ケブネカイゼ

                   緑川 とうせい
           
                         
          
 ねっとりとした闇の中で、かすかな吐息が上がった。
 晩終を告げる鐘もとうに過ぎた深夜。市中見回りも終わり、貴族の住まう屋敷では、侍女たちも、馬屋番も眠りについた頃だろう。
 ラベンデュラの香水が漂う豪奢な一室に、絡み合うふたつの息づかいが響き、寝台の上の二つの影が、カーテンの隙間から届く月明かりの中でうごめいている。
「あ……」
 かすれた女の喘ぎ声が急速に高まり、それは絶頂を告げる呻きに変わった。
 秘め事のあとの幸せな息使い……それががおさまると、そのあとには、何百年も繰り返されてきたような、甘い男女の睦言の囁きがひそひそと聞こえていた。だが、やがてそれも安らかな寝息へと変わり、部屋は静寂に包まれていった。
 恋人たちの逢瀬であるなら、それは満ち足りたあとの穏やかさとともに、このまま朝まで続くものだろうが、ひっそりとした時間が、いったいどのくらい流れた頃か……
 ふいに寝台から女の笑い声がした。それは、まるで愛人の寝顔を見つめるときのような、無邪気な、可愛らしい声だった。それがやむと、いきなり「ひっ」という声が一瞬だけ上がり、またすぐに消えた。
 室内は、まったく人の気配もなくなったように静まった。
 しばらくして、寝台からむくりと起き上がるものがあった。
 その人影は音も立てずに床に立つと、まるで闇の中でも周りが見えているというような、確かな足取りで窓辺に歩いていった。
 すっと細い手が伸びカーテンを開けた。湿った夜の匂いとともに、月明かりが室内に差し込む。
 窓辺にうっすらと、白い裸身が浮かび上がった。
 長い、長い金色の髪を背中に垂らした、それはしなやかな美しい女の姿だった。
 一糸まとわぬ裸体で、女は星空の広がる窓の外を見つめている。絹のようななめらかな肌には、汗一つかいてはいない。男女の交じりを交わした後とは思えない、冷たそうな肌であった。
 女は、しばらくそうして窓の外を眺めていた。真っ赤に塗られた唇がゆるやかに広がる。そうすると、その美貌のゆえに、女の顔は月のようにさえざえとして、冷酷そうにに見えた。
 その頬には赤く流れ落ちるものがあった。とろりと、それが口許までしたたり、ぽたりぽたりと、女の白い乳房の上にしたたってゆく。
 女の右手には、赤黒く染まった短剣が握られていた。室内には血の匂いが満ち、寝台の人影からは、もう小さな寝息さえも聞こえない。
 女はそれに目をやると、安心したようにふっと息をはき、それから眠たそうにあくびをした。
 女は再び寝台に上がった。横に血の匂いを嗅ぎながら、毛布にくるまる。金色の髪が、寝台のはしからこぼれ落ち、差し込む月明かりのもと、きらきらと輝いた。
 やすらかな女の寝息と、血の匂いとに包まれ……室内にはまた、夜の静寂が広がっていった。


 //サーモンド公爵への手紙//


「前略、サーモンド公爵閣下。そろそろかねてよりの計画を実行に移そうと思います。つきましては、お預けした例の証書の件、どうかくれぐれもお願いいたします。
 私自身は、これからは身の安全がおぼつかぬ状態になりますので、もはやじかにお目に掛かれる機会はありますまい。
 もしお目に掛かれば、きっと私のこの決意も揺らいでしまうことでしょう。公爵のそのお口から私を咎めるお言葉を聞き、深いまなざしで私を無言でお見つめるそのお顔を拝見すれば、きっと私は膝をがくがくと揺らして、いかに私のしたこと、そしてこれからしようとしていることが恐ろしい大罪であるのかを思い知ってしまうことでしょう。
 ですから、あの時お別れを告げずして去ったことは、私にとってはある意味では正しい決断でした。私の身勝手、私の罪を許してほしいとはもう申しませぬ。こうしてたった一通の手紙のみでことのしだいを告げ、あつかましいお願いをすることはまことに心苦しく、公爵閣下においてはご立腹も当然のことと思います。
 ですが、私にはこうしたお願いをできる方は、この国に閣下をおいて他にはおりません。幼少のみぎりより、ときには父のように、ときには友人のように見守ってくれ、私に接してくださった。それが公爵閣下、あなたであったことはたいへんな幸運であったと、あらためて気づかされます。もしあなたでなかったら、私はこのような手紙をしたためることもなく、誰にも告げることなく闇の彼方へとひっそりと沈んでいったことでしょう。
 告白というのは、罪を犯した瞬間の数倍の勇気と、そして大変な覚悟がいることなのですね。そうであるなら、人間にとってもっともつらく耐えがたいのは、罪を背負ったままそれを誰にも告げることなく、時間を過ごしつづけることなのではないかという気もします。
 自ら犯した罪の深さに茫然としながら、それを己のうちで気が狂うまで思い悩みながら日々を生きてゆくなどということは、到底私には想像もつきません。この苦しみを誰かに言いたくて、そして言わなくてはならないと、私はあの日以来ずっと思いつづけてきたのです。
 この手紙を公爵閣下が手にしている頃には、私はすでにここではない場所へ向かっているでしょう。もしかしたら、なんらかの事態に陥り、とうに命を落としているかもしれません。
 それでも、それでも、とにかくは事のしだいをあなたに告げなくては。そうして、もしこの事実を知った人々により、世の中の物事がほんの少しでも変わってゆくのなら、私は命などは喜んで捨てましょう。
 親愛なる公爵。あなたが、たった一粒でも私のために涙を流してくれるのなら……
 いいえ、ただ黙ってうなずいてくださるだけでもいい。首をふってくださるだけでもいい。この私を、哀れと思ってくださらずともいい。ただ、私の心を、私のしたことを思い浮かべ、たった一瞬でも、私の顔を、眉をつり上げ、苦痛に歪んだこの醜い顔を、思い返していただけるのなら。私はそれで、それだけで救われましょう。
 そしてどうか、あの証書のことはくれぐれもお願いいたします。それだけが唯一の心残り。他のことはすべて終わってしまったこと。もうゆくしかないところまで来てしまった私です。
 ああ、まだ手が震えます。どうかお読みください。私の罪の全てを。
 今、隣であの人が寝返りをうちました。私は、まだ何も言っていないのです。まだ何も。
 いいえ、あるいは、もしかしたらとうに気づいているのかもしれません。彼女はとっくに。
 でも話さなくては。この手紙を書いたら、勇気を奮い起こし、きっとあの人にも話します。
 今夜のうちにどこまでお話しできるでしょうか。なにもかもを書くべきだとしたら、到底夜が明けるまでには終えることはできない気がします。
 ともかく、はじめからお話しします。すべてを書きおえるまでには、何日かかかるかもしれません。羊皮紙の束が紐でとめられなくなる前に、この懺悔が終わりますことを。
 そうして、この手紙の束を、公爵閣下がいつかお手許に置き、暖炉のもとで一枚ずつ、震えにかすれた私の文字を、その目でたどってくださることを。私はそれを祈りながらペンを走らせます。
 さあ、勇気を出して。今までほとんどしたこともない、神への祈りを今いたしました。
 では、始めます。ことのはじまりはこうでした……」
  


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