ブルーランド・マスター

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■11■ 大団円        


 勝利を収めた騎士団の艦隊がゆっくりと近づいてきていた。
 ドルテックのキャッスル・オブ・リベンジ号は、もはや逃げるのを観念したのか、動きだす様子はなかった。なにより、その当の首領が浮き具につかまって、ぷかぷかと海面に浮いているのである。
 入り江に残っていた数隻の海賊船も、今はもうほぼ制圧され、ドルテック海賊団は事実上壊滅状態となった。
 後方から接近してくる騎士団のガレオン船を見ながら、グリンは静かにその名を呼んだ。
「ジェーンレーン……」
 風になびく赤毛をすいとかきあげて、女海賊が振り向いた。
 これからするべき告白に、彼女はどんな顔をするだろうか。
 彼女はその柳眉をつり上げ、これまで騙していたことをなじり、裏切り者と自分を蔑むだろうか。それとも、ただ無言のまま向こうへ行ってしまうだろうか。
「俺は……その」
「行くんだろう?」
 彼女は何気ないふうにそう言った。
「戻るんだろう?騎士の船へ」
「……知って、いたのか?」
 驚くグリンの前で、ジェーンレーンはただ微笑んでいた。
「分かっていたよ。あんたが、ただの商人でないことくらいね」
「……いったい、いつから」
「あんたをね、初めて見たときからさ……たぶん」
「……」
「商人にしてはハンサムすぎるものあんたは。それに……とても紳士だし、勇敢だ」
 少し寂しそうに、彼女はくすりと笑った。
「自分の船にお帰り。騎士さん」
「ジェーンレーン……」
「船にお帰り。そうすれば……あんたは、きっと私のことなどすぐに忘れてしまうだろう。こんな奇妙な、あばずれの女海賊がいたことなどね」
「そんな……」
「お行きよ」
 そう言って彼女は横を向いてしまった。その顔は、まるで拗ねた少女のように見えた。
「ジェーンレーン!」
 グリンは彼女を抱きしめた。
 ジェーンレーンはかすかに抵抗したが、やがて、その手をそっとグリンの背中に回し、小さく囁いた。
「皆が……皆が見ているよ」
「だからどうした」
 周りの海賊たちから拍手が起こった。
「いいぞ、グリン!」
「男はそうでなくちゃ」
「ほらほら、お二人さん!」
 そばに来たルー・パイが呆れ顔で言った。
「見ていられないよねえ、まったく。そばに子供もいるってのに」
「おいらはべつに見ていてもいいよ。こいびとのじょうじ、ってやつをさ」
 大人びた様子でドリスは言った。
「ねえ、二人だけで話したいんなら、戦闘楼に登れば?」
「ああ、それがいい」
「行ってらっしゃいよ、お頭」
 海賊たちが、グリンとジェーンレーンの背中を押した。二人は照れたように顔を見合わせた。
 騎士団のガレオン船は、この船のすぐ後方に接近している。恋人たちに残された時間は、もうわずかしかなかったのだ。

 甲板を見下ろす戦闘楼に上がると、二人は並んで、そこから見える周囲の景色を眺めた。青々と広がる海面と、美しい諸島たち……彼らの冒険してきたその海を。
「風が……気持ちいいな」
 肩までかかる赤い髪をかき上げる、彼女のそのしぐさを、どれだけ好きだったことか。それを思いながら、グリンは口を開いた。
「ジェーンレーン……」
「うん」
「俺は、騎士だ」
 短い告白だった。
「そうか」
 ジェーンレーンはただそう言っただけだった。
 二人の目が合った。
「やっぱり、どこへいっても、俺は騎士でしかなかった。それが……分かったんだ」
 自分の心にあることを、彼は素直に告げた。
「この船での時間はとても楽しかった。ここが本当の、自分の家のような気もした。だけど、考えてみれば、やはり俺は、いつも騎士だった気がする。だから……」
「俺は帰るよ」
「ああ」
