ブルーランド・マスター


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 ■4■女海賊


 じりじりと顔が焼けつくような心地に、グリンは低く呻いた。
「う……」
 うすく目を開けると、まず飛び込んできたのは、真っ青に晴れ渡った空だった。照りつける太陽の日差しに、無意識に手をかざす。
「お、気がついたようだぞ」
「どれどれ」
「おお、やっぱり生きていやがったか、この小僧」
 近くで人の声が聞こえる。それも、がやがやと大勢の声が……
「よーし、これで賭は俺の勝ちだせ!」
「おい、そりゃねえよ」
 男たちの野卑な声が、しだいにはっきりと聞こえてきた。
「……」
 グリンは、自分が固い板の上に、仰向けに横たわっていることに気がついた。体を起こそうとすると、左の肩に鈍い痛みが走った。
「う……痛」
 苦痛が覚醒を呼んだのか、少しずつ脳裏には、あの恐ろしい海賊との戦いが思い出されてきた。
 暗い海に飛び込んだときの水の感触、痺れる腕で必死につかんだ樽、頭上を襲う荒波……それらの光景を甦らせながら、グリンはゆっくりと上体を起こした。
「お、小僧が起きたぞ。お頭に知らせよう」
 近くで声が聞こえた。自分を覗き込んでいるのは、いくつもの男たちの顔……無論どれも見知らぬ顔だ。
(ここは……どこだ?)
 頭を振り、何度か目をまたたくと、視界がはっきりしてきた。
(俺は、助かったのか……)
「……ここは」
 まぶしさに慣れてきた目で空を見上げる。雲一つないどこまでも晴れ渡った青い空に、太陽がまぶしく輝いている。次に視界に入ってきたのは、大きくはためく白い帆、そして……
「マスト……」
 大きな一本マストと、そこに張られたメンスルーに、グリンは声を上げた。
「ここは……船の上か?」
 自分がいるのは船の甲板であるようだ。それでは……自分は助かったのだ。彼は思わずほっと胸をなでおろした。だが、すぐにまた奇妙な違和感にも気づいた。
「ここは……」
 周囲を見回すと、甲板上を忙しくゆく男たちの姿が目に入る。それは同じ船乗りとして、見慣れた光景のはずだったが……
 しかし、周りにいるこの男たち……薄汚れたシャツを着て、日に焼けた男たちの、その好奇に満ちた目つきには、何か普通ではないものが感じられる。ぎらぎらとした、なにか物騒なものが……
「ここは……海賊船なのか?」
 グリンがつぶやくように言うと、
「おう、ぼうや。助かったと思ったのだろう?」
 頭にターバンを巻いた髭面の男が、にかっと黄色い歯を見せた。
「だがな……ここは地獄の海賊船よ。マロック海を闊歩する荒くれ者たちを運ぶ動く城よ。どうだ、怖いか?」
 男はそう言って、しわがれ声で笑いだした。周りにいた他の男たちも、皆げらげらと笑いだす。グリンを取り巻いているのは、みな真っ黒に日に焼け、破れたシャツやズボンをはき、腰のベルトにナイフを差し、ぎらついた目つきをした……いかにも荒くれ者然とした連中であった。
「……」
 蒼白になったグリンは、しばらく言葉を失っていた。
 海賊に占拠された船から命からがら脱出し、死ぬ思いで海に飛び込んだというのに……こうして助かったとはいえ、またもや海賊船に捕まってしまうとは。なんという運の悪さだろう!
