ケブネカイゼ 1/10ページ

    

   //キルティス//

  

「お聞きになりましたか?キルティス様」
 いつものように広間に入るなり、顔見知りのオードレリン伯爵夫人が声を掛けてきた。
 鏡のついた羽扇を口許に寄せながら、馴れ馴れしくこちらの肩にぴたりと寄り添ってくる。きつい香水の香りに少し眉を寄せつつ、「彼」は婦人の手に軽くキスをした。
「ごきげんよう。伯爵夫人。今日も一段とお美しい」
「まあ、ありがとうございます」
 真っ赤な唇をつり上げ、夫人が艶然と微笑んだ。
 金糸を縫い込んだ華やかなケルメス染めのドレスに、金のベルトと飾り紐、結い上げた髪には、数えきれないほどの真珠が縫い込まれている。それが頭が揺れるたびにじゃらじゃらと音を立てるのは、確かに壮観といえた。彼女の美貌は、豪勢な装飾と同様、今が女の盛りとばかりに、けばけばしく輝いていた。
「ところで、伯爵夫人。今日はどうにも人々が騒がしいようですが」
 巨大なシャンデリアがいくつも下がった広間には、まだ夕刻を回ったばかりだというのに、多くの着飾った貴族たちが集まっている。
 優雅な音楽が奏でられ、貴族たち貴婦人たちが優雅に踊るのは、昨日も今日も変わらぬこのサロンの光景だった。テーブルには菓子や果物、水に冷えたワインが並び、色とりどりのドレスと輝く宝石を身につけた婦人たちがくるくると回り踊る。ハープシコードとヴァイオリンの音色、人々の嬌声、さんざめき……それらが広間を息苦しく埋めつくす。それは、いつもと同じく朝まで続く毎夜の舞踏会、変わらぬ社交場の光景だった。ただ、ワイングラスを片手になにやら熱心に立ち話に興じる人々の様子は、どうも少しだけ普段と違うようだ。
「何かあったのですか?」
 眉をひそめて尋ねると、夫人が手を引いて椅子をすすめた。
「ありましたとも。ではキルティス様はまだご存じでなかったのですね」
「なにをです?」
 すると、夫人はやや大仰に両手を胸の前に組んでみせた。
「まあ。それじゃ、私がお話ししてさしあげなくては。さあワインをどうぞ」
「ああ。どうも」
 注がれたワインに口をつけると、夫人がじっとこちらを見つめていた。
「僕の顔になにか?」
「ああ。申し訳ありません。つい、また見とれてしまいました」
 夫人は、頬を染めて羽扇を口に当てた。
「それで、お話は?」
「ああ。そうでした……」
 ひらひらと愛用の扇を動かしながら、夫人は小さな声で話しだした。
「昨日の晩のことです。また起こったのです。あの事件が」
「ほう」
 興味をそそられたように、彼は身を乗り出した。
「では、また殺しが?」
「ええ。今朝になって見つかったのです」
「なるほど。で、今度は誰が?」
「誰だとお思いですか?」
「ふうむ」
 考えるようにつとあごに手をやる。見事に整った貴公子のようなその面を、夫人はまたうっとりとなって見つめる。
「今までの被害者たちは皆かなり名のある貴族ばかり。とすると、誰だろう……」
「エルンラン伯爵ですわ」
 黙っているのにたまりかねたように、夫人が告げた。
「なんと。エルンラン伯爵?それはまた」
「どうです?驚かれましたか」
「ああ。まさかね。これは本当に大変な事件だな」
「そうです。これで六人目です。どの方も宮廷では名のある御方ばかり」
「なるほど。ならば、人々がこんなにざわめいているのも無理はない。いやむしろ、踊っている人々の方が、この際ひどい呑気者といってもいいかもね」
 彼はぐいとワインを飲み干した。
「本当に。とても、とても恐ろしいことですわ。ですから、今朝はどこもかしこも皆その話題でもちきりです」
「それで、犯人はまだ?」
「ええ。騎士や衛士たちが、必死になって今朝から市中を捜索しているようですが、手掛かりすらつかめぬようです」
「ふむ」
「なんでも、殺されたエルンラン伯爵は、裸のまま寝台に眠るように横たわっていたとか。今回も同じです。やはり、短剣かナイフでのどを掻き切られていたというお話ですわ。寝台は血の海だったとか。……おお、恐ろしいこと!」
 夫人はぶるっと体を震わせた。
「そういえば、あなたのご主人のオードレリン伯は宮廷騎士団の後見でしたね」
「ええ。ですから、朝がたから屋敷には報告の騎士たちが押しかけてきて、それは大変な騒ぎでしたのよ」
「それは大変でしたね」