 ジェーンレーンは……静かにうなずいた。
 彼女は海を見ていた。
 マストの上から見る海はいつだって美しい。
 そして、たくさんの仲間がいるこの船の甲板を眺めるとき、なんともいえない満足な気持ちになるのだ。
「……」
 しかし、今は、それが何故だか物足りないような気がするのは、いったいどうしてなのだろう……彼女はそんな風に黙り込んだ。
 海上見える騎士団の艦隊は、それぞれのマストに交戦の意思なしを意味する青旗と、アナトリア騎士団の紋章旗をなびかせて、悠々とこちらに接近してくる。
「俺には夢があるんだ」
 沈黙を破るようにグリンが口を開いた。
「もちろん、今は騎士団と海の任務が生きがいだけど。でも、いつか……いつか海での仕事を終えた時は……お金をためて、海の見える緑の豊かな丘の上に白い家を買って、畑を耕しながら、家族や、子供たちと、そこで楽しく暮らすんだ」
 少し照れたふうに、未来を語る彼の目には、たくさんの幸せと希望とがきらきらと輝いていた。
「……それが俺の夢だ」
 ジェーンレーンは、まぶしそうに目の前の若者を見つめていた。
 そこにいるのは、すっかり日に焼けて、引き締まった口許と、強い目の光を宿す立派な海賊……そして、誇りに満ちた騎士だった。
「あのとき、この戦闘楼に、はじめて君を見たんだ」
 グリンは思い出すようにつぶやき、頭上に高く伸びるマストを見上げた。あのガルタエナで見たときの、彼女の姿……風になびく赤い髪を、その目にもう一度見るように。
「そして、その時から俺は……」
 女海賊の緑色の瞳を、彼はその目にとらえた。
「君を愛していた」
「グリン……」
 かすかに困ったような微笑み。
「ジェーンレーン。その……いつか」
「……」
「いつか俺と……」
 だが、彼女はその言葉を遮った。
「あんたは……まだ若いんだね。そう、若いんだ」
 彼女は寂しげにふっと笑うと、目の前の騎士を見た。
「あんたはこれからたぶん、立派な騎士になることでしょう。強く、勇敢で、誇り高い……そんな立派な騎士にね」
 「だから?」と、グリンは心の中で聞き返した。
「……私は、この小さな船を守ってゆくよ」
 その言葉には、彼女のこれまでの生きざまと、これからの運命への信託が縫い込まれているかのように思われた。
「私は海賊で、あんたは騎士。それは……これからも、そうさね」
「ああ……」
 恋人から目をそらすように、ジェーンレーンは遠く広がる海を見つめた。
 美しいマロック海。
 宝石のような緑の島々。心地よい風と波の音……マストの近くを今、カモメが飛んでゆく。
 ここは彼女の庭……この青い海は彼女の大地だった。
 ジェーンレーンは目を閉じた。
 大きく息を吸い込み、潮の香りを体で感じれば、どんなときでも強くなれた。そう、どんなときでも。
 騎士団のガレオン船は、今まさに、ブルー・マスター号に接舷しようとしていた。
「さて……そろそろ、下に降りないと」
 目を開けた彼女は、もうもとの女海賊だった。
 二人の時間は過ぎた。
 自分には何の力もないことをグリンは知った。
 未来の絵空言は、彼女にとっては無意味なのだ。この厳しい海で毎日を生き、そして戦う、この颯爽たる女海賊に。せせこましい丘の上の夢を語るなど、筋違いなことなのだ。
 戦闘楼から降りようと、縄梯子をつかんだグリンの腕に、女海賊はつと手を置いた。
「ジェーンレーン?」
 振り向くと、そこに、まるで怯えるように微笑む彼女がいた。
「でも……ね。もしかしたら……」
「そう、いつか……」
 ひどくためらいがちな声で……彼女は囁いた。
「もし、もしも、私が海賊をやめるときがきたら……、そんなときが本当にきたら……そして、それまで私が生きていたら……」
「ジェーン……」
 心を震わせるような予感が、ゆっくりとグリンをとらえていた。
「そのときは……ね」