 それとも、助かっただけでも運が良いというべきなのか。もしあのまま誰にも発見されず、陸地にも辿り着けず、荒れた海にさまようままだったら、生き延びることは不可能だっただろう。
「まあ、そんなに怖がらなくてもいいじゃねえか、ぼうや。どうせどっかの商船の水夫かなんかだろ?おおかた、船が難破か座礁でもして海に落ちたんだろうが、こうして拾ってもらえるだけ運がいいってもんだ。たとえ海賊にでもな」
 グリンの傍にいた一人が言った。剃りあげた額にはいくつもの傷がある、恐ろしげな顔をゆがめて男がにやりと笑った。
「へへへ。もうすぐお頭が来るぞ。このまま海に放り込まれたくなかったら、せいぜいしおらしくしているこったな。そうすりゃ、もしかしたら人足として、こっぴどく働かされるくらいですむかもしれんぜよ」
 そう言ったのは、こちらはひょろりと背の高い、陰気な顔をした男で、口元にいやらしい笑いを浮かべている。
 よく見れば、周りにいる他の男たちも、みなどこかしらに傷があったり、片目であったり、指が何本かなかったり、まともな様子のものはほとんどいなかった。そして、彼らの目つきや顔つきには、揃ってひどく物騒なものがひそんでいた。多くの者は上半身裸であったが、あるものは派手な色のシャツを着たり、あるものはドクロの模様が入ったバンダナをしたり、どこかから掠奪してきたような、立派な帽子を自慢げにかぶっていたりした。
 これが騎士団の船であれば、騎士たちと一般水夫の違いは恰好ですぐに分かるのだが、ここにいる連中にはおそらく士官も水夫もないのだろう。皆がばらばらの服装で、一見してまったく統制がとれていなかった。全員に共通していることといえば、どう見てもまっとうな船乗りでないことが分かるということで、それは服装や顔つきからでなく、なんというのか、一人一人がかもし出す「ふまっとうな空気」というようなものからであった。
「……」
 グリンには、これからいったい自分がどうなってしまうのか、皆目見当がつかなかった。いっそのこと、このまま背を向けて海に飛び込んだほうがよいのかもしれないと、彼は考えた。
 しだいに、グリンの周りに集まってくる海賊たちの数が増えていた。男たちは、じろじろと無遠慮にグリンを眺めて、嘲るような笑いを浮かべたり、粗暴な言葉遣いで何事かを言い合ったりしていた。
 かろうじて救いだったのは、自分の素性について……つまり自分が騎士であることを海賊たちに知られていないという点だった。しかし、それさえも完全な助けにはならない気がした。むろん騎士だと知れれば、その場で殺されるのは確実だろうが、ただの商人であるとしても、この凶暴な海賊たちが何もしてこないという保証はまったくないのだ。
(どうなるんだ……これから俺は)
 彼の頭の中では、命が助かったという安堵よりもむしろ、これから起こることへの不安が、しだい大きくなっていった。
「お頭だ」
 海賊たちの中から、事態の変化を告げる声が上がった。
「お頭が来たぞ」
 すると、それまでざわめいていた海賊たちは、みな一斉に静まった。どうやら、この海賊たちの首領は、船員たちから相当に恐れられているらしい。中には、ひどく緊張した面持ちで直立している者もいた。甲板の海賊たちは、船長の登場を固唾をのんで待ち構えた。
「お頭!」
「ジェーンレーン船長」
 そばにいた海賊の一人がその名を口にしたとき、グリンは静かな震えにも似たものを感じた。
(ジェーン……レーン)
 確かに、その名には聞き覚えがある気がした。
 そう、どこかで……
(ジェーンレーン)
 カツカツという足音が近づいてきた。
 並んだ海賊たちがさっと二つに分かれ、その間から「彼女」の姿が見えたとき、グリンは、一瞬、時間が止まるのを感じた。
「あ……」
 赤い髪がふわりとなびいた。
(ジェーン……レーン)
 自分はその名を知っていた。いや、その姿も。
 そう……そうだ、
(赤い髪……)
 あのガルタエナの湾内で、マストに上の見張り台から見た、相手船の戦闘楼……
「あ……あ」
 その時の光景が、グリンの脳裏にまざまざと蘇った。そして、今自分の前に立つ、すらりとした姿に引き寄せられるように……
(これが、女海賊……ジェーンレーン……)
 グリンは相手を見つめていた。
 あの航海の後で、何度も夢に見た。ずっと想像するだけだった、伝説の女海賊。それが、今すぐそばにいる。
 膨らんだ袖の白いシャツと黒ズボン、腰に赤いサッシュを巻いたすらりとした体つき。日焼けした顔に、切れ長の目と細い鼻筋、そして燃えるように輝く赤い髪。額の真ん中には傷があり、つり上がった眉と引き結んだ唇が、強い意志の力を物語っているかのようだ。
「こいつか」
 その声に、グリンは現実に引き戻された。
 灰色がかった深い緑色の目が、静かにこちらを見下ろしていた。
「そうです。ただの商船の水夫のようですが、いかがします?」
「さあ」
 冷やかな口調で、女海賊は言った。