 こちらのグラスにワインをつぎながら、夫人は低く言った。
「ええ、それに、私、怖いのです。そんな殺人犯が今もどこかにいると思うと」
「それはそうだろう。そんな物騒な輩がまだどこかにいるのだとしたら」
「ええ……怖いのです。私」
 夫人はそう繰り返すと、そっとこちらに体に身を寄せてきた。その目が潤んだように彼を見つめる。媚びるような表情で、彼女はそっと囁いた。
「キルティス様。今夜は……私と一緒にいてくれますか」
「伯爵は?」
「今日も別の女と」
「なるほど」
 彼は夫人を引き寄せた。慣れた手つきであごをもちあげ、軽く口づけをする。うっとりと目を閉じた夫人が、甘い吐息をもらすのを、彼は薄く目を開けて確かめた。
「少し香水がきついね。今度僕がいい香水を贈ってあげる」
「まあ、本当ですの?」
「ああ。僕は女性には嘘はつかないよ。本気の嘘以外はね……」
「まあ、キルティス様。おいでになっておられたのですか。ひどいですわ。サロンにいらっしゃったらまず最初に、この私と踊ってくださるという約束でしたのに」
 華やかなドレス姿の女性が寄ってきた。デコルテといわれる大きく胸の開いた最新流行のドレスをゆったりと着込み、たっぷりとした金髪を結い上げて、レースのシャプロン(頭巾)をリボンのように飾りつけている。金のベルトに真珠の首飾り、それに豊かな胸元にはつけぼくろ。まさに、豪華さと艶やかさの極致といった雰囲気である。
「マルガレーテ」
「ご機嫌よう、キルティス様」
 女性は薔薇のようににっこりと微笑み、優雅な仕種で、右ひざを後ろに貴婦人の礼をした。
「ま、娼婦の分際で、堂々とサロンをうろつくなんて」
「まったく、ずうずうしい。キルティス様に馴れ馴れしくして」
 そばにいた婦人たちがひそひそと声を上げるのを聞き、キルティスは苦笑しながら言った。
「さてさて、とにかくも踊りませんか、ご婦人方。確かに不吉な事件の話に首筋をなでながらおびえるのもよいでしょうが、それでも我々は楽しく生きるべきですよ。お酒をたしなみ、お菓子をつまみ、笑いと愉快な会話、それにダンス。そうやって日々を過ごしてきたでしょう、我々は。そしてこれからも。花の蜜を吸い尽くさぬうちに、また次の花へ。ひらひらとたゆたって時間の流れにゆったりと乗りながら。気軽に生きてゆくのが我々貴族の特権です。時間はたっぷりある。しかし今宵の酒は今宵しか味わえない。あの詩人のフェーテルニウスもそう言っています。さあお手を。この私と踊ってくださるのはどなた?」
 手を差し出したのはマルガレーテ嬢だった。
「ちょうどワルツが始まった。ではゆきましょうマルガレーテ。オードレリン伯爵夫人、お話ありがとう。またあとで」
 軽やかに会釈をすると、キルティスは女の手を引いて広間の中央に進み出ていった。
「まったく、あの娼婦ったらずうずうしいこと」
 そばにいた婦人が、オードレリン伯爵夫人に囁いた。
「本当に憎たらしい娘だわ。ちょっと綺麗だからって。ああいうのこそが殺人犯とやらの犠牲者になるべきなのよ。本当は」
「そうね。でも、これまでの被害者はみな男性ばかり。しかも、みな普通よりは地位の高い方々。知っているかしら」
 オードレリン伯爵夫人は、口許に扇を寄せて囁いた。
「これまでに殺された方々はみな寝台で裸だった。おそらく犯人は被害者と関係した後に殺した。……つまり、殺人鬼は女。しかもおそらく地位ある方々をたぶらかす程度には美人の女と思われますわ」
「まあ。それではやはり犯人はあの無礼な娼婦かもしれないというわけね」
 婦人は、恐ろしそうに両手を揉み絞った。
「それはまだ分かりませんけれど」
「あらみなさま、ごきげんよう、なんのお話ですの?」
「あら、ハルシュタット伯爵夫人、それにカーミナ嬢、聞いてください。じつは今……」
 婦人たちのゴシップは、いよいよ熱を帯びていった。退屈をもてあます貴族の婦人たちにとっては、このような事件の噂話でさえも、結局は刺激的な娯楽でしかないのだった。
 華麗なワルツのステップを踏む二人の踊りに、あちこちから拍手が飛んだ。なめらかな額にうっすらと汗をにじませたキルティスは、曲の最後に合わせてポーズをとると、マルガレーテの豪勢な髪を撫でつけ、ついでにその頬にキスをした。
「またね」
