ブルーランド・マスター

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■6■ポート・イリヤの夜
                    
             
 キャスタナル諸島における幾多の島々の中でも、最も大きな島がエボイア島である。
 この島の南端にある港町、ポート・イリヤは、別名「海賊の港」とも言われ、マロック海に生息する海賊の多くがこの港を補給港としている。キャスタナル諸島一帯は、どこの国の領土でもなく、よって国家法の届かない自治区域であった。したがって、大陸における各国の警備隊や騎士団の権限も、この区域では力を持たない。つまり、ここはまさに海賊たちの無法地帯であった。
 海賊組織の多くは、諸島一帯に連なる無数の無人島のどこかにアジトを持ち、そこを拠点にしながら、物資の補給などのためにエボイア島に上陸するのが常だった。ポート・イリヤに入ってしまえば、いかなる法の手ももう届かない。たとえ顔の知られた海賊であっても、この町では大手を振って闊歩できた。補給や物資の売買、それに船の修理が目的とあっては、「海賊行為」として逮捕することはできないからだ。
 この町では、殺人、麻薬、売春、人身売買、大量の武器弾薬の取引など、あらゆる行為が日常的に行われており、まっとうな人間や身分ある者であれば、恐ろしくてとても寄りつけない。たとえそれが騎士や警備隊であっても、彼らを憎む大勢の者たちから襲われる危険を、常に心せねばならないのだ。誰が殺されても、誰が売られても、ここでは自分で解決するしかなく、自分の身は自分で守るしかないという、ここはそんな町なのだった。

 黄昏どきのポート・イリヤの湾内には、船影がいくつも見えた。
 沖合に碇泊している大型船の多くは、手入れの行き届いた船体に立派な三本マストを持つ、いかにも商用の船らしく見えたが、埠頭に近づくにつれ、他の様々な船の姿がしだいに明らかになってきた。
 このあたりには、ブルー・マスター号と同じほどのスループ船や、古めかしいカラック船、小型の快速船ガレオットなどが、所狭しと碇泊していた。中には船体が黒ずみ、ほとんど腐りかけているような相当な年代物の船や、まるでたった今砲弾の中を駆け抜けてきたかのような、船体に穴があいた船などもあった。そのほとんどは、船体に怪しげな文字が書かれたり、船首には恐ろしげなヘッドフィギュアを飾った、一目で海賊船と分かるような船だった。また、そうではない一見してしてしごくまともな船も、おそらくその九割までは私掠船か海賊船なのだと、オギナは説明した。
(これが、ポート・イリヤか……)
 この港一帯には、何か薄暗い、どろどろとした雰囲気があるように、それらの船を見つめるグリンには感じられた。
 ブルー・マスター号が埠頭に付けられ、錨が下ろされると、甲板上は下船の準備におおわらわになった。
 メンスルを下ろし、それをたたんで帆桁に縛りつける。甲板の大砲は分解され、不要のものは港で転売するために船から降ろされた。船倉にあった樽や箱などが持ちだされ、次々に運ばれてゆく。おそらくそれらの中には、強奪した食料や宝飾品などが詰まっているのだろう。船にいた女たちも、しぶしぶといった様子で次々に降ろされた。彼女たちが町から逃げた娼婦であることを、グリンは聞かされていた。女たちを連れ戻すというちょっとした仕事でも、それなりに金にはなるのだという。
 埠頭にはすでに船の到着を待っていたかのように、怪しげな商人風の男たちが、船から降ろされる樽や箱の数を数えていた。その交渉にあたっているのだろう、操舵長のオギナが彼らに向かって、あれこれと説明しているのが見えた。
 忙しそうな海賊たちを横目に、甲板上に佇んでいたグリンは、近づいてきたジェーンレーンの姿に気づいた。
「なにをぼんやりとしている」
「いや……なんでも」
「お前は私と一緒に来い。嫌でなければな」
 そう言った彼女も、他の海賊たちと同様、上陸を前に楽しげに見えた。長い赤髪を後ろに束ね、襟にレースの飾りが入った真新しい白いブラウスと赤いチョッキ、黒のズボンにブーツという出で立ちで、その姿はどこか男装の麗人めいた色気を感じさせた。
「町へゆくのだからな。薄汚い格好はできないだろう」
 彼女はふっと笑って言った。
「お前も銃と、私のやった短剣くらいは身につけておくのだな」
 それから、彼女は「付いてこい」というふうにあごをしゃくり、船から飛び下りた。あわててグリンもその後を追う。
「積み荷の取引はすべてオギナにまかせる。船員へ報酬の分け前もいつものように頼む。足りなければあの銀貨を分配してもいい」
 女海賊は、積み上げられた箱の前で、全幅の信頼をおく操舵長に指示を言い渡した。
「私は明日の夕刻には戻ると思うが、それまでには皆に船へ戻るよう伝えておけ」
「今回は長居はなさそうですな」
「たぶん。早くて明日の夜、遅くとも明後日の朝には出帆することになるな」
「わかりやした。ではグリン、お頭を頼むぞ」
 オギナから声をかけられ、グリンは奇妙な気分でうなずいた。海賊の護衛をするということが、まだ府に落ちてはいなかった。
「あとは頼む」
 歩きだしたジェーンレーンに遅れぬよう、グリンもその横に並んだ。沈みゆく夕日が、湾内に浮かぶ船のマストたちを赤く照らしている。明かりの灯りはじめた夕暮れの町に目を向けると、そこに待ち構えるだろう事件や冒険が、グリンの心に不安と緊張、そしてわくわくとした冒険心をかき立てるのだった。