「休ませてやるのはいい。その後は働かせるか、海に放り出すか決めればいいさ」
「……」
 女海賊の目が、それを見上げるグリンの目と合った。
「……細かいことは操舵長に任せる。水夫として使い物になるなら生かしてやればいい。むろん、その前に何か知っていることがあるのなら吐かせてからだが」
 美貌の女海賊は、そう言ってすいと髪をかきあげ、
「とりあえず、そのずぶ濡れの服を着替えるといい」
 最後にグリンを一瞥すると、もう興味は失せたとばかりに踵を返し、立ち去った。
 背中に揺れる赤い髪がハッチの中に消えるまで、グリンはそちらを見つめていた。
(ジェーン……ジェーンレーン)
 崇拝する船長がいなくなると、群がっていた海賊たちはやがてばらばらと散りはじめ、自分たちの仕事に戻っていった。甲板に座り込んでいたグリンは、差し出される手にふと顔を上げた。
「ほら、お立ちよ。いつまでもここに座っていたら、その綺麗な金髪が日に焼けて、ちりちりになっちまうよ」
 そこに立っていたのは黒い髪の女だった。美人といってよいだろう。長い髪を頭の両側でたばねて左右に垂らし、着ているものは派手な赤い色のシャツと裾の広がったズボン、腰には黒いサッシュを巻いている。そのほっそりとした体系と粋な感じのする格好は、他の海賊たちの間で明らかに異彩を放っている。
「ほら」
 差し出された手に引っ張られ、グリンは立ち上がった。
 女は顔を近づけてきて、グリンの顔を覗き込んだ。赤い唇を広げて艶っぽく微笑むと、どことなく淫靡な感じがした。
「……へえ、あんた、なかなか可愛い顔をしているじゃないか」
「……」
 視線をそらすと、女は耳元に息を吹きかけるようにして囁いた。
「ふふん。見つめるだけで照れるなんて、ウブだねえ」
「おい、ルー・パイ。なにガキに色目使ってんだよ」
 周りの海賊たちがにやにやと笑っている。
「うるさいね。いいだろう。あたしの趣味なんだから」
(あ……)
 ようやくグリンは気づいた。言葉遣いや仕種は女そのものだが、その、かすれたような太い声を聞けば……
「その兄ちゃん、ルーを女だと思ってるんだぜ。あんなに顔を赤くしちまって照れてらあ」
 そうけらけらと笑ったのは、まだ十二、三歳くらいの少年だった。茶色の巻き毛と大きな目をした、可愛らしい子供である。
「なんだって?アタシは女だよ。心は完全な、オ・ン・ナ。体は……しょうがないだろ」
「へっ、ようするに、ただのカマだろカマ」
「ちげえねえ」
 他の海賊たちがゲラゲラと笑いだした。
「なんだって、この野郎ども。あたしとやる気かい?」
「おおっと、ナイフは出すなよ。そいつじゃおめえに勝てねえからな。なんなら後でサイコロでどうよ?」
「いいとも。お前のかあちゃんの形見の指輪をかけてね」
 半ば唖然としながら、グリンは彼らを見つめていた。海賊船に子供がいるとは。それに、女の恰好をした美人の男まで。この船は、いや、ここの海賊はいったい……どういう連中なのだろう?
「あの……」
 おそるおそる声をかけると、海賊たちが一斉に振り返った。
「なんだい?ああそうか。水が欲しいのかい。ドリス、水だ、水」
「なんだよ。ルー・パイが自分で取ってこいよ」
「おだまり。お前はまだ正式には水夫見習い……いや海賊見習いなんだからね。逆らうんじゃないよ」
「分かったよ、もう。人使いが荒いんだから」
 少年が不平そうな顔をして甲板を駆け出してゆく。
「いや……水も欲しいんだが、そうではなく……その、つまり」
 どういったらいいものか分からず、グリンは口ごもった。
「ああ、安心おし。あたしらはべつに、あんたをどうこうしようって気はないから。お頭も言っていたように、あんたが怪しい奴じゃないと分かればね。たぶん、殺しはしないと思うよ」
 ルー・パイと呼ばれた彼……いや彼女が、にやりと笑って言った。
「ねえ、オギナ。そうだよね。普通の商人なら命まではとらない。それがこの船のモットーだろ?」
「ああ?まあ、そうさな」
 甲板を通りかかった、体格のいい男がこちらを振り向いた。
「ほらね。オギナは操舵長さ。この船の副船長みたいなもんだよ」
「呼んだか?」
 傍に来たのは、大柄な体格の、いかにもベテランらしい海賊だった。色のくすんだ赤いシャツに、太いズボン、頭にはバンダナを巻いている。黒々とした髭を伸ばしたその顔は温厚そうで、他の海賊たちのようにぎらついた雰囲気はあまりない。
「ほらね、オギナはいい奴なんだ。ねえ、グリンにひどいことしないよね」
「まあ、お頭も言っていたように、あとで尋問……というか、少々詰問させてもらうことになるだろうが、とにかく、まずは服を着替えて休むといい。腹が減っているんなら、スープでも出してやれ。豆と野菜しか入っていないので味の保証はできんがな。船室までは、ルー・パイ、お前が案内してやるんだな」
「もちよ」
 嬉しそうに「彼女」は答えた。
 やがて甲板上には、マストのロープを引く海賊たちの声が響きはじめた。風向きが順風に変わったようだ。
「はい、水だよ」
