしたことで高ぶったり、悲しくなったりすることは当然です」
「ええ。ありがとうございます。それで、その娼婦の女。調べてもらった騎士たちの話ですと、こうした宮廷やサロンに出入りする高級な娼婦たちは、そのたいていが顔見知りなのだそうです。そしてそうした娼婦同士の友人関係というものには、色々とよこしまなことがあるらしいのです。たとえば、懇意になった地位のある貴族のとりあいとか、お金や宝石のやりとりや次に相手をする貴族選びや、その順番などをめぐって争いも起こるというのです。まったくいやらしい話ですが」
「なるほどね。彼女らには横のつながりなんかがあるのだろうね。それで?」
「はい。それで、その殺されたジョアンヌも、そうした娼婦同志の会合によく顔を出していて、彼女に親しかったり、よく仕事を一緒にしていたという友達の名前が何人か分かったのです。そのなかの一人に……」
 キルティスの顔をじっと見つめ、夫人は低く言った。
「あのマルガレーテもいたのです」
「ほう。彼女が?」
「ええ。彼女です。騎士たちがこの数日走り回って調べたことですから。おそらく確かでしょう。しかもマルガレーテは、ジョアンヌが殺される数日前に彼女に会っていたらしいのです。それから、マルガレーテの髪の色は……」
「待って」
 キルティスが鋭く制した。
「つまりは、あなたはあのマルガレーテこそが、この宮廷にはびこる殺人鬼であるといいたいの?」
「いいえ……まだそこまでは」
「確かに、彼女の髪は、あなたが手にしているその髪の色に似ているかもしれない。でも、それだけではね」
「はい。ただ……騎士たちが言うには、どうやらマルガレーテはジョアンヌと馬が合っていなかった。つまり仲が悪く、娼婦たちの会合で会うたびに、お酒を飲んでは罵り合っていたというのです。幾人かの娼婦から証言を得たということですが」
「なるほどね。犯人は女。しかも髪の色は薄い色の金髪。そして名のある貴族に恨みがあり、今回はその娼婦とも関係があるかもしれない人物。確かに、騎士たちが容疑者に上げる要素は少なからずあるが」
「それに、私見たのです。今日このサロンに来て、彼女……マルガレーテとも挨拶をしたのですが、知り合いが数日前に殺されたというのに、彼女は普段と変わらず微笑んで、ワインを飲みながら他の婦人たちと談笑しておりました。私であれば、いくら仲が悪いとはいえ知り合いがそんな目にあったら、到底笑ってなどいられないと思います」
「そうだね」
「べつに私は彼女が犯人だなどと決めつけているわけでは決してありません。ただ私……恐ろしいのです。もし……もしも万が一、たとえ彼女かどうかは分からぬにしろ、あんなに残酷に人を殺すような人間が、もし近くにいたとしたら。何も知らない私達のすぐそばでのうのうと笑ったり、優雅に踊ったりしているとしたら。……おお、それを思うだけで私、何もかもが……この世の中というものが信じられないような気分になりますの。まるで、そう、まるで悪い夢を見ているような……」
 夫人はキルティスにすがり付くように身を寄せてきた。
「ああ、なんてことでしょう。いつから、こんなに恐ろしいことになったのでしょう。この間まで単なるサロンでのゴシップにしか思っていなかったことが、まさか自分の身に起こるなんて。夫が殺されるなんて……、なんだかまだ信じられない気がしますわ」
「可哀相に。あなたはまだ気が動転していて、心がちゃんと落ち着いていないのですよ。大丈夫。あなたの屋敷にはいつも騎士たちが見張りをつけていますし、あなた自身に危害が及ぶことはないでしょう」
「どうして。どうしてそう分かりますの?」
「たぶん。犯人はやはり女性で、それも地位のある貴族を狙っているのだと思います。今回は、一緒にいた娼婦も殺されたということですが、それに……大丈夫。僕がここにいますから」
「キルティス様」
 腕のなかでそっと目を閉じた夫人のあごに手をやり、ゆっくりと唇を重ねる。
「ああ……キルティス様」
「少しは落ち着きましたか?」
「ええ」
 夫人は上気した頬でうなずいた。
「それでは戻りましょうか。もしかしたら他の方々が僕等のことを不審に思っているかもしれない。あなたに僕との噂が広まったら大変ですからね。ご主人を失ったばかりだというのに」
「いいえ。かまいません」
「可愛い方。それから、マルガレーテの事は、ちょっと僕も調べてみます。なに、危険なことはない。ちょっと彼女にさりげなく聞いてみるだけですよ。それでもまだ怪しければ、騎士団か護民兵に通報すればいいし、そうでなかったら、それはそれでよいでしょう。少なくともこのサロンにそんな殺人者などがいないことが分かればね」
 ゆるやかに梢を揺らす風に、ほのかな血の匂いが混じりはじめ、黄昏への恐怖を誰しもがうっすらと感じとれるように、のろのろと日々は過ぎていった。




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