ブルーランド・マスター

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■10■ 海上の決闘


 海賊たちは銃を手にしたまま、それを撃つことも忘れて立ち尽くしていた。
 ぽかんと口を開けたドルテックが、のろのろと震える指で海上を指した。
「あれは……」
 朝日に照らされ、輝く海面に突如出現した船団……
 暁色の空を背景に、全ての砲門をこちらに向けて、その船団はぐんぐんと島に接近していた。
「なんだ、あいつらは。何者だ!どこの船だ、いったい……」
 うわずった声でドルテックは叫んだ。だが、海賊たちの中には誰も答えられる者はいなかった。
 その間にも、ドーン、ドーンという轟音がひっきりなしに鳴りつづけ、着弾による振動が地鳴りのように伝わってくる。
 崖の上の二人は、寄り添ったまま海面を見つめていた。
「ああ……彼らだ」
「グリン?……」
「彼らが……来たんだ」
 そうつぶやいたグリンの目に、強い光が宿っているのをジェーンレーンは見た。
「彼ら?」
「ああ……」
 大きくうなずくと、グリンはその船団に目を向けた。ガレオン船のマストにはためく、あのなつかしい旗に目を輝かせながら。
「飛び下りられるか?ジェーンレーン」
「なに?……ここから、か?」
 グリンの言葉に驚きつつ、彼女は崖の下を見やった。
 切り立ったこの崖から海上までは、かなりの高低がある。海面には激しい波が渦巻き、打ちつけられる水しぶきが高く舞い上がっている。船の甲板から海に飛び込むよりずっと危険だろう。
 ここから飛び下りて、果して無事でいられるか、その保証はない。
「たとえ、岩に砕かれても……お前となら」
 彼女は、グリンの目を見てうなずいた。
 グリンもその手を強く握り返す。
「よし」
 二人は並んで崖に立った。
 海賊たちは悲鳴を上げながら、ばらばらになって逃げ出そうとしていた。部下たちに大声で怒鳴り続けるドルテックが、こちらに気づいて振り返ったときには、もう、二人は足を踏み出していた。
「あっ、てめえら、何を……」
海賊が言うより早く、二人の姿は崖の下へ消えた。
鳴り響く大砲の轟音に、水がしぶく音はかき消された。
「飛び下りやがった……」
 呆気にとられていたドルテックは、崖に駆け寄って下を覗き込んだ。激しい波に泡立つ岩場に、二人の姿はどこにもなかった。
「はっ、馬鹿が……」
 顔を歪めて海賊はつぶやいた。
「お頭……これからどうしやす?」
部下の一人が駆け寄ってきた。
「とにかく、すぐにアジトまで戻る。……いや、待て」
 言いかけて海賊は首を振った。
「港だ。船を出すんだ」
「はあ……」
「急げ、このボケ。全員に知らせろ。これは戦だ!どこのどいつか知らねえが、このドルテック様に喧嘩を売るたあ許せねえ。思い知らせてやる」
「は……はっ」
 泣きそうな顔で部下が駆けだしてゆくのを見送り、海賊は海上に目をやった。日の昇りだした水面に白い帆を広げて進んでくる、その船団を睨み付けるようにして。

「ジェーンレーン!」
 海面から顔を出したグリンは、彼女の名を呼んだ。
 海面にぶつかった衝撃は思いの外大きく、海中に投げ出されるときにつないでいた手が離れてしまった。
「どこだ?ジェーン……」
 グリンがなおも叫ぼうとすると、
「ここだよ」
 近くの水面から、彼女がぽっかりと顔を出した。
「無事か?」
「ああ……お前も」
「よかった……。ジェーンレーン」
「グリン……」
 二人は海中で手を取り合った。
「あーあ。見てらんないね」
 波の音に混じって、声が聞こえた。
 ゆるゆると一隻のボートが近づいていた。
「せっかく急いで来てみればラブシーンかよ。まったく」
 ボートを漕いでいたのは、いたずらそうな目をした少年であった。
「ドリス?」
 思わずグリンはその名を呼んだ。
「やあ、生きてたかいグリン。それにお頭も」
「ドリス……お前、なんでここに」
 いきなりのことに、ジェーンレーンも水の中で目を丸くしていた。
「さあ、ともかく乗んなよ」
「あ、ああ……」
 ボートに乗せられた二人は、まだ何がどうなっているのか分からないとばかりに、互いに顔を見合わせていた。
「さっきはサ、二人が崖の上から飛び下りたのを見て、うわっ、ヤバっと思ったけど……無事で良かったね」
 けろりとそう言うと、ドリスは慣れた手つきでボートを漕ぎ出した。
「でも、いったいどうして……」
 言いかけたグリンに、少年は返事の代わりに指をさした。
 海の上にすいと現れた、見慣れた船体……
「あ……」
 その舳先を見た瞬間、グリンとジェーンレーンは一緒になって叫んでいた。
「ブルー・マスター号だ!」
 古めかしい小型のスループ船……ブルー・マスター号。