 ルー・パイに連れられて歩きだしたとき、さっきの少年が走ってきてグリンに水筒を差し出した。
「ああ、ありがとう」
 それを受け取りひと口含むと、グリンは瞬く間に水を飲み干した。口にしてみて、いかに自分が喉を乾かしていたかに気づいたのだ。
「そういえば、今朝あんたを見つけたのも、このドリスなんだよ」
 ルー・パイに言われ、少年は照れくさそうに頭をかいた。
「へへ。今朝見張り台に立って海を見渡していたらさ、なんかがプカプカ浮いてるもんで、おいらオギナに言いにいって、そんでボートを出したんだ。そんで近づいたらさ、樽にしがみついてるあんたを見つけたのさ」
「そうだったのか。それは、ありがとう」
 グリンは少年に心から礼を言った。少年……ドリスは、嬉しそうに甲板の上でくるりと回った。
 どうやら、この海賊たちはあのドルテックとは少し違うようだ。そうグリンは思いはじめていた。それに、自分が商人であると思い込んでくれているおかげで、すぐに命の危険が訪れることはなさそうである。なんとかこのまま商人を装って、どこかの港町で船を降りることができれば……そう彼は考えていた。
 首からかけた銀のコンパスに手をやる。この中の海図を、一刻も早く騎士団の船に渡したい。ブレイスガード艦長が最後に自分に託したこの任務を、彼はなんとしても遂行する決意だった。
「ねえ、なにぼうっとしてるんだい?」
「ああ、いや……なんでもない」
 グリンは慌てて顔を上げた。
「ところで、この船は、いや……あんたたちは、なんという海賊なんだい?それが知りたくて」
 確認の意味も含めて尋ねてみた。無論、そんなことはとうに知っていたのだが。
「この船はね、ふふふ、聞いて驚きな……」
 誇らしげにルー・パイが言った。
「ジェーンレーン一味の海賊船、ブルー・マスター号さ」
「ブルー・マスター号……」
 やはり……という、密かな感動を隠しながら、グリンはその船名をつぶやいた。
「まあね。なにせこのへんじゃ、あたしらはけっこうな有名人だからねえ。ぼうやがおどろくのも無理はないか」
 グリンの様子を見て、名のある海賊の船と聞き驚いたのだろうと、「彼女」は思ったようだった。
「ま、よろしくね。あたしはルー・パイ。これからはルーって呼んでいいよ。元気になったらナイフの投げ方でも教えてあげるよ」
「おいらはドリス。まだ見習いの海賊だけどさ、将来はすごい船長になってやるんだ」
 水を持ってきてくれた少年が、そう言って胸を叩いた。
「で、あんたの名前はなんてんだい?」
 尋ねられたグリンは、少し迷った。
「俺……は」
 本来ならここは偽名を使うべきところだろう。念のためにもそれがよい。
「……」
 見上げれば、船の上には青い空が広がり、一面の海原は日の光を受けてまぶしく輝いている。潮の香りがする風が心地よい。目を閉じると、ここが海賊船であることを一瞬忘れてしまいそうになる。
「グリン」
 口をついて本当の名が出た。それが自然なことに感じられた。
「俺は、グリンだ」
 首にかけたコンパスを握りしめ、彼はそう繰り返した。

「なるほど。それでは、お前はあのドルテック団に襲われたと、そういうわけなのだな」
 粗末だが乾いたシャツとズボンに着替えたグリンは、海賊船の船長室で尋問を受けていた。
 そこはタンタルス号の船長室のように広くはなく、ごく狭い空間に机がひとつあるだけの、いたって簡素な部屋であった。グリンの隣には、さきほど甲板で少し言葉を交わした、操舵長のオギナが腕を組んで立っている。そして机をはさんだ向かいには、一団の首領である、赤毛の女海賊……ジェーンレーンが、足を組んで座りながら、この突然現れた闖入者を探るような目で睨んでいた。
「もう一度繰り返すが……」
 女海賊は、その凛と張った、よく通る鈴の音のような声を船室に響かせた。
「夜明け前に、エボイア島の北側の航路上を航行中、お前の乗る商船……なんといったか」
「クリアライト号です」
「そのクリアライト号は、いきなり海賊船に襲撃を受け、船は占拠されたと、そういうことだな。そしてお前……グリンといったか」
「ええ」
 うなずいたグリンは、すぐ近くに座っている美貌の女海賊を、食い入るように見つめていた。その口から自分の名が呼ばれると、身震いするような感動が体に走るのを、どうしても抑えられない。
 女海賊……そのまるで、伝説かおとぎ話の中でしかありえないような存在が、こうして実際におり、自分と言葉を交わしているのだ。あのガルタエナ湾でその姿を見て以来、彼が密かに思い描いていた赤毛の女海賊のイメージは、今こうして実物を見るにつけ、まさに彼の想像通りの姿だった。鋭い光をはなつ緑色の瞳、その口から発せられる澄んだ鈴のような声、そして、遠くから見る以上に魅惑的な赤い髪……それが肩に流れ落ちて、うっとおしそうにかきあげる仕種すらも、なにか野性的で美しい。その細い指に絡まるその赤毛の一本にでも、グリンは触れてみたいと思わずにはいられなかった。