 港に面した海沿いの通りには、多くの店が立ち並び、いくつかある埠頭のそばでは、日が沈みかけたこの時分でも、多くの人々が降ろされた積み荷の前で、さかんに交渉を行っている。ここは船員と町の商人が、直接物資を売り買いする場でもあるのだろう。
 女海賊の横に並んで歩きながら、グリンは興味深く通りの光景を見渡していた。
 元々このポート・イリヤは、漁業を主としたわずかな島民が住む小さな町だったらしい。あるときから、港にやってくる海賊を相手にした食堂や宿屋を始めたのがきっかけで、しだいに多くの海賊や船乗り、それに商人たちが訪れるようになった。そうして、この町は数十年であっという間に大きくなり、今では多くの食堂や宿屋が港通りに立ち並び、それに密売や競売を請け負う商人の店なども増えていったのである。
 酒場や食堂の前を通ると、海賊たちの笑い声や野卑な怒鳴り声が、聞こえてくる。また、通りを行き交う者たちにも怪しげな連中が多かった。ここでは海賊など珍しくもないのだろうが、凶悪そうな片目の巨漢がこちらをじろりと見たり、娼婦らしき派手派手しい服に身を包んだ女がすれ違うと、グリンはあわてて目をそらした。
 中には、相当酔っぱらっているらしい、女の腰に手を回して大声でわめきながら歩いてくる髭づらの海賊もいた。海賊は通り過ぎざまに、何事かをふっかけようかという目つきで睨み付けてきたが、ジェーンレーンを見て顔をこわばらせたかと思うと、次にはっとなったように蒼白になった。そして、そのまま何も言わずにすごすごと通りすぎて行ったのだった。
 これにはグリンも驚いたが、見ていると、そういう反応をするのはその男だけではなかった。
 通りをゆく男たちには、ジェーンレーンの顔を見て、最初その顔にいやらしい笑みを浮かべる者もいるのだが、次には、まるでそれが誰だか気づいたとでもいうように顔を引きつらせ、あわてて目を伏せるのだった。
 おそらく、女海賊「赤毛のジェーン」のことを知らぬものは、この町ではいないのだろう。ただ、当のジェーンレーンは、グリンの感心をよそに、男たちに一瞥もくれることなく、悠然と歩いていた。
 港通りから狭い路地に入ると、あたりはぐっと暗くなった。
 店からもれる明かりもずっと少なくなり、道の端には酒瓶や樽が乱雑に転がっていて、いかにも裏通りという様相だった。グリンは、暗がりや物陰から突然誰かか現れないものかと、神経をとがらせていたが、前をゆくジェーンレーンは、まるで見知った道を歩くように、恐れげもなく路地の奥へとどんどん入ってゆく。ときおり、海賊たちの笑い声や、怒鳴り声、あるいは女の悲鳴のようなものが、まるで闇の彼方から聞こえてくるような、そんな気がした。
「ここでは、毎晩色々なことが起こるからな」
 振り向いたジェーンレーンが、緊張した顔のグリンに言った。
「何があっても自分の身は自分で守る。そして肝心なのは、決して無用な事には首を突っ込まぬことだ」
 グリンはそれにうなずき、また歩きだした女海賊の背中を追った。
 いくつめの路地を曲がったときか、突然、女の悲鳴が上がった。身構えたグリンは辺りを見回した。若い女の声に混じって、男の怒声と、人が激しくもみ合うような気配がはっきりと聞こえたのだ。
 懐から銃を取り出したグリンを、ジェーンレーンが制した。
「よせ。言ったろう。余計なことに首を突っ込むなと。放っておけ。よくある事だ」
「しかし……」
 言い返そうとする前に、ジェーンレーンは何事もなかったかのように歩きだしていた。しばらく立ち止まっていたグリンは、拳を握りしめて首を振ると、銃をしまって彼女に続いた。
「ここだ」
 ジェーンレーンが立ち止まったのは、いくつもの路地を迷路のように抜けたところにある、一軒の小さな酒場だった。
 「小さな三角帆亭」という壊れかかった看板が下がったその店は、ご多分に漏れず、海賊たちのたまり場のような店だった。中に入ると、もうもうとタバコの煙がたちこめ、酒の匂いが鼻をついた。狭い店内には、十数人ほどの海賊たちが所狭しと陣取り、ワインやビールの入ったジョッキとタバコを手に、がやがやとざわめいている。
 二人が入ってゆくと、海賊たちは一斉に視線を向けたが、ジェーンレーンに気づくと、男たちはすぐに顔をそらした。
 ジェーンレーンは、カウンターの一番奥の席に腰を降ろした。グリンもその横に座る。
「らっしゃい。おや……これは赤毛の姐御、お久しぶりで」
 店のマスターらしい、骨ばった顔に片目に眼帯をした、なかなか怪しげな男が、カウンターごしに笑いかけた。この店でも彼女はけっこうな「顔」らしい。
「なんにいたしましょうか?」
 卑屈そうに両手を揉みしぼる男には目もくれず、ジェーンレーンは鋭く言った。
「キルデヴィルを。それとログウッドはいるか?」
「いますとも。少々お待ちを。こちらの方はなんになさるんで?」
「あ……、では自分も同じものを」
 男はグリンを見て、くっくっと笑った。。
「見たところまだぼうやだね。”悪魔殺し”はあんたにゃまだ早いだろうに。シェリーか、せめてポートワインにしとき。悪いことはいわんから」