 マロック海の名高き女海賊は、その頬をバラ色に染めていた。
「お前の、妻になってもいいよ」
「ジェーン……レーン」
 感動してグリンは手をさしのべ、ゆっくりとジェーンレーンを引き寄せた。
 二人はきつく抱き合い、思いを確かめ合った恋人たちだけに許される幸せな顔で、互いを見つめた。
「……でも、当分は無理だよ」
 グリンの胸に体を預けたまま、彼女はくすりと笑って言った。
「私は女海賊ジェーンレーン。このブルーマスター号の船長さ。捕まえられるものなら……捕まえてごらん」
「捕まえるとも」
 若き騎士と女海賊は、マロック海の潮風のもと、そっとその唇を重ねた。

 甲板に降りた二人を、待ち構えていた海賊たちがずらりと取り囲んだ。
「本当に行っちまうのかい。グリン」
 ルー・パイが寂しげに鼻をこすりあげた。
「なんだい。せっかくお頭の恋人だと認めてやったのに……」
「いろいろとありがとう。ルー・パイに教わった投げナイフ、もっと練習しておくよ」
 グリンは優しくうなずきかけると、他の仲間たちともそれぞれに別れを告げに回った。
「ローガン。ありがとう。あんたの銃のおかげで助かったよ」
「ふん。まあな。だが、おめえの剣もなかなかのもんじゃねえか」
 にやりと笑ったブルー・マスター号一番の銃の名手は、グリンと固い握手を交わした。
「オギナ……、いろいろとお世話になったな」
「なあに……」
 髭の操舵長は目を細めてグリンを見た。
「お前が騎士だろうと、なんだろうと、俺たちの仲間だったことには変わりないさ。またいつでも遊びに来な」
 そう言ってグリンの肩を叩いたオギナは、最後に付け加えた。
「本当ならこのまま、俺の後継者にしたいところだがなあ」
 その横では、涙ぐんだ少年が彼を見上げていた。
「グリン……そのうち帰ってくるんだろ?」
「ドリス。……ああ、そのうちきっとね。元気でな。オギナのようないい海賊になれるといいな。立派な海の男にな」
 グリンが頭を撫でると、ドリスはなにやらいたずらそうに笑い、その大きな目をくるくるときらめかせた。
「へへへ。全然気づかなかったね。やっぱり」
「なにがだ?」
「最後だから教えるけどねえ、グリン。おいらは……女なんだよ、これでも」
「な、なに?」
 それには、さすがにグリンも言葉を失った。
「お、女……の子?」
 まじまじとドリスの顔を見る。
 そういえば、確かにぱっちりと大きな目は可愛らしいし、それに……シャツの胸元を見ると、ほんの少しばかり膨らみはじめているではないか。
 唖然としているグリンに、周りの海賊たちが笑いを漏らす。
「だからね、おいらはオギナじゃなくて、ジェーンレーンみたいになるんだよ。いつか」
「あ、ああ……」
 面食らったように目を白黒させていたグリンは、いきなり甲板の上に片膝をついた。
「失礼しました。お嬢さん」
 敬愛を込めてその手に口づけをすると、ドリスは赤くなった。
「でもな……」
 立ち上がったグリンは、にわかに真面目な顔つきになった。
「女の子はいつかはお母さんになる身なんだからな。大事にしないとだめだぞ。いいか?」
「なにいってんの?」
 きょとんとしてドリスが首をかしげる。
 ぷっと吹き出したジェーンレーンが、声を上げて笑いだした。
「あははは」
 こんなに笑う船長を見たのは、海賊たちには初めてのことだったに違いない。彼らは驚いたように顔を見合わせていたが、そのうちに一緒になって笑いだした。
「ジェーンレーン!」
 和やかな空気の甲板に、怒鳴り声が届いた。
「そっちの小僧も、覚えていやがれ。てめえら、いつか復讐してやるからな!」
 浮き具ごと縄でぐるぐる巻きにされたドルテックが、騎士団のボートの上から、恨みを飲んだ顔で叫んでいた。
 それを見て、ドリスがおかしそうに声を上げた。