 にこりと微笑みかけると、マルガレーテの頬がバラ色に染まった。踊り終えたキルティスには、またあちこちから声がかかる。
「素敵でしたわ、キルティスさま」
「なんて優美なステップでしょう」
「今度は、私と踊ってくださいまし」
「ありがとう。でもちょっと休ませてもらおうかな。あまり体力には自信がないんでね」
 キルティスは、胸に手を当て貴婦人への礼をすると、ふと広間の壁際に目をとめた。
(おや、あいつは)
 入口の扉に近い壁の前に立つ、黒いしみのような男を見つけて、眉をひそめる。黒い胴着にタイツ、それに厭味のような黒の短ローブ、全身黒づくめのその姿は、華やかなサロンの雰囲気とはまったくそぐわない。
(また、あいつか……こんなところにまで)
「リュプリック」
 歩いて行って声をかけると、その男はとくに驚く風でもなく、無表情にこちらを見た。切れ長の目に、鼻と顎が長い北方系の顔つき、短く刈り込んだ灰色の髪。全体としてひどく冷たい印象を受けるのは、まるで感情のない、その冷徹な目つきのせいだろう。
「お呼びでしょうか?」
 男は低い声で答えた。その薄い唇は、声を出すときにも開いているのだか、そうでないのか分からない。顔だちといい服装といい、華やかさのかけらもない、ひどく老成した感のある男であった。
「お前、またこんなところに。それに、私がここにいるとよく分かったな」
「そうではありません。偶然です」
「ほう。偶然だと?よくもそんなことを」
 キルティスはかすかに口元をゆがめた。
「それではお前は、いったいなにをしにここに来たというのだ?まさかお前に誰か意中のご婦人でもいて、ダンスの一つも踊りたいと思ったのかな?」
 皮肉めいたその問いにも眉ひとすじ動かすこともなく、男はゆっくりと一度だけ首を振った。キルティスは男を睨み付けた。
「貴様、いい態度だな。日頃から気に入らない奴だが、こうしたサロンでお前を見ると、その場違いな姿につばを吐きかけたくなる」
「それは申し訳ありません」
 抑揚のない声で言うと、男は目を伏せた。
「どうかお気になさらず。私の姿、態度にご立腹でしたら、あちらの柱の影に見えぬよう立っていることにいたしますので」
「ああ、そうしてもらいたいね。楽しいサロンでお前の陰気な姿など目に入れたくもない」
「かしこまりました。では」
「待て。冗談だ。馬鹿」
 キルティスはむっつりと言った。
「さようで、ではついでにご紹介したい方が」
「紹介?」
 広間の扉が開いた。
 屋敷の下男に案内されおずおずと入ってきたのは、一人の若い女性だった。
 踊っていた人々や婦人たちがいっせいに注目する中を、その女性は部屋に入るべきかどうか迷うような様子で室内を見回していた。リュプリックがすっとその女性に近寄り、何事かを囁いた。すると女性は意を決したように、こちらに歩きだした。
「キルティス様。こちらは、さる名のある伯爵家の遠い御血縁にあたるご婦人でございまして」
 リュプリックがその女性を紹介した。
 女性はキルティスの前で、恥ずかしそうにうつむいたままだった。周りの婦人たちは、この見慣れない新参者を値踏みするように、こちらを見ながらこそこそと囁き合っている。
「ほう。お名前は?お嬢さん」
「は、はい。私……あの、私、シャルラインと申します」
 彼の前に立っていたのは、まだ少女と言ってもよいくらいの若い女性だった。
 ほっそりとした体つきで、背はあまり高くなく、亜麻色の髪を飾り気もなく後ろにまとめている。服装もそうだが、化粧の方もどこかぎこちなく、サロンの婦人たちに比べると、あまりにも垢抜けていないのがはっきりと分かる。ひとことで言うと田舎くさいのだ。
「あ、あの……」
 うつむいたまま、彼女はちらりと上目遣いでこちらを見た。
「緊張しなくてよいよ。僕はただの一人の男だ。身分もそう高くもない。そんなにまるで、名のある貴公子の前にいるような顔つきで震えていないで、ね」
「は、はい」
「シャルライン。可愛らしい名前だ」
「僕はキルティス。どうぞよしなに」
 そっと手を取り、口づけすると、彼女は赤く頬を染めた。
(まあ、なんてずうずうしい娘かしら。キルティス様とあんなにお近づきになって)
(それにご覧なさいまし。あのドレス。いまどきあごの下まである襟なんて。なんて時代遅れなんでしょう。それにあの髪も、ドレスと同じで地味なこと。宝石も飾り粉もなにもしていないなんて。よくもまああんな恰好でここに来られたものですわね)