 馬鹿にしたような男の態度に、グリンはむっとしたが、確かにあまり自分が酒に強くないことを思い出し、注文を取り消そうとした。だが、横からジェーンレーンが、「飲みたいものを飲めばいい。余計なお節介を焼かないのがこの町の鉄則だろう」と言ったので、もはや後には引けなくなった。こうして、赤とピンクの中間のような不気味な色をしてシュウシュウと音を立てる、異様な飲み物が入った巨大な銅製のピューターが、どしんとグリンの前に置かれたのだった。
 グリンはしばらくそれを覗き込んでいたが、横にいるジェーンレーンが美味そうにそれをごくごくと飲んでいるのをみて、自分も口を付けないわけにはいくまいと決心した。カウンターの向こうで男がにやにやとしている。グリンは思い切ってそれを一口飲んだ。
「う……」
 口の中に、甘いのだが苦いのだか分からないような味が広がり、ソーダ状の気泡が喉の奥で跳ねた。それを必死に飲み込むと、途端にカッと喉の奥が熱くなった。グリンの顔は一瞬で真っ赤になり、額からは汗が吹き出した。
 口を引きつらせ、眉間に皺を寄せた、その苦悶の表情を見て、マスターは「キルデヴィルを初めて飲んだお客は、皆そういう顔をしなさる」と、笑いを堪えながら言うと、カウンターの奥へ消えていった。
「大丈夫か?」
「う……うう、ああ……」
 ジェーンレーンがくすりと笑いを漏らした。
「これは……ちょっと強い酒だな」
 強がってみせてももう遅い、ジェーンレーンは額に手をやってクックッと笑っていた。その手元にある酒がもう半分も減っているのを見て、グリンは心底、この女海賊の恐ろしさを知った気がした。
「一応仮にも、お前は私の護衛なのだからな。よろしく頼むぞ」
 ほとんど冗談か皮肉のようなその言葉に、グリンは情けなさでいっぱいになった。もう酒は飲むまいと、彼は心の中で誓いを立てた。
 少しして、カウンターの奥から、さきほどの男ともう一人、こちらはずっと歳をとった背の低い男が現れた。
「これは、ジェーンレーンか。しばらくだの」
 日焼けした顔には深い皺が刻まれ、白くなりはじめた髪をオールバックに整えたその男は、炯々とした光を放つような細い目で、ジェーンレーンを見て、うなずきかけた。表情は一見穏やかだが、この初老の小さな男がただ者ではないことは、グリンにもはっきりと感じられた。それは、決してまっとうな生活からは出てこない、ひどく物騒で、鋭い殺気をひそめた雰囲気とでもいうものだった。
「ほう。来るたびにいい女になるようだの、そなたは」
「そんなつまらぬ挨拶はけっこう」
「おやまあ。せっかちなところは相変わらずか。さすがは……リングローズの娘だな」
 そう言って、男はカッカッと笑った。
「ところで、こちらの若いのは新しいコレかな?」
 男が親指を立てて見せると、ジェーンレーンはくすりと笑って、「まあ、そのようなものだ」と答えた。
「ふむ……なかなかの美男子だが、まだまだヒヨッコのようだの」
 無遠慮にじろじろと見られ、グリンはむっつりと口を引き結んだ。
「いつから年下好みになったのかの、赤毛のジェーンレーンは」
「くだらぬ話はそれまでだ。それよりも……」
 ジェーンレーンは相手をじろりと睨み、低い声で言った。
「旋回砲六門、スナファンス銃四十丁、それに銃弾二百発。今夜中に用意できるか?」
「大層な注文だな。戦争でも始まるのかい?」
「……まあ、そんなところだ」
「払いは?」
「ツケだ」
 そう聞いたとたん、男の目に鋭いものが宿った。だが、ジェーンレーンも負けてはいない。相手の眼差しを正面から受け止めた。
「口のききかたは、いつまでも直らんようだな」
 さきほどまでとはうって変わった、ドスの効いた声で男は囁いた。
「あんたは女ながら、決して取引を裏切らない、信用に足る海賊の一人だ。それは、わしとリングローズとの旧交を別にしても確かなことだがね」
「能書きはどうでもいい。出来るのか、出来ないのか?」
 ジェーンレーンはすっと目をそばめ、男を睨んだ。
「……」
 その恐るべき気迫に、男はややたじろいだ風にも見えた。隣にいるグリンも、思わず背筋に汗を流していた。
 少しの沈黙のあと、男が口を開いた。
「むろん出来るとも。ただし前金で五百ドゥカートもらえればな」
 ジェーンレーンはおもむろに懐から銃を取り出し、カチリと撃鉄を引いた。
「ふざけるなよ……」
 静かに言うと、彼女は両足をカウンターに投げ出した恰好で、男の顔に銃を向けた。
「お前が、ドルテックやボールドリッジに前金なしで武器を用意しているのは知っているんだ。さあ、それで私には前金五百を払えだと?私を舐めているのか」
 向けられた銃口を前に、男は両手を上げ、その顔にひきつった笑いを浮かべた。
「ま、まあ……そうムキになるな。ジェーン……」
 次の瞬間、ガーンと銃声が響き渡った。
 店にいた海賊たちがぎょっとしたように立ち上がり、一斉にこちらを振り返った。
「あ……ああ」
 男はへたへたと、後ろの壁に寄り掛かった。銃弾は男の頭の上をかすめ、棚の酒瓶を粉々に砕いていた。
「なんでもない、気にするな」
 煙の出ている銃を手にしたジェーンレーンを見て、反射的に銃を抜いた海賊もいたが、周りの仲間に耳打ちされるとそれを下ろした。彼らはまた、何事もなかったように無言で席に着いた。
 そこにいた海賊の一人が店の外に出てゆくのを見ると、ジェーンレーンは、カウンターの中で身を縮ませているマスターに尋ねた。
「今出ていったのは?」
「へ、へえ……たぶん、ドルテックの息のかかった情報屋だと」
「なるほどな。ふん」
 眉をひそめた彼女は、そのまま立ち上がった。