「その恰好のまま、張りつけにされて潮で三回洗われるんだろう?タール漬けのさらし者になっちまえってんだ。やーい」
 それが聞こえたのか、海賊はやにわにボートの上で暴れ出したが、すぐに騎士たちに押さえつけられた。ドルテックの船の部下たちも、次々に捕らえられてボートに乗せられてゆく。
 マロック海を我が物顔に席捲したドルテック海賊団は、こうしてその最後のときを迎えることとなったのである。

 そして
 ブルー・マスター号の仲間たちとの別れのときがきた。
 甲板に並んだ海賊たちを前に、身支度を整えたグリンは、一人一人を確かめるように彼らの顔を見渡した。
 進み出たジェーンレーンは、短剣で自分の髪の一房を切り、それをグリンに差し出した。それを大切そうに指に結ぶと、グリンは皆にうなずきかけた。
「では……行くよ」
「元気でな」
 自分の愛した女海賊の姿を、最後にもう一度その目に焼き付けるように見ると、グリンは甲板を降りボートに乗り込んだ。
(さようなら、俺の女海賊……)
 その古めかしい船体と、マストにたなびく赤い流旗を、漕ぎ出したボートの上から見やりながら、彼はさまざまな感慨をめぐらせた。
 思いがけぬことで始まった冒険行……ジェーンレーンとの出会いや海賊船での生活、それらひとときの夢を胸にしまい、自分はまた再び騎士へと戻ってゆくのだ。
 グリンの漕ぐボートが、ゆっくりと離れてゆく。
「おおい」
「おおぉい」
 甲板に並んだブルーマスター号の海賊たちが手を振る。
 同じ船の仲間としてともに暮らし、一緒に戦った海の男たちが、いつまでも手を振りつづけていた。
 しだいに海賊船が遠くなる。
 青い大地の主のように、自由に海を駆けめぐったブルー・マスター号……その甲板に小さくなる赤い髪の人影を見つめながら、グリンは己のひと漕ぎひと漕ぎが、甘美で自由な夢と冒険の日々から自分を引き離してゆくのを、目覚めの痛みのような切なさとともに感じていた。

 島々を背景に、ライチョウを模した十字の紋章旗をマストになびかせ、騎士団の艦隊が海上に碇泊している。
 ボートから見上げると、大型ガレオン船の甲板上には、銃をささげた騎士たちが居並んでいる。白いズホンに群青色の胴着を着たアナトリアの騎士たちの姿は、それを久しぶりに見るグリンにとって、ひどく新鮮に映った。
「グリン、グリンだな!」
 下ろされた縄梯子を登り、甲板に降り立つと、一人の騎士が駆け寄ってきた。
「グリン……お前、よくも無事で」
「ああ、スウェンか」
 グリンはなつかしい仲間の顔を見た。かつて最初の航海で友人となったスウェンが、自分を見つめて涙ぐんでいる。
「それに、こんなに日に焼けて……ずいぶん変わったな、お前」
 グリンは照れくさそうにうなずき、友人と固く手を握り合った。
「グリン・クロスフォード」
 重々しい声で名を呼ばれ振り向くと、甲板に整然と並んだ騎士たちの列がさっと二つに割れた。そこから、赤い胴着に緋色のマントを羽織った一人の騎士が現れた。
「ターモトン副団長」
 バルドス島の司令官、ターモトン副団長がこの船に乗っていることは、マストになびく旗艦を示す紋章旗からすでに知っていた。
 左胸に手をやり正規の騎士の礼をしたグリンの姿を見て、副団長は「ほう」という顔をしてうなずいた。
「しばらく見ないうちに、ずいぶんと落ち着いた良い顔になったな、グリン。それとも、男の顔になったというべきか」
「ありがとうございます」
 ターモトン副団長はグリンの父であるジョージ・クロスフォードの片腕でもあり、幼いころよりグリンはこの提督に接し、目をかけられてきた。見事な口髭をたくわえた副団長は、普段は厳格そのものといったその顔を、今は柔和にほころばせた。
「この度のお前の働き、大変なものであると報告を受けている」
「それは、ありがたいお言葉ですが……」
 グリンは首を振った。