(お金がないのでしょう。見た目もいかにも田舎の娘という感じですもの。あれでダンスなんかができるのかしら。どっちにしろ、このサロンに来るような方ではなさそうですわね)
(まったくですわ。いったいどなたのお許しを得ていらしたのでしょうか?あのような田舎娘が同じサロンにいるなど、許せませんわね)
 そうした婦人達の囁きや、軽蔑の笑い声が、広間のあちこちから漏れ聞こえた。
「可愛いお嬢さん」
 キルティスは、恥ずかしそうにうつむいている少女に向き直った。
「あなたには胸の開いたデコルテより、そのきゅっとしまったフレーズの襟がよくお似合いだな。踊っていただけますか?」
「は、はい」
 差し出された手におずおずと自分の手を重ねると、彼女はぱっと顔を赤らめた。
「よろしいの?マルガレーテ。あんなどこの馬の骨とも分からない娘がキルティス様とダンスを踊っているわよ」
「べつに。よいではありませんか。キルティス様はあの田舎娘にサロンでの踊りを教えて差し上げているのでしょう」
 マルガレーテは、赤く塗られたその唇に笑みを浮かべた。その目は広間の中央で踊る一組の方を、睨むようにしたまま。髪には大きな羽飾り、宝石や金銀細工を散らしたドレスに、強い香水の香り。娼婦とはいえ、彼女たちはそのへんの貴族の夫人などよりもずっと高いドレスを着て、華やかに、そして堂々とサロンを彩っていた。
「でもマルガレーテ。あなたもあの方に抱かれたいんでしょう。違うの?」
「それはね、そうだけど。でも私は少しあなたとは違うわ」
「そうなの。まあいいわ。あなたはキルティス様の崇拝者としては、このサロンでオードレリン伯と並んで一番ですからね。あなたならきっといずれは抱いてもらえるでしょうよ。そうなったら、ぜひご感想をうかがいたいものね」
 そう言い残すと、彼女の友人は寄ってきた別の男のダンス誘いに微笑んで手を取り、離れていった。マルガレーテはそれに目をやるでもなく、愛する相手の姿を遠くからただ見つめ続けていた。

 ザクリ
 ザクリ
 真夜中の室内に、肉を切り裂くような音が響いていた。
 暗く、静まり返っていた部屋の中に、耳を覆いたくなるような音が、間隔をおいて何度か上がり、そして唐突にやんだ。
 静かになった寝台からむくりと、人影が起き上がった。
 床に落ちていた服をのろのろと拾ったその手から、べっとりと血の付いた短剣が落ちた。絨毯の上に赤黒い染みが広がってゆく。
 長い、長い髪を振り乱し、彼女は窓辺に近づいてカーテンを開けた。
 亜麻色がかった薄い色の金髪が、月明かりに照らされる。その髪をすいとかきあげると、白い顔が現れた。血のように真っ赤に塗られた唇に、うっすらと笑みを浮かべて、まるで人形のように美しい。
 その胸元には、べったりと赤黒い血がこびりつき、下腹部まで流れ落ちていた。彼女はそれを乱暴にぬぐいとると、血の付いた手を顔の前にかざした。
 なんの感情もないガラスのような瞳が、ぽたぽたと落ちる血を見下ろしていた。
 しばし放心したように動かなかった女が、くすくすと笑いだした。まるで少女のような無邪気な様子で。ひとつあくびをすると、女はまた寝台に上がろうとシーツに手を掛けた。
 そのとき、扉の外から声がした。
「どうしたの?あなた。何か声がしたようだけど」
 女はぴたりと動きをとめた。思いがけない早さで床の短剣を拾い上げると、扉の横の壁に身を寄せた。何度か扉がノックされる。
「あなた?眠っているのですか?お気をつけください。最近はいろいろと物騒な事件のことを聞きますからね」
 カチャリと、小さく音を立てて扉が開かれ、
「あら、真っ暗。やっぱり眠っていたのかしら……」
 扉の横で「彼女」は息をひそめた。部屋に入ってきたその誰かを、どうにかしなくてはならないと、血走った目が告げていた。
「でもなにかおかしいわ……なにかしら。……あなた。あなた?」
 不安そうな女のつぶやき。寝台を燭台で照らしたとき、
 その言葉は悲鳴に変わっていた。
 その瞬間、
 短剣を振り上げた「彼女」が、背後から飛び掛かっていた。


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