 女海賊ジェーンレーンの快速船。そして彼らの帰るべき船が、そこにいた。
 ボートが横付けされ、下ろされた縄ばしごを登って甲板に立つと、見知った顔の海賊たちが、ぐるりと二人を取り囲んだ。
「お頭!」
「ジェーンレーン!」
「お頭ぁ……よく無事で」
 海賊たちは今にも泣きだしそうなものや、満面の笑みで歓声を上げるものもいた。中には空に向かって銃をぶっ放す者もおり、それぞれに喜びの大きさを表して、彼らの主を出迎えた。
「みんな……」
 ジェーンレーンも、日頃はめったに見せないような笑顔で、仲間たち……彼女の船の家族を見渡した。
「お頭」
「オギナ……よくここが」
「ええ。まったく……ご無事でなにより」
 彼女の最も信頼する操舵長の変わらぬ穏やかな顔に、ジェーンレーンはほっとしたようにうなずきかけた。
「グリン!」
 駆け寄ってきたのはルー・パイだった。彼女は涙でぐしゃぐしゃの顔で周りの連中を突き飛ばし、グリンに抱きついた。
「お、おい……」
「わーん、グリン。心配したんだよぅ。あたし……あんたが死んじゃったんじゃないかって。だって、だって、あんたってば、あの焼き討ち船の上にいて……それから急にいなくなって……そんで、探しても探してもどこにもいなくて……お頭も消えちゃうし。海は広いし。てっきりもう、二人は死んじまったもんだとばかり……」
「ありがとう。俺は戻ってきたよ」
 泣きじゃくるルー・パイにやや困りながら、グリンはその肩を優しく叩いてやった。
「よく戻ったなグリン」
「お前……まったくよく無事で」
 他の仲間たちもグリンの帰還を喜び、笑い合い、肩を叩き合って祝福してくれた。
「ああ……ありがとう」
 こみ上げてくるものを抑えきれず、グリンは声を震わせた。
 この愛すべき海賊たち……船の仲間、そして兄弟たち。
 ほんの数カ月の間だったが、ここは彼にとってもすでに、戻るべき「家」になっていたのだ。
「お前は俺たちみんなを救ってくれた。あの焼き討ち船に乗り込んで、舵を取っていたお前の姿を、遠くから見ていたぞ」
 オギナはそう言って、グリンの肩をぽんぽんと叩いた。
 ブルー・マスター号の甲板は、しばらくの間、英雄たちの帰還に酔いしれ、騒がしくざわめいていた。
「しかし……ねえ。その恰好」
 グリンとジェーンレーンを見比べて、ドリスがにやにやと笑いを浮かべていた。
「お頭は、これから結婚でもするの?」
「なんだって?」
「だってさ、そのドレス」
「あ……」
 ジェーンレーンは自分の格好に目をやった。自分が柄にもないひらひらとした青いドレスを着ていたことを思い出し、彼女はぱっと顔を赤くした。
「グリンのは……ひどいな。まるで十年間くらいずっと着替えていないみたいだ」
「う……」
 確かにその通りだった。焼き討ち船で焼け焦げ、ボートの漂流からドルテックに捕まり、地下牢での幽閉、そして脱出と……その間に彼の服は、見るも無残なボロ雑巾のようになっていた。
「ホントひでえや。お頭と並ぶと、まるでお姫様と乞食だな」
 げらげらと笑う海賊たちにつられて、グリンも思わず吹き出した。
 ジェーンレーンは部下たちの笑いに耐えるという、かつてない経験を強いられ、なんとも言えない顔つきで口をへの字に曲げていた。
「おほん、とにかく……」
 咳払いをひとつ、彼女は毅然とした様子をとりつくろって、部下たちに命じた。
「皆、部署に戻れ。それから操舵長、これまでの経緯を手短かに報告しろ。私は……早く着替えたい」
「アイアイサー」
 海賊たちは、久しぶりの船長からの命令に喜び勇んで、それぞれの持ち場へと戻っていった。ただし、グリンの腕を離そうとしないルー・パイと、その横に立っているドリスは、まだその場にとどまっていた。ジェーンレーンは、その二人をじっと睨んだが、すぐに諦めたような苦笑を浮かべた。
 指揮をとるための後部甲板に上がると、ジェーンレーンは我が家に戻ってきたというように、船を見渡して、満足げにうなずいた。
「それでは、操舵長、現在の状況から頼む」
「へえ」
 操舵手の後ろに立ち、指示を送りながら、オギナが話しはじめた。
「まず、現在この船は、なるべく戦闘に巻き込まれないよう、島の西側に迂回しています」
「戦闘といったな。つまりそれはあの船団と、ドルテックとの戦い、そういうことだな」
「そうです」
「それで、あの船団についてだが……どうやら、お前は知っているようだな」
 彼女は、ちらりとグリンを見て言った。うなずいたグリンは、確認するように操舵長に尋ねた。
「あれは……アナトリア騎士団の艦隊、ですね?」
「ああ、その通り」
 オギナは答えた。