「私は……何もしてはいません」
「いいや、そんなことはないぞ!みなお前のおかげさ」
 騎士たちの列から声が上がった。
「あ……」
 ずいと進み出たひとりの騎士を見て、グリンは目を見開いた。自分はその相手をよく見知っていた。
「俺だよ。デューンだ。キーオス島以来だな、グリン」
 そう言ってにやりと笑ったのは、かつて彼の最初の航海の朝に名簿係の前であわやグリンと決闘しかかった、あのときの騎士だった。
「ご帰還なによりだ。グリン・クロスフォード」
「こちらこそ、キーオス島では失礼しました」
「ああ、俺が乗っていたクインズ・ドウター号は、キーオス島の港町に情報を買いに来ていたんだが、店のなかに飛び込んできた海賊が、まさかお前だったとは。はじめはまるで分からなかったよ」
 デューンは笑いながら手を差し出した。二人は握手を交わした。
「あのとき、お前がこのコンパスを差し出して、海賊のアジトが記された海図を取り出したときには、これはいったいどういう企てなんだと半信半疑だったがね。だが、よくよく見れば、コンパスにはタンタルス号のブレイスガード艦長の名が刻まれていた」
 デューンは、手にしたコンパスからあらためて海図を取り出して見せると、そこに書かれた文字を読み上げた。
「私、バルドスの騎士グリン・クロスフォードは、赤毛のジェーンの船に在り……だとさ。これにはまったく驚いたね。日に焼けて髭を生やした目の前の海賊が、タンタルス号から脱出したあのグリン・クロスフォードだというんだからな。さらにだ、あの名高い女海賊、ジェーンレーン一味の船に乗っているというじゃねえか。こんな話はにわかには信じられなかったよ。タンタルス号の騎士たちはてっきり全滅したものだと思っていたからな」
「自分は、艦長たちを見捨てて一人で海に逃げたんです。他の仲間たちが殺される中を……自分だけが船から」
 うつむいたグリンは声をつまらせた。その肩を、ぽんとスウェンが叩いた。
「いや。お前は任務を果たそうとしたんだよ。皆を見捨てたんじゃない」
 だが、グリンの心にあったのは、タンタルス号から逃げたという後ろめたさだけではなかった。
 そののち海賊船に拾われてジェーンレーンと出会い、彼女とともに船で過ごすうちに、しだいに芽生えはじめた感情や、海賊となり自由気儘に暮らすことの心地よさ、そして、いっときはいっそ騎士の任務を放棄し、このまま海賊になってしまおうかとも考えた……そんな自分が確かにいたこと。それらの内心の葛藤が、騎士団の船に帰ってきた今のグリンを苛んだ。
「俺は……騎士失格だ」
 つぶやいたグリンを無言で見やり、デューンは海図を手に話を続けた。
 その話は、この大がかりな作戦の顛末を物語るものだった。
 焼き討ち船騒ぎのあったキーオス島を後にしたクインズ・ドウター号は、グリンから渡された海図を持って大急ぎでバルドス島に戻り、上層部の指示をあおいだ。会議のすえ、騎士団は海図の情報をもとに艦隊を派遣することを決定する。出港した船団は数日の航海をへて、キャスタナル諸島の西側へ到着、海図に記された海域に入った。だが、いくら探してもそれらしき島は見当たらない。そうして二日の間、艦隊は島々の間を縫うようにして探索を続けるも、結局、何の手掛かりも得られなかった。
「だがな、諦めかけていたとき、動きがあったんだ」
 デューンは、やや興奮を混じえるように話し続けた。
「その夜、碇泊していた艦隊のもとに一隻のボートが近づいてきたのさ。それに乗っていたのがこいつらだ」
 彼が手を叩くと、並んだ騎士たちの間から、何人かの少年が歩み出てきた。みなまだ十代だろう、若き騎士見習いたちである。
 そのうちの一人が、グリンの傍に来て騎士の礼をした。
「私は、タンタルス号の水夫としてあの船に乗っていました」
「タンタルス号の?」