「前金の件だが、二百なら払えるがかまわんか?よければ後で船に取りにこい」
「ま、まいど……」
 壁に背を付けたまま、蒼白になった男がうなずいた。
「それから、これは酒代だ。二人分……と、今割ったボトルの分も含めてだ」
 三枚の銀貨をカウンターに置くと、ジェーンレーンはあっけにとられているグリンに、「出るぞ」と、あごをしゃくった。
「あ、ああ……」
 二人は、息をのむように静まり返っている海賊たちの間を通り抜け、店を出た。
「さて、これでもう用は済んだ」
 ジェーンレーンはそう言って、銃に弾を込めなおした。単発式の銃なので、一発撃ったらまた弾を入れなくてはならない。
「あとはゆっくり食事でもしよう」
 にこりと笑った彼女からは、さっきの凄まじい顔つきは消えていた。グリンはほっとしたようにうなずいた。
 すっかり日も沈み、辺りは来るときよりもさらに暗かった。狭い通りを戻るように歩いて、何度か路地を曲がったところで、不意に彼女が立ち止まった。
「どうした……」
 グリンが言いかけたときだった。
 道の先の両側にあった樽の後ろから人影が現れた。それに続いて後ろからも二人。
「あっ」
 銃を取り出そうとするグリンを、ジェーンレーンが止めた。
「銃は最後までとっておけ。この暗がりではどうせ当たらない」
 待ち伏せを察知していたかのように冷静に言うと、彼女は腰の短剣を抜いた。グリンもそれに習い、銀の短剣を右手に持った。
 前後の人影は、こちらを追い詰めるようにして、じりじりと距離を狭めてくる。狭い路地で、四人に取り囲まれる格好だ。
「お前たち、ドルテックの手のものだな?」
 男たちは答えない。しかし、ジェーンレーンは落ちついた様子でグリンに囁いた。
「私は前を。お前は後ろの二人を頼む」
「わかった」
 うなずいたグリンは、ジェーンレーンに背中を付けるようにして剣を構えた。
「やれっ!」
 声が上がり、剣を持った四人が前後から襲いかかってきた。
 グリンは、突進してくる男の剣を身を低くしてかわすと、相手の足元に蹴りを入れた。
「うっ、くそっ」
 男が声を上げてよろめく。
 別の一人が剣を振り降ろしてきた。それをかろうじて短剣ではじき返すと、グリンは地面を転がった。
 すぐに起き上がって振り返ると、ジェーンレーンは二人の男を相手にしていた。さすがに海賊だけあって、双方とも暗闇での戦いには慣れているらしい。剣が合わさる音が何度も上がる。
 グリンは剣を持ち直し、自分の相手に向き直った。
 二人のうちの一人は、グリンを無視してジェーンレーンの背後に回ろうとしていた。
「後ろだ!ジェーンレーン」
 グリンが叫ぶと、ジェーンレーンははっと振り向き、背後から近づいた男に肘うちを食らわせた。
「ぐわっ」
 顔を押さえた男が地面に転がる。
「このっ」
 二人の男がジェーンレーンにつかみかかったのを見て、グリンは一か八かで短剣を投げた。
 ルー・パイに習ったナイフ投げのこつが功を奏した。男たちのから「ぎゃっ」という悲鳴が上がった。
 グリンはすかさず銃を抜き、走っていって、肩に短剣が刺さって呻いている男の襟首をつかむと、その頭に銃口をつきつけた。
「こいつを殺されたくなければ武器を捨てろ」
 鋭い口調で命じると、男たちは動揺したように動きを止めた。
 他の三人は、しばらくぼそぼそと何かを話し合っていたが、やがてそれぞれの剣を地面に投げ出した。
 ジェーンレーンが、グリンにつかまれている男の顔を覗き込んだ。それは先程酒場にいた海賊だった。
「武器は捨てた。仲間を返せ」
「どうする?」
 グリンが尋ねると、ジェーンレーンは、「返してやるといい」とあっさり言った。
 グリンは男から手を離し、銃を構えたまま「行け」と命じた。男は転がるように、仲間のもとに駆け寄った。
 襲撃者たちの逃げ去る足音が路地の向こうに消えるまで、グリンはじっと銃を構えていた。
「よかったのか?」
「ああ。相手が誰かは、もう知れている」
「ドルテック……か」
「奴め、よっぽどあたしを捕まえたかったらしいが、誤算だったようだね。今日は優秀な護衛がいた」
 ジェーンレーンは、にやりと笑ってグリンの肩を叩いた。
「助かった。ありがとう」
 ごく簡単な礼だったが、グリンは嬉しさに顔をほころばせた。
 彼女を守ったのだという、誇らしげな気持ちが沸いてくる。同時に、あの恐るべき酒を一口だけにしておいて本当に良かったと、内心でほっとした。
「しかし、すでにドルテックの連中がポート・イリヤに戻っていたとなると……」
 そうつぶやきながら、ジェーンレーンは考え込むように腕を組んだ。グリンはその横顔をじっと見ていた。彼が考えていたのは、月明かりに照らされる、この女海賊の美しさだった。
「まあいい」
 顔を上げた彼女は、服に付いた埃を払い落とし、何事もなかったかのようにうなずきかけた。
「ゆくか。夕食前の運動には、少しハードだったかもしれないが」

 大通りに出た二人は、彼女がよく行くという、比較的大きな酒場に入った。
 そこは多くの海賊たちでにぎわう店で、混み合った店内では、料理を運ぶ店員が忙しそうに動き回り、客たちの笑い声や威勢よく杯がぶつかる音などが、そこら中に響いていた。
「ここの料理は美味いんだ」
 席に着いた二人は、久しぶりに陸での食事を楽しんだ。
 湯気を立てるウミガメの焼き肉に、トマトやジャガイモのスープ、それに「マロック・グランディ」という香草でマリネした肉や魚を、タマネギのピクルス、キャベツ、オリーブなどと一緒に盛大に盛りつけたポート・イリヤ特製のサラダなど。