「キーオス島でのあの焼き討ち船騒ぎのあと、自分らはいなくなっちまったお頭たちを探して、沖合を見回り続けていたんですがね……ああ、あの焼き討ち船ですが、あれは港の真ん中で燃え尽きました。何隻かは巻き添えになったみたいですが、結果的にはそう大きな被害にはならなかった。お頭とグリンがあれに乗り込んで舵をとってくれたおかげですな。……それから、どうしたものかとしばらく途方に暮れていたんですがね、夜が更けたころになって、キーオス島から慌ただしく出帆してゆく船がありまして。その船はなにやら一刻を争うというように、全速力で西へ向かっていくもんでさ、これは怪しいと後を追うことにしたんです。それに、お頭たちがもしボートで流されるとしたら、潮の流れからいっても西だろうと分かっていたので」
 オギナの報告の間にも、ドーン、ドーン、という大砲の音は、遠くに聞こえつづけていた。騎士団とドルテックの戦いが、本格的に始まったのだろう。
「お頭、念のため旋回砲を準備させますかい」
「そうだな」
 オギナは「戦闘準備!旋回砲用意」と、大声で命じた。甲板の船員たちが慌ただしく動き出す。
「さて、どこまで話しましたかね。そうだ、西へ向かった船……その船を追っているうちに、それがただの商船ではなく、かといって海賊船でもないことが分かったんです。何故ならその船はまっすぐバルドス島に向かっていたんです」
「ほう」
「かなり距離をおいていたので、一、二度見失いかけたんですがね、ですが確かにその船がバルドス島に入港するのを見ました。我々は騎士たちに見つからないように、バルドス島の沖合に二日ほど碇泊しました。こちらとしては、一刻も早くお頭たちを捜索したくて焦っていたもので、その間ずいぶんいらいらしましたがね。しかし、他に手掛かりもないもので、ここは仕方ないと腹を決めたんでさ。すると二日後の早朝のことでした。バルドス島の港から次々と船団が出帆してゆくじゃないですか。数えただけでも武装した大型ガレオン船が六隻、最新型のガレオットが二隻、それに小回りの利く中型のやつが三隻ほど。こりゃ大艦隊ですよ。それを見ていたこっちは驚いて、こりゃきっと何かがあるとふんだんです。それでまたこっそりと、その艦隊の後を付いていったんです」
「ふむ」
 ジェーンレーンはさっさと邪魔なドレスを着替えたい様子だったが、操舵長の話が大変興味深いものだったので、その場にとどまっていた。オギナは急いで先を続けた。
「騎士団の艦隊は北西に向かっていました。つまり、キャスタナル諸島の西側ですな。すでにキーオス島でお頭たちを見失ってから四日もたっていましたから、我々もお二人の安否を不安に思い始めていた頃だったんですが、ともかくも、艦隊の後をゆけば何かがあると信じるしかなかったわけです。で、それから一日ほどついてゆきましたが、騎士たちの船はキャスタナル諸島の西側の、小島に囲まれた狭い海域にどんどん入ってゆくじゃありませんか。なにせ、こんな面倒な海域に入るからには、よほどの理由がなくてはならないわけで、こりゃあもしかしてと……そのあたりでなんとなく分かりました。つまり、騎士団はなんらかの情報をもとに、どこぞの海賊団のアジトを急襲するつもりなのだ、と」
 それを聞いて、グリンはごくりとつばを呑み込んだ。あのキーオス島で、己の果たした役割を思い浮かべながら。
 オギナは話しつづけた。
「しかし艦隊は、島々の間をうろうろと周回するだけで、いっこうに目的地が定まらぬ様子でした。我々は小島に隠れたりしながら、ふらふらとして方角を決めかねているような艦隊に仕方なくくっついていました。さすがにもう、いいかげんこんな尾行は時間の無駄だと、忍耐が切れかかった頃でさあ。丸二日の間、この海域をただうろうろとするだけだった騎士団の艦隊が、昨日の夜半になって突然、進路を定めたように動き出したんです。我々も慌ててそのあとを追いました。そして今日の明け方になって、ようやくここにたどり着いたんでさ。すると騎士団の艦隊は一斉に砲門を開き、この島に向けて攻撃を始めたんです」
「なるほど。つまり、ここがドルテックのアジトだと、騎士たちは最初から知っていたというわけなののか?」
「さあ、それはどうだか。自分らは艦隊から少し離れて、島の西側の岩場に隠れながら慎重に近づいたんです。すると、マストに登って見張りをしていたドリスの奴がいきなり叫びだして……崖の上に人がいる、あれはお頭だって……、これにはたまげましたよ」
「へへへー、おいらが最初に見つけたんだよ。崖の上にいたお頭とグリンをさ」
 横にいたドリスが得意気に鼻をこすった。操舵長はその頭をポンと叩いてやった。
「それからは大慌てで、なんとか二人を助けろってんで、艦隊の大砲の音にまぎれて岩影に隠れながら島に近づき、ドリスをボートで向かわせたってわけです」
「なるほどな。そういうことだったか。ご苦労だった」
 オギナの報告を聞いて納得したようにうなずくと、
「さて、これからのことだが……そうだな。もうこんな所には用はない、とっととずらかるか。……と言いたいところだが」
 ドレス姿の女海賊は、にやりと笑いを浮かべた。
「私としては、このままじゃ腹の虫かおさまらないな。お前はどうだ?グリン」
「俺も同じだ」
 タンタルス号での虐殺から、牢獄での屈辱、そしてジェーンレーンに対する行為などのすべてが、グリンの怒りをかき立てた。
「ドルテックには借りがある。船を襲われ、仲間を殺された……できることなら、戦いたい」
「ふむ。皆はどうだ?」
 ジェーンレーンは船の海賊たちに問いかけた。
「戦いに反対のものは?このまま逃げ帰って、酒を食らって眠りたいものはいるか?」
 甲板は静まり帰った。海賊たちは、誰もなにも言わず、ただ彼らの船長のたったひとつの命令を静かに待っている。
「よし。では野郎ども、ドルテックの奴らと一戦交えようか!」
 ジェーンレーンが高らかに告げると、甲板に居並んだ海賊たちは高々と腕を突き上げ、力強い叫びを上げた。
「ですが、お頭、今俺たちの船が近づいたら、あの騎士の艦隊に攻撃されますぜ。なにしろ、向こうにとってはドルテックだろうがそうでなかろうが、海賊は海賊。区別なんてありゃしないでしょう」
「いや、大丈夫だ」
 そう言ったのはグリンだった。
「旗を……ジョリーロジャーを上げるんだ」
「なんだって?それじゃまるで、こっちが海賊だと教えるようなものだろう?」
「いいや。この船の旗なら……赤毛のジェーンの旗は、特別だ」
 きっぱりと言ったグリンに、オギナは目を丸くした。
「しかし……」
「いいだろう」
 静かに微笑むと、ジェーンレーンは命じた。
「グリンの言うとおりにしろ。旗を上げろ」
「し、しかし、お頭……」
「操舵長。命令は聞こえたな」
「は……、はっ」
「では、私は着替えてくる。戦闘準備が整ったら知らせろ。珊瑚礁の出口でドルテックを迎え撃つ」
「アイアイ・サー」
 ブルー・マスター号は、ぐるりと島を半周し、島の東側に出た。
 珊瑚礁の入り江に近づくにつれ、辺りに鳴り響く大砲の音がだんだんと大きくなった。ドルテックと騎士艦隊との戦いが、激しく続いているのだろう。海面のいたるところで着弾の水しぶきが上がる。
 騎士団の艦隊は島の入り江を取り囲むように広がり、大砲での攻撃を間断なく続けている。一方の海賊側は、船の数でも砲門の数でも明らかに劣っていたが、ただ一つだけ有利であったのは、複雑な地形のサンゴ礁を間に挟んでいたことだった。
 サンゴ礁の間を通り抜けることは、大型のガレオン船はもちろん、たとえ中型のガレアス船でも簡単なことではない。騎士団の艦隊は入り江に入ることができず、遠方からの砲撃をするより他に戦いようがなかったのだ。ドルテックはそれを逆手に取り、騎士船を散開させて砲撃を分散させながら、ゆるゆると脱出を計ろうとしているようにも見える。
 シンボルである赤い流旗をマスト高くかかげたブルー・マスター号は、騎士団の艦隊が並ぶ入り江の外側に近づいていた。
「このまま、近づきますか?」
 自ら舵を握るオギナが、ジェーンレーンを振り仰いだ
「そうしよう。おそらく、ドルテックの船は珊瑚礁の間から出てくるはずだ」
「騎士団のガレオン船がこちらに気づいたようです。砲門がこちらを向きます!」
「あわてるな。このまま前進……だな?グリン」
 真新しいブラウスとズボン姿で、ぎゅっと髪を後ろに束ねた彼女は、すでにいつも通りの颯爽たる女海賊「赤毛のジェーン」その人であった。その横に立つグリンは、前方の海を見据えながらうなずいた。
「相手船の射程内に入ります」
 甲板の海賊たちに緊張が走る。騎士団の船がはたして本当に攻撃してこないのか、誰もが内心では半信半疑だった。
「たのむぞ……」
 舵をとるオギナも思わずつぶやいた。ジェーンレーンとグリンは、ただじっと前方を見つめている。
 騎士団の船は、その甲板にかすかに動きを見せた。だが、どの船からも一発の砲撃も上がらなかった。
 こちらを向いていた砲門が、再びドルテックの船を狙ってするすると向きを変えはじめると、ほっとしたようにオギナが言った。
「なんだか知らねえが、ありがてえ。これで入り江の出口まで行けますぜ」
「よし。では、サンゴ礁にめいっぱい近づけ。どこかに切れ目があるはずだ。そこからドルテックが出てくる」
「アイ・サー」
 ブルー・マスター号は小型船の利を活かし、騎士団のガレオン船が近づけないサンゴ礁の浅瀬の、そのぎりぎりまで進入していった。
「旋回砲用意!」
 ジェーンレーンが手を挙げると、甲板の砲門が一斉に入り江に向けられた。
「撃てっ」
 点火された砲門が一斉に轟音を上げる。
 撃ち出された砲弾は、サンゴ礁を越え、ドルテックの船団に降り注いだ。爆発と水しぶきが上がり、そのうちの何発かが見事に敵船のマストを破壊した。
「さすが、ポート・イリヤで買った最新の旋回砲。いい命中率だ」
 後部甲板のジェーンレーンが、満足そうにうなずく。
「よし、野郎ども、せっかく買った砲弾と火薬だ。しける前に全部使ってしまえ!」
 ブルー・マスター号の砲門は次々に火を噴いた。騎士艦隊からの砲火に加え、より近くからの砲撃が加わり、ドルテックの船団は明らかに動揺している様子だった。すでに、数隻の船が砲弾を受けて航行不能に陥り、残った船も狭い入り江の中で身動きがとれず、立ち往生していた。
 太陽が中天にさしかかるころになると、おおむね、戦いのゆくえは決しつつあった。
 すでにもう、ドルテック船団からの砲撃はほとんどなくなっていた。戦闘可能な船はほとんど残ってはおらず、砲弾も使い果たしたのだろう。それを見て取ってか、騎士団のガレオン船はいったん砲撃を止めていた。彼らは小型の船を出して、サンゴ礁を突破するつもりらしい。いよいよ、島は完全に包囲されつつあった。
「お頭。ドルテックの船が一隻、全速で浅瀬を抜けてゆきます」
「そうか、よし」
 ジェーンレーンは、待っていたとばかりににやりと笑った。
 船体に何発も砲撃を受けたドルテックの船は、島の岩場にそってサンゴ礁を抜けようとしていた。騎士艦隊はそれにまだ気づいていないようだ。どちらにしても、サンゴ礁と岩場に挟まれ、大型船ではそこに入れない。ただし、小回りの利くスループ船、ブルー・マスター号であれば、まったく問題ではない。
「よし、追いかけろ。右舷開きの詰め開きだ」
「右舷開きの詰め開き。ようそろ」
 甲板の船員たちが、指示に従って帆の角度を変えてゆく。
 オギナの見事な舵取りで、ブルー・マスター号は座礁しないぎりぎりのコースをとってサンゴ礁の近くに進入し、接近してくるドルテック船の進路を塞ぐように立ちふさがった。
「砲撃用意!」
 左舷からよろよろと近づくドルテックのキャッスル・オブ・リベンジ号は、見るも無残な姿に変わり果てていた。ヘッドスルーは根元から折れ、メンスルーの半分までは真っ黒に焼けただれていた。船体は何発もの砲弾を受けて、無残に穴があいている。
「お頭。相手船のマストに白旗が見えます」
「白旗だと?」
 ジェーンレーンはおかしそうに口をゆがめた。
「あいつがそんな殊勝な代物を用意しているものか。ドリス!」
「アイアイ・サー」
 少年はするするとマストに登っていった。
「本当だ!白旗だよ」
 戦闘楼のドリスが甲板に向けて叫んだ。
「でも、なんだか、あれは旗じゃなくて、白いシャツみたいだ」
 それを聞いて、ジェーンレーンとグリンは顔を見合わせた。
「なるほど。旗の代わりに、誰かが甲板でくしゃみをしているというわけだな」
「ふん……よかろう。このまま接近させろ。ただし、相手船に不穏な動きがあったら、すぐに砲弾を撃てるよう用意しておけ」
 ブルー・マスター号の船員たちが見守る中、ドルテックのガレオン船がゆっくりと近づいてくる。その崩れかかったマストには白旗と、骸骨と砂時計の模様がかろうじて分かる、焼け焦げた海賊旗をなびかせて。
「ドルテック船と並びます」
「当てられぬよう距離はとっておけ。砲門は開けたままだ」
 二隻の船は接近し、平行に並んだ。
「ジェーンレーン!」
 相手船の甲板から声が上がった。破損だらけの甲板から、ドルテックが身を乗り出すようにして叫んでいた。
「やはり生きていたか!それに、そっちの小僧も」
「どうした?おまえが白旗を上げるとは。マロック海に名高いドルテック海賊団もこれまでというわけか?」
 ジェーンレーンの嘲笑まじりの言葉に、かっとなった海賊は甲板上で両手を振り回した。
「やかましい!あのくそったれ騎士団どもめ、今に見ていやがれ!だが、くそ。今日のところは退却だ。見ていろ……いつか、いつか復讐してやる」
「他の船の部下たちを見捨ててか。落ちたものだな。お前も」
 入り江では、残った数隻の海賊船がいまだ騎士艦隊と砲火を交えている。仲間を捨てる行為は、騎士であろうと海賊であろうと、もっとも許されざる振る舞いであることを、ジェーンレーンも、その隣にいるグリンも知っている。
「うるさい!俺さえ生き残れば、ドルテック団はいつでも再建できるんだ。どうあってもそこを通してもらうぞ」
 ドルテック船は、ほとんどこちらに接舷するほど接近していた。
「勝負だ、ジェーンレーン。一対一で剣で戦うんだ。俺が勝てば、このまま行かせてもらう」
 海賊は甲板上ですらりと剣を抜いた。
「なるほど。それで、こっちが勝ったら?」
「好きにしろ。砲撃するなり、騎士団の犬どもに俺の首を差し出すなりな」
 どうやら、ドルテックは本気のようだった。追い詰められ、他に生き残る手段がないと踏んだのだろう。
 ジェーンレーンは腕を組んだ。ちらりと横のグリンを見やり、
「……いいだろう。停船だ。帆をたため」
 彼女はそう命じた。
 二隻の船は左手に島の岸壁を見ながら、サンゴ礁の外側で並んで停船した。ドルテック船の甲板では男たちが長い板を持ち上げ、それをこちらの船に押し出してきた。二隻の船に、人一人が歩けるほどの板が通された。
「なるほど、この上で決闘するというわけか」
「ああ。海に落ちるか、どちらか降参した方が負けだ。さあ、そっちは誰が俺の相手をする?お前が直接やるか。ジェーンレーン」
 板の上に足をかけたドルテックは、挑発するように曲刀を振り回した。
「俺が……やる」
 進み出たのはグリンだった。
「かまわないな?ジェーンレーン」
 細身の剣を引き抜いた彼の目には強い光が宿り、その体からは押し殺したような怒りが漂っていた。
「奴は、強いぞ」
 女海賊はグリンの腕に手を置き、かけがえのない相手を見るまなざしを彼に向けた。
 板に足をかけると、海からの風が頬を冷たく吹きつけた。海の上を通された長い板は、船が揺れる度に不安定に傾き、気をつけていないと滑り落ちそうになる。
 グリンはなるたけ下を見ないようにまっすぐ前を向き、そろそろと板の中央まで進み出た。
「来たか、若造」
 待ち構えていたドルテックが、歯を剥き出して獰猛に笑った。両手で構えた半月刀をこちらに突き出して。
「今度こそ海の底に叩きこんでやる」
 海賊の言葉にも怯むことなく、グリンは剣を構えた。狭い板の上で、二人はじりじりと近づいた。
「おらっ」
 先に仕掛けたのはドルテックだった。
 横凪に振られた剣先を、グリンは後ろに下がって避けた。攻撃を剣で受ければ、この狭い足場ではバランスを崩してしまう。
「おらっ、どうした。避けるだけか?ええ、ぼうや!」
 ドルテックの方は、明らかにこうした戦いに慣れている様子だった。後退したグリンを見るや、次々と攻撃をしかけてきた。
「お前は、とんだ腰抜け野郎だ!」
 その言葉に、グリンは鋭く相手を睨み付けた。
「お前だけは……許さない」
「なんだと?なにか言ったか、ぼうや」
 海賊はせせら笑い、ぺろりと舌を出して挑発した。
「お前はジェーンレーンの恋人なのか?それで、この俺に腹を立てているってのかい?」
「そんな……ことじゃない」
 グリンの眉がつり上がった。その凄まじい形相に、さしものドルテックも少しひるんだようだった。
「お前は……皆の仇だ。タンタルス号の……皆の」
「タンタルス号、だと?そんな船は知らん。いや、待て……タンタルス号?」
 なにかを思い出しかけたのか、ドルテックはまじまじとグリンの顔を見た。
「んん、まさか……。ははあ、そうか!お前は……あのときの小僧か。そうだ、確かあの船を占領したときに、船倉へ案内させた、あの時の……なんてことだ」
 驚きに目を見開いた海賊は、それから何度もうなずいた。
「いや、どこかで見たツラだとは思っていたが……どうりで。しかしまさかな。ああそうか、そういうことか。お前はあの船にいた。つまり……騎士なんだな」
「……」
「おいぼうや。見違えたぜ。牢にぶち込んだ時は、ただの汚らしい海賊のぼうやにしか見えなかったが。あの時、船から逃げ出した小僧が、いったいどんなことがあって海賊なんぞになって、しかもジェーンレーンの男になって、こうして、この俺に対して剣を向けているのかは知らんがな……」
 握り直した剣をグリンに向けると、ドルテックはにやりと笑った。
「これも何かの運命だな。あのとき、船倉にいた奴らと同じく、おめえも今度こそ叩き殺してやるよ」
「……」
 残虐な笑みを浮かべて、海賊はにじり寄ってきた。
 だが、今度はグリンも退かなかった。海賊の動きを見逃すまいと、その目を鋭く光らせて。
「やる気だな。いい度胸だ!」
 海賊が剣を振り上げた瞬間、
 グリンはその懐に飛び込んでいた。
「なっ……」
 意表をつかれたドルテックが慌てて剣を振り下ろす。
 グリンは腰を落とし、それを剣先で受け止めると、そのまま相手に体当たりした。
「おわっ!」
 海賊は態勢を崩して、板の上に尻餅をついた。
 かろうじて海に転げ落ちずにはすんだが、剣を振り上げたグリンが見下ろしていた。
「ドルテック、覚悟!」
「くっ……、マーカス!」
 海賊が大声で叫んだ。
 ドルテック船から銃声が鳴り響き、弾丸がグリンの腕をかすめた。
「つっ」
 右腕に痛みが走った。
 のけぞったグリンは、板の上を何歩か後ずさった。腕からは血が流れ落ちていた。相手船の甲板に、銃を構えた人影が見えた。
「卑怯だぞ!ドルテック」
「正々堂々と勝負しろ!」
 ルー・パイをはじめ、ブルー・マスター号の仲間たちが怒声を上げる。
「うるせえ!」
 態勢を立て直した海賊は、開き直ったように怒鳴り返した。
「要は勝ちゃあいいんだよ、勝ちゃあ。マーカス、もう一発だ。今度は足を狙え」
「卑怯者め」
 グリンは左手に剣を持ち替えると、ドルテックを鋭く睨んだ。
「動けなくしてから俺が止めをさしてやる。撃て!」
 海賊の命令と同時に、再び銃声が響いた。
 唇を噛みしめたグリンだったが、「ぎゃっ」という別の悲鳴が、今度はドルテック船の甲板で上がった。
「なっ、マーカス……」
 撃たれたのは銃を構えていた海賊だった。
 ブルー・マスター号を振り返ったグリンは、マスト上方の見張り台に立つ人影を見つけた。
 自慢の長銃を高々とかかげてこちらに手を振るのは、鳥撃ちの名手、ローガンだった。
「これでおあいこだ。ドルテック!続けて弾丸をその頭にぶち込まれたくなかったら、正々堂々戦いな!」
 ジェーンレーンの声が飛んだ。それに勇気づけられ、グリンは再び海賊に向き直った。
「くそったれ」
 海賊は眉間に皺を寄せ、剥き出しの歯をぎりぎりと食いしばった。
「小僧、こうなったら俺の手で殺してやる!」
 低く押し出すような声で言うと、海賊は手にした半月刀をぶんぶんと振りかざした。二人の乗る板がぎしぎしときしみ、海風にあおられて不安定に揺れる。
 大海賊の首領と若き騎士との決闘は、ついに最後の時を迎えようとしていた。
 傷めた右腕をだらりと下げ、左手に握る剣を相手に向けながら、グリンは静かにその瞬間を待った。
 並んだ二隻の海賊船からは、今は歓声や怒声は消え、誰もが二人の戦いにじっと見入っていた。ドルテックの部下たちも、ジェーンレーンをはじめ、ブルー・マスター号のの海賊たちも、誰もが息を押し殺し、決着の時を見届けようとする構えだった。
 ドルテックが一歩近づくごとに、二人の距離が縮まってゆく。
 グリンには分かっていた。このまま剣で打ち合えば、左手のみではまず勝てない。
 一瞬の隙を狙う……それも右か左か、ヤマをかけて。
「……」
 グリンは息を飲み込む。
 二人の剣先が、触れ合わんばかりに重なろうとした。
 その瞬間、
 海賊の目がかっと見開かれ、その剣先が鋭く横凪に襲ってきた。
 グリンはそれを予測していた。負傷している右手では防御が出来ないと、相手は踏むだろうと。
 とっさに右手に剣を持ち替え、相手の剣先を受ける。
「くっ……」
 衝撃で右腕に激痛が走った。
 たまらずグリンは手から剣を放した。が、同時に、左手には懐から取り出した銀の短剣を握っていた。
 相手に向かって、その短剣を突き込む。
「うわっ!」
 避けようと、海賊は慌てて身をよじった。
 それが悪かった。バランスを崩した海賊は、つんのめって板から転げ落ちた。
「わああっ!」
 かろうじて板の端をつかんでぶら下がる。二人の手から離れた剣が海に落ちていった。
「やったぞ!見ろあのザマを」
「グリンの勝ちだ!」
 固唾を飲んで見守っていた、ブルー・マスター号の仲間たちから歓声が上がった。
「助けてくれ……」
 両手で板にぶら下がった海賊は、足をじたばたさせた。その下には荒れた海面が、恐ろしい波しぶきを上げて待ち構えている。
「助けてくれ、頼む」
 青ざめたドルテックが、哀願するようにグリンを見上げた。
「殺せ!」
「殺せ!」
 仲間たちが叫びはじめた。
「やっちまえ、グリン!」
「ドルテックの野郎を、海にたたき落とせ」
 容赦のない罵声が飛び交うなか、短剣を手にしたグリンは無言で海賊を見下ろしていた。
「おい、助けてくれ。頼む。なあ……勝負はもうおめえの勝ちだ。だから、な」
「……」
 グリンがすっと剣を振り上げるしぐさをすると、海賊は足をばたつかせて悲鳴を上げた。
「わあっ。よせっ!殺さないでくれ。なんでもやる。なんでもやるからよ。なあ、頼む……」
 卑屈に許しを乞う海賊を見下ろし、グリンは嫌悪の表情を浮かべたが、何かに耐えるように唇を噛みしめて剣を引いた。
「ふぅ、助かったあ……さあ、引き上げてくれるんだろう。腕が痺れてたまらん」
「ああ」
 仕方なくグリンが手を伸ばしたとき、海賊の顔に再び凶暴な色が浮かんだ。
「馬鹿め、てめえも道連れだ!ぐへへへ」
 ドルテックはグリンの腕をつかみ、引っ張るように自ら海に飛び込んだ。二人はもつれ合うようにして、真っ逆さまに落下した。
 海面に大きな水しぶきが上がると、ブルー・マスター号の甲板から悲鳴が起こった。
「グリン!」
 ジェーンレーンが舷側に駆け寄る。ルー・パイやドリス、他の海賊たちも、船から身を乗り出さんばかりにして、二人が落ちた水面を凝視した。
「グリン……」
 ジェーンレーンは言葉を失い、海面をじっと見つめていた。
「死んだのか?……グリン」
 ルー・パイも心配そうに眉を寄せる。
 なかなか海面にその姿は現れなかった。
 少しして、静まり返った甲板上で、「あっ」という声が上がった。それは、舷側から身を乗り出していたドリスだった。
「あそこだ!」
 ドリスが指さすと、船の近くの水面にぼこぼこと泡が立った。
 しかし、海面に現れた顔を見て、甲板はため息に包まれた。そこにもがいていたのはドルテックだった。
「グリンはどこだ?」
 しかし、いくら海面を探してみてもグリンの姿はない。
「ちくしょう。どうしてあいつが助かって、グリンの方が……」
「ドリス。まだそうと決まったわけじゃない」
 泣きそうな顔をする少年に、オギナが声をかけた。
「でも……」
「あいつは死にはしないよ」
 ルー・パイが言った。
「だってここには……、ここはあいつが戻る場所なんだから。それに……」
 その横には、静かに海面を見つめるジェーンレーンがいた。
「あんたは戻らなきゃいけない。お頭のためにも……ね」
 つぶやいたルー・パイは、再び海面に目を向けようとした。
 そのときだった。
 船首の方から誰かが声を上げた。はじめは誰も気に留めなかったが、
「おおーい」
 またはっきりと声が上がった。
 今度は、ドリスもルー・パイも、そしてジェーンレーンも、はっとなった。そして、まるで突き動かされるように甲板を走りだした。
 船首に走っていったルー・パイやドリスら、海賊たちが一斉に覗き込むと……
「おおい!」
 まるでたった今、海からはい上がってきたというような、ずぶ濡れの男が、錨の巻き上げ機をよじ登ろうとしていた。
「グリン!」
「グリンだ!」
 海賊たちは歓声を上げた。ドリスとルー・パイは手を取りあって飛び上がった。
「ひゃっほう」
「グリンだ!」
「グリンの奴が生きていたぞぅ!」
 船首近くに集まった海賊たちが手を貸して、彼を引き上げた。
「グリン」
「よく無事で……」
 甲板に降り立ったグリンを仲間たちが取り囲んだ。
「まったく、心配させやがって」
「すまない、でも泳ぎは得意なんだよ」
 仲間達に手荒く肩を叩かれながら、グリンはにこりと笑った。
「ジェーンレーン……」
 傍に立った女海賊は、涙をこらえるようにぐっと口を結んでいた。
「よく生きて……」
 彼女はおずおずとグリンに抱きついた。
「ジェーンレーン……皆が見ているぞ」
「だから……どうした」
 恋人の胸に顔を押し当て、女海賊は囁いた。
グリンはやさしくその背中を抱き寄せた。
「おーお、お熱いねえ!」
「お頭、可愛いですぜ」
 周りの海賊たちが一斉にはやし立てる。彼らは口笛を吹き、手を叩いて二人を取り囲んだ。
「ま、こうなるんじゃないかとは思っていたけどサ。うすうすね」
 肩をすくめてルー・パイが言った。
「振られて寂しいか?ルー」
「ナマ言うんじゃないよ!」
 ドリスの頭をゴツンと叩く。
「いってぇな、もう」
 海賊たちが笑い声を上げる。
ブルー・マスター号の甲板は、なごやかな笑顔と歓声に包まれた。その一方では、人々に忘れ去られていたドルテックが、海面から悲痛な叫びを上げ続けていた。
「早く……早く助けてくれぇ!俺は泳げないんだ」
「さて、あれをどうする?」
 面白そうにジェーンレーンが訊いた。
「お前の好きにしろ。ここから銃で狙い撃つのもよし、それとも、このまま奴が溺れるのを眺めるか、お前の言うとおりにするよ」
「そうだな……」
 グリンはにやりと笑った。
 マロック海を股にかける大海賊、あのドルテックを生かすも殺すも自分しだいとは。こんな痛快なことがあろうか!
「早く……おっぷ……助けて、くれぇ」
 ばしゃばしゃと海面に顔を出し、また沈んだりと、哀れその姿を見ながら、グリンは自分の心に問うてみた。タンタルス号の騎士たちの仇であり、ジェーンレーンを付け回す憎々しい相手でもあるその海賊を、自分はどうしたいのか。
「……」
 グリンはふっと息をひとつ吐くと、彼女に告げた。
「浮き具を」
「……それでいいのか?」
「ああ。それが赤毛のジェーン流……だろう」
 グリンは笑って言った。
「たぶんね」
 海面に浮き具が投げ入れられた。
 溺れかけていたドルテックが必死にそれにしがみつく。その姿を見て、ブルー・マスター号の甲板は、今度こそ勝利に沸き立った。
 海賊たちは「ジェーンレーン万歳、グリン万歳」と、いつまでも連呼し続けた。



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