 少年の言葉にグリンは驚いた。では、全滅したとばかり思っていたあの船に、生存者がいたというのか。
「はい。私は船倉で助けられたのです」
「そうだったのか」
 グリンは少年の顔を覗き込むようにした。
「あのとき、樽の中に私をかくまってくださいました」
 水夫たちの顔は、船倉の暗がりでよく分からなかったが、そういえばこの声は、どことなく聞き覚えがある気がした。
 ではあのとき、樽に押し込んでかくまった若い水夫たちの中に、この少年がいたのだ。
「そうか。生きて……生きていたのか」
 グリンの目に涙が浮かんだ。
 あの海賊たちとの地獄のような戦闘の中、この少年は生き延びていてくれたのか。沸き上がる喜びに、グリンはその身を震わせた。
「私だけでなく、タンタルス号には何人かの生き残った見習いたちがおりました」
 少年が横に並んだ仲間を紹介した。グリンの前に、緊張した顔で五人の少年たちが立っていた。
「こいつらはな、グリン。ドルテックのアジトから脱出してきたんだよ。小さなボートに乗ってな」
 デューンが説明した。
 タンタルス号に乗った少年たちは、船倉の樽や、海賊たちに見つからぬ場所に隠れてドルテックの島にやってきた。しばらくの間は海賊たちを恐れて、船の中で身をひそめながらの生活が続いたそうだ。そうしてひと月ほどたったある夜、彼らは決意して、生き残った仲間たちとにボートで漕ぎだし、島を抜け出したというのである。
「そう、だったのか……」
 グリンは彼らの勇気と幸運に、心の中で感謝の祈りを捧げた。
「こいつらのおかげで、海賊のアジトの正確な位置が分かったのさ。さあ、それからは艦隊は大騒ぎよ。大急ぎで戦闘準備をし、翌朝の夜明け前に島に接近し、そして一斉攻撃を開始したのさ」
「ああ……」
 デューンの説明を聞きながら、グリンは何度もうなずいた。 
 それでは、あのとき、崖に追い詰められていた自分たちが助かったのは、つまりはこの少年たちのおかげだったのだ。そしてさらに遡れば、自分がコンパスに隠した海図を騎士たちに渡したことで、騎士団が艦隊を動かし、海賊のアジトに乗り出した……すべてはその結果であったのだ。
「さあ、そこであの船のおでましだ」
 デューンは海上に見える船を指さした。グリンもそちらを見た。
 一本マストに赤い流旗をなびかせるスループ船……
「ブルー・マスター号か。あの旗が見えたとき、あれが赤毛のジェーンの船だと分かった。海図に書き留めてあったお前の文字を思い出し、あの船は敵じゃないって、俺は何べんも艦長や、他の船の奴に大声で叫んだもんだ」
「ああ……」
 この壮大な物語を聞き終えたグリンは、しばらくの間、言葉を失っていた。
(なんという……)
 沸き上がる感慨に、心が震える。
 今さらに思い返してみても、この数々の体験が、実際に自分の身の上にあったことだとは、にわかに信じられない気がする。
(なんという冒険だったろう……)
 騎士として出帆し、それから海賊となり、海の上で過ごしたあの時間……限りない自由を爽快に感じながら、海賊船の甲板から見たあのはてしない海……あまりにも甘美な自由への誘い……
 激しく揺れ動いた自分の心を、そっと思い返すだけで、自分はたぶんこれからも、そのときの場面場面を頭に蘇らせ、泣きたいような、そして笑いたいような、そんな気持ちになるのだろう。
(ジェーンレーン……)
 そして、マロック海を駆け巡る、あの愛すべき女海賊のことを、胸の痛みとともに思い出す度に。
 指に結び付けた赤い髪を見つめ、彼は口元に笑みを浮かべた。
「おい、なにをにやついているんだ?」
「ああ……いや。なんでもない」
 こればかりは決して言えない秘密……それを、いったん心にしまいこんでから、グリンは顔を上げた。そうして騎士の顔に戻ると、甲板に整列する、ライチョウの紋章を胸にした仲間たちを見回した。
「俺は、騎士に戻れますか」
「もちろん」
 グリンに向かって、ターモトン副団長がうなずいた。
「ほらよ、お前のものだ」
 デューンが銀のコンパスを差し出した。
「しかし、それは……」
 アナトリアの騎士にとって、自分のコンパスを持つというのは、自らの船を持つという意味もあり、それは船長の印でもある。
「バルドス島に戻ってから、正式な辞令があるだろう。グリン・クロスフォード……海尉」
 副団長がにこりと笑ってうなずいた。
「海尉……」
 グリンは驚きながら、デューンやスウェン、それに他の仲間たちを見回した。それから両足を揃えると、胸に手を当て騎士の礼をした。甲板に居並んだ騎士たちから拍手が沸き起こる。
「見ろ。海賊船が」
 騎士の一人が海上を指さした。
 碇泊していたブルー・マスター号が動きだそうとしていた。マストに白い帆を広げ、赤い流旗をはためかせて。
 まるでグリンに別れ告げるかのように、海賊船は、こちらの船主近くをゆっくりと通りすぎてゆく。
 青い海と緑の島々を背景に、太陽の方向へと。
 グリンは、それを眩しそうに見つめた。
 美しき赤毛の女海賊、ジェーンレーンとともに過ごしたこの海で、自分はこれからも生きてゆくだろう。
 そう……ひとりの騎士として。
 海を滑るようにゆく、ブルー・マスター号……
 青い大地を駆けるその小さな海賊船を、一つの夢の終わりのように……グリンは甲板の上から、ずっと見送りつづけた。

 バルドス島に戻り、辞令を受けたグリンは、正式に海尉となった。
 当初は、最新鋭のガレアス船一隻を与えられる予定だったが、彼はそれを辞退した。その代わりに、ドルテックのアジトから引き上げてきたかつての乗艦、タンタルス号を改修して自らの船とした。
 それからのグリンは、海賊を取り締まり、商船を警護するという、マロック海での己の任務を堅実に果たしつづけた。
 正義感に富み、勇敢で、ときに機転をきかせたその仕事ぶりから、やがて、彼はアナトリア騎士団の中でも、最も有能な艦長の一人に数えられるまでになった。
 果敢に海賊船を追いかけ、ときに戦い、見事にそれを拿捕する彼であったが、赤毛のジェーンの船に遭遇したときだけは勝手が違った。
 やはり、マロック海の主は彼ではなかった。
 その船の見事な操舵技術と、迅速かつ大胆な作戦の前に、何度となく騎士たちはしてやられた。
 そして、仕事が非番の日には、彼は時々ジェーンレーンに会いに、一人で小型船に乗って海に出た。
 なつかしい海賊船では、グリンはまるで客人のようにもてなされた。それというのも、船の連中は、彼が頭の恋人であることを知っていたのだから。
 そうしてしばらくは、マロック海におけるこの奇妙な追いかけっこは続いたが、女海賊の船は最後まで捕まることはなかった。

 さらにその数年後、
 若くして提督となったグリンは、とある港町に立ち寄ったとき、白いドレスに身を包んだ美しい女性と出会った。
 目深に帽子をかぶったその女性が誰なのか、はじめは彼にはまるで分からなかった。
 だが、うっすらと微笑んだ彼女が、そっと彼に寄り添い、手をとったとき。
 彼は知った。
 女海賊ジェーンレーンは船を降りた。
 彼女は約束を守った。
 青い大地の主は、赤毛の花嫁になった。


                     
                       Ending BGM "Stranger in Your Soul"
                                by TRANSATLANTIC
            

         




     
■あとがき

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