 船に乗ってからは、味わったことのなかった新鮮な料理を、グリンは夢中で食べた。ジェーンレーンの方も、そのスリムな外観とは裏腹に、驚くほどよく食べた。山盛りに盛られた焼き肉も、マロック・グランディも、二人の前からあっと言う間に姿を消した。ポートワインを瓶ごと注文したジェーンレーンは、それをグリンにも注いでやった。キルデヴィルの一件があったので、グリンは一度は遠慮したが、勧められて口をつけるとワインはほどよく甘く、彼の口にも合った。二人は大いに食べ、かつ飲んだ。
 食事が一段落すると、二人はワインを片手に談笑した。ジェーンレーンは珍しく楽しげな様子だった。
 グリンは、向かい合う彼女の端麗な鼻筋に見とれたり、ふっと笑ったときの、その唇の赤さに胸をどきどきとさせた。
 ジェーンレーンは美しかった。そして、まだとても若いのだ。
 そのことに初めて気づいたように、彼は内心の驚きを隠しつつ、彼女を見つめていた。
 おそらく歳は自分といくつも変わらないだろう。それでいて、いかなるときも威厳と落ち着きを失わない。さきほどの襲撃者に対処したあの度胸といい、きっと、多くの修羅場をくぐってきたという経験とそして自信があるのだろう。
 女の身でありながら海賊団の首領をつとめ、乗組員を率いて船を指揮し、剣と銃を使いこなす、美貌の女海賊……ジェーンレーン。
 いったい、彼女はこれまで、どんな人生を歩んできたのだろう。そんな興味が、改めてグリンの心の中に生まれていた。
 そしてリングローズという、先程の酒場で聞いたその名前……それが、ずっと気になっていた。
 グリンが思い切ってその名を口にしてみると、
「ああ……」
 眉をつり上げて睨まれるかとも思ったが、彼女は意外にも、その顔に笑みを浮かべた。ワインに酔っていたせいもあったのだろうか、彼女はゆっくりと話しはじめた。
 ヴァージル・リングローズの名は、海賊に興味のある人間であればたいていは耳にしたことがあるだろう。植物学者であり、高名な海賊としても名高い人物で、もともとは、どこかの国の海軍の提督だったという噂もある。一方では、商船で旅をする医者だったという説もあるが、どちらも定かではない。海賊になってからのリングローズは、大胆かつ勇敢なことでその名を知られている。たった一隻の船でもって騎士団の艦隊と戦い、見事に逃げおおせたとか、まったく一発の大砲も撃たずに護衛を出し抜き、商船から大金を奪ったなど、伝説的な逸話はいくつもある。
 そのリングローズこそが、ここにいる女海賊の父であるというのだ。それを聞いて、グリン驚きに目を見開いた。
「本当の父じゃない。育てられたのは確かだがね」
 話の続きを聞きたそうにしているのグリンを見て、彼女はふっと笑ってワインに口をつけた。そして自らの身の上を話し始めたのだった。
 ジェーンレーンがリングローズに拾われたのは、彼女が八歳のときだという。とある商船での航海で、折り悪く海賊に襲われたのだ。
 彼女が言うには、そのときまで一緒にいた元の両親のことはよく覚えていないらしい。グリンが想像するに、彼女の両親は襲撃してきた海賊の手によって殺されたのに違いない。ともかく、彼女はそうして海賊リングローズに拾われ、育てられた。
 それからは海賊船でいろいろな航海をし、幾つもの島を訪れ、また船に乗るという生活が始まった。その間、彼女はリングローズから生きるためのあらゆる術を教わった。戦い、船の扱い、泳ぎ、植物や動物に関する知識、海や風、月や星など、航海に必要な技術や知恵を身に付けさせられた。ときには海にもぐって魚を獲り、浜辺で火をおこし、船上でマストに登り帆をたたむ。十二歳のときには普通に銃と大砲を撃っていたのだという。
 十七になったとき、リングローズは一隻のスループ船を彼女に与えた。それが「ブルー・マスター」号である。そして、自分の部下の半分を彼女のもとにやった。こうして、ジェーンレーンは一人前の海賊として独立したのであった。
 気づくとワインの瓶が空になっていた。話し終えた彼女は、けっこう酔っているようだった。
 グリンはもっと詳しいいきさつや、それに彼女の本当の年齢なども知りたかったが、それを自重した。そのかわり、彼女の育ての親であるというそのリングローズが、それからどうなったのかを訊いてみた。
「ああ……」
 ジェーンレーンはワインの杯をかざすように、それを見つめながらつぶやいた。
「知らないよ。たぶん死んだんだろう。どこかの海で。……たぶん船の上で」
 悲しそうではあったが、それはすでに、感情を過去に追いやったもの特有の、乾いた口調でもあった。
「船が好きなおやじだったからね。あたしと別れたときはもう、体を壊していたけど、決して陸に上がろうとはしなかった。たぶん、どこかの海で、自分の船と一緒に死んだんだろう」
 遠い目をしながら、椅子の上で片膝を抱える彼女は、さっきまでのあの威勢のいい女海賊とはまるで別人に見えた。グリンは、その横顔にある翳りの中に、女性でありながら海賊としての人生を受け入れなくてはならなかった彼女の、密かな憂愁を見た気がしていた。
「今うちの船にいるのは大半が若い連中だけどね。オギナやあと何人かは、もとはおやじの部下だったのさ。あたしの下でもよくやってくれている。おやじに比べたら、あたしなんかはまだ若造さ」
 ジェーンレーンはそう言って、またワインを飲み干した。
 夜もだいぶ更けたろう。店内の客は少し減ってきていたが、このまま朝まで飲み続けるものもいるだろう。それはどの店も同じ。ポート・イリヤの港町は海賊の町……決して寝静まることはない。
 笑い声とさんざめき、床に転がる酒瓶、酌み交わされる杯の響き……野蛮で獰猛な海賊たちの群れが、何故だか少しだけ物哀しく感じられる、深夜のひととき。
「お前は……」
 ふとジェーンレーンがこちらを見ていた。
「お前はどうするんだ?」
 「どうする」とは、これから船に戻るか、それともここで別れるかということなのだろう。グリンは返答に迷った。
 自分を見るジェーンレーンの目には、未練ある様子も叱責の色もない。ただ静かに、女海賊は告げた。
「出帆は明日の六点鐘だ」
「……」
 上陸前までは、この町で船を下り、すぐさまガルタエナ行きの船を見つけて、騎士団へ戻る気でいたのだが。しかしここにきて、グリンの心は揺れていた。
 窮屈な責務から脱出しる自由……愉快な海賊たちとの航海、それらが彼を魅惑していた。そして、このジェーンレーンという存在……彼女の生い立ちを聞くにつけ、なんとかして彼女と共に居たい、彼女を守りたいという気持が、今はグリンの中で大きくなっていた。
「お前の好きにしろ。もし船に戻るなら、皆が喜ぶだろう。ルー・パイもドリスも、それに……」
 ジェーンレーンの声は、酔いのためか少しかすれ、それは小さなつぶやきのようだったが、
「私も……ね」
 グリンの耳には、はっきりと届いた。
 それからも、ジェーンレーンは気持ち良さそうに火照った顔で幾度となく杯を上げ、またワインやシェリー酒を注文した。グリンの方は、すでに数杯のワインで大いに酔っていたので、注がれた酒にはちょびちょびと口を付ける程度だったが、自分から席を立とうとすることはなかった。
 グリンは次第に眠気と酔いのために頭が朦朧としてくるのに耐えつつも、だらしなくテーブルに突っ伏して眠るような真似はすまいと決心していた。さすがにすっかり夜も更けたこの時分になると、新たに店に入ってくる客はおらず、通りの向こうに見えていた港に停泊する船の明かりもみな消え、大通りにも人けはない。隣の席で騒いでいた海賊も、酔いつぶれたのかだいぶおとなしくなっている。
 通りから馬車のものらしい車輪のきしむ音が聞こえてきたとき、ジェーンレーンは空になりかけたワインの瓶を取り落とした。
 馬車は店の前に止まったようだ。ジェーンレーンは乱れていた髪を束ねなおすと、そわそわと椅子から立ち上がった。彼女の頬は紅潮しており、その横顔はひどく綺麗だった。それは酒のせいだけではなかったろう。
 カウンターの方を見ると、髭を生やした店の主人が、訳知り顔でうなずいた。
「ちっ。面倒だが……仕方がない」
 そうつぶやくと、彼女はグリンに向き直り、
「私は、行かなくてはならない。夜明には戻れるだろうが……お前はどう……」
 そう言いかけて首を振ると、「ここの勘定だ」と、銀貨を二枚テーブルに置いた。
 窓の外を見ると、店の前にとまった馬車からは、誰かが降りてくる様子はない。どうやら、あの馬車が彼女を待っているらしい。
「それから……」
 ジェーンレーンはもう一枚銀貨を置いた。
「これは旅費にでもしろ。ここで我々と離れ、どこかへゆこうというつもりならな」
「……」
 彼女は、黙っているグリンの顔を見て、すぐに顔をそむけた。そして、ひとつ髪をかきあげると、あれだけ酒を飲んだとは思えない機敏な足取りで、店を出ていった。
 案の定、彼女はとまっていた馬車に乗り込んだ。店にいた海賊たちが、窓の外を指さして、何事かをひそひそと囁き合っていた。いやらしい笑いを浮かべる男たちを見て、グリンは嫌な気分になった。
 彼女が何処へ行ったのか。あの馬車は誰の迎えなのか。気にはなったが、所詮それは自分には関係のないことだった。
 グリンは残っていたワインを杯に注ぎ、それをひと息に飲んだ。

 店を出ると、酒のせいで足は少しふらついたが、海から吹く涼しい風が気持ち良い。夜明けまではまだ時間がある。通り沿いの店の多くにはまだ明かりが灯っていて、ときどき海賊たちのにぎやかな声が漏れ聞こえてくる。こうして彼らは、毎晩飲み明かし、終わらない夜をいくつも過ごすのだろう。
 決まった家のない暮らし……船の上をすみかとし、海から海へと旅をしながらも、やがて彼らも歳をとるのだ。あるものは海の上で死に、あるものは戦いで、あるものは捕らわれて処刑されるか、あるいは獄中で虚しいむくろとなり、運が良く生き延びたものは船を降りて、陸の上でまっとうな余生を過ごすのかもしれない。そして、かつての海での思い出を抱きながら静かに老人になり、それをいつか、自分の子供や孫に話して聞かせるのだろうか。
 自由と反抗の象徴、自らの船を家とし、同じ船の仲間を家族とし、気ままに海を駆けめぐる男たち。かつては「海賊」という、その言葉を聞くたびに感じた、たとえようもない憧憬と、その爽快な響きの中に、グリンは、何故だかひどく切ないようなものが、混じりこんでいるのを知った。
 ちゃぷちゃぷと音を立てる湾内の海。かすかに星明りに光る水面を見ながら、グリンは通りを歩いていった。
「おい、お前。……グリンか」
 一軒の酒場の前を通ったとき、聞き覚えのある声にグリンは振り向いた。
「ああ、やっぱりお前か。どうした?一人か」
 そこにいたのは、ブルー・マスター号の操舵長、オギナだった。
「ジェーンレーンはどうした?」
「それが……」
 グリンがいきさつを話すと、うなずきながら聞いていたオギナは、「そうか。まあ、一杯付き合わんか」と、店に誘った。
 その酒場は、さっきの店よりもいくぶん狭く、そして薄汚かった。店の中はやはり酒の匂いとたばこの煙でむせ返り、頭をそり上げた大男や、両腕にびっしりと入れ墨をした上半身裸の男など、少々柄の悪い海賊たちが五、六人ほどで酒を飲んでいた。
 男たちは、入ってきたグリンの顔を見ると眉をひそめたが、オギナがうなずきかけると、そのまま黙って目をそらした。
「ラムパンチを二つ」
 オギナは、カウンターの奥の席にグリンを座らせ、注文したた。
「とりあえず、おつかれさん」
 酒の入ったマグをカチンと合わせると、オギナはそれが水かなにかのように、ひと息にそれを飲んだ。恐る恐る口を付けたグリンだったが、甘く飲みやすいのでほっとした。
「ふむ……それではジェーンレーンは朝までは帰ってこんな」
 酒場での武器の交渉一件から、その帰りに襲撃されたこと、そして、ジェーンレーンが馬車で何処かへ消えたことを話すと、オギナはさほど驚きもせずにうなずいた。
「そうか、ドルテックの一味が。では、お前は見事にお頭を守ってくれたわけだな。礼を言うぞ」
「いや。それより、その……ジェーンレーンはどこに?」
 訊きたくてたまらなかったことを、グリンは口にした。
「女の海賊が、一匹狼でやってゆくってのは、大変なことなのさ」
 静かな口調で、オギナはそうとだけ言った。
「ドルテックや、ボールドリッジのように、てめえのでかいアジトや、組織があるならともかく、俺たちのようにな、たった一隻の船で海をゆき、他の海賊たちと張り合っていくためにはな」
 追加で注文したラム酒をがぶりと飲むと、オギナは横目でグリンを見た。
「他の連中には、このことはあまり言ってないんだが、そうだな……お前には話してもいいだろう。なんだかそんな気がするな」
 グリンは黙ったまま、オギナの言葉を待った。
「お前さんが見た馬車ってのは、おそらくこの島の領主……名前は言えねえが、ようするに島一番の金持ちってこった……そいつのお迎えだろう。そいつは他の海賊たちのほとんどに顔がきく。つまり権力者ってやつだ」
「……」
 なんとなく、そういうものかもしれないとは思っていたが、あまり良い気持ちはしなかった。
 オギナは髭を撫でながら話を続けた。
「お頭は、決して船の皆には言わねえが、俺には分かっている。ちっぽけなスループ船ひとつで、仮にも海賊団を名乗り、五十名以上いる船員たちを食わしてゆくってのが、いかに大変かってことをな。ただ、お頭は……ジェーンレーンは、つらいときも何かに行き詰まったときも、困った顔や情けない顔は決してしない。いつも顎を上げて誇り高く、毅然として振る舞うんだ。俺もそれを分かっているんで、こっちもあえてお頭が陸でなにをしているかも聞かないし、知る必要もないと思っている」
 考えてみれば、確かにいくら商船などを襲って獲物を奪ったとしても、それらはほとんどが船の維持費や船員のための食料、そしていくばくかの給金などで消えてしまうだろう。じゃらじゃらと両手で金貨を弄ぶような海賊のイメージしか知らなかったグリンは、そうした財宝や巨額の金を手にできる海賊などは、ほんの一握りもいないのだという事を改めて知った。
「お前さんはただの商人だから、このポート・イリヤの町そのものに驚いたろうし、海賊同士であっても、汚い派閥争いがあるということなどはなにも知らないだろうが、いろいろとあるのさ。やっかい事や、誰と誰が争っていて、どっちに付くのが得かとか、誰々が裏切っただの、海賊団の誰々が暗殺されたのってな……茶飯事よ。そういうやっかい事や、争いごとに巻き込まれないためにはな……金持ちや権力者の力が、どうしても必要なのさ」
「……」
 グリンは、さっきの馬車のことを思い返した。彼女が自分の船と船員たち、つまりはジェーンレーン一味を守るために、島の権力者と会い、一体何をしているのか。それはグリンにもある程度は想像ができた。それはとても嫌な、考えたくもない事に違いなかったが。
 船上で髪をなびかせ、勇ましく剣をふるうジェーンレーン……颯爽とした、冷たい微笑みを浮かべる、あの誇り高い姿を、グリンは自分の中で汚したくはなかった。
「俺がお前くらいの頃……」
 オギナはやがて別のことを口にした。
「その頃、ジェーンレーンはまだ可愛らしい女の子だったよ。おやじはジェーンを一人前の海賊に育てようとやっきになっていた。おやじ……ああ、リングローズ、ジェーンの親父のことを皆はそう呼んでたんだ。おやじ、ってな。ジェーンレーンから聞いたかもしれないが、俺はずっとおやじの下で働いていたんだ。そして、今じゃでかいツラをしてのさばっているが、あのドルテックもな」
「ドルテックも?」
「ああ。それに今は独立している他の海賊たちも、多くはおやじの下にいた。おやじは俺たちの憧れだった」
 昔を懐かしむかのように、オギナはその目を細めた。
「その頃、おやじの右腕はドルテックだった。奴は強かったし、頭もよく、航海術も剣も銃の腕も一番だった。ただしあまり人望はなかったがな。十七になったジェーンレーンが独立するにあたって、おやじは自分の部下の半分をジェーンに付けることを考えていた。そのころにはもう、おやじは体を壊していてな、もう甲板で指揮をとるのは辛そうだったが、それでも船は降りなかった。俺とドルテックは、ジェーンレーンの副官として彼女を補佐するようおやじに頼まれた。一隻のスループ船、ブルー・マスター号……これはおやじが名付けたんだが……その船とともにな」
 オギナの語る話は、ヴァージル・リングローズという、伝説に残る名高い海賊の末路として、グリンの興味を引きつけた。
「もちろん俺は引き受けた。俺はおやじを尊敬していたし、それと同じくらいジェーンレーンを大切に思っていた。彼女が海賊となるなら、それを影から助けてやることが俺の役目だとな。だが……、ドルテックは違った。奴は、そのずっと前からおやじの船と部下とを奪って、自分の組織を作ることを計画していたんだ。そしてその通りになった。あるとき千人近くいたおやじの部下のうち、五百人ほどを引き連れて、奴は五隻の船とともに突然姿を消した。奴はおやじとジェーンレーンを裏切り、自分の名を付けたドルテック海賊団を名乗って、マロック海を我が物顔に荒らしはじめた」
 細められたオギナの目が怒りに包まれたように見えた。
「残った部下のうちのさらに半数は、ドルテックを追いかけて出ていったし、その他の多くもやがては散り散りになった。結局、ジェーンレーンのもとには百名足らずの海賊だけが残った。まあ、年若い女海賊のもとで航海をしたいなどと思う連中は、よほどおやじに恩義があるか、ジェーンレーンを崇拝しているかのどちらかしかいないからな。ともかくも、俺はおやじからジェーンレーンの補佐を任され、俺は承知した。そして、病身のおやじは一隻の船で少ない部下とともに、何処とも知れず旅立っていった」
 それは、一人の名高い海賊の生きざまと、その娘として育てられた女海賊の、運命的な生い立ちの物語であった。グリンはもう相槌をうつことも忘れ、一心にオギナの話に聞き入っていた。
「それから七年か……。ドルテックは総勢千人にもなる大海賊団の首領として、今やマロック海を支配するかのようにのさばっている。それに比べて、俺たちは相変わらずスループ船一隻で、なんとかこうして毎日を生き延びつづけている有り様だ。ドルテックの野郎はな、昔からジェーンレーンにご執心だったのさ。ジェーンレーンが独立してからも、何度となくこちらの船に近づいてきて、脅しまがいの攻撃をしかけては『自分の配下になれ』と、叫んでいたよ。むろん、ジェーンレーンにはそんなつもりは毛頭なく、ドルテックのことなどは毛ほども相手にしてはいないがな。だか、あいつらはなにせ大組織だからな。たとえばポート・イリヤの町中でジェーンを見張っていて、あわよくば拉致してしまおうという、汚いやり方もできるのさ」
「それじゃ、今日襲ってきた連中も」
「まあ、おそらくそうだろう」
 そういえば、確かに襲ってきた男たちは、こちらを殺そうとするというのではなく、なんとか生きたまま捕らえようとしていた気がする。今思えばジェーンレーンの方も、それを予期していてか、相手が自分を殺すつもりではないということを利用したような、そんな戦い方だった。
「この町のいたるところに、そうしたドルテックや、ボールドリッジやその他……でかい海賊団の一味やスパイ、それの息のかかった情報屋なんかが、四六時中うろつきまわっているのさ。相手の幹部を暗殺したり、捕らえたり、裏で条約を結んだり、取引をしたり、そんなことが日夜繰り返されている。昔にくらべたら、そういうゴタゴタやギャング団のような薄汚い連中がずいぶんと増えたもんさ。俺はだが、そういうのは好かん。それはジェーンも同じだと思う。だがな、毒には毒をってこともある。そういうやり方をする相手に、ただ海の上だけで張り合うことは難しい。とくにたった一隻しか持たない小さな海賊団にとってはな」
「……」
 オギナが何故、部外者である自分にそれを話して聞かせたのか、グリンには分からなかった。自分は本来、海賊たちを討伐する側の騎士であり、つまりは、ドルテックよりもさらに敵である立場にいるのである。それを隠しながら、このような打ち明け話を聞くことに、グリンは少しの後ろめたさを感じないではいられなかった。
「ところで……お前は、どうするんだった?」
「え?」
 何を聞かれているのか、一瞬グリンは分からなかった。頭の中は、今聞いたオギナの話や、馬車で消えたジェーンレーン、そして自分の立場のことでいっぱいだった。
「お前は、ここで船を降りるんだったか。すると、そのまま自分の国にでも帰るのか?」
「あ……ああ」
 グリンは曖昧にうなずいた。
「もちろん、このまま船に残ってもいいんだぞ。お前は剣の腕も立つし、それに……そう、顔に似合わず度胸もある。案外、海賊に向いているかもしれんぞ」
 オギナはにやりと笑って言った。その言葉は、今のグリンには決して不快ではなかった。
「……」
 肌身離さず首にかけてある、銀のコンパスをそっと握りしめる。
 答えはすでに決まっていたのだ。オギナの話を聞く前から、すでに……
 マグに残ったラムパンチを飲み干すと、グリンは荒々しく口許をぬぐった。
 夜明けまでは、もうしばらく時間があるだろう。もう一杯くらいは付き合えそうだ。
 グリンは、髭の伸びかけた自分のあごに手をおき、星が隠れ、暁のときに近づいてゆく空を、窓の外に見つめていた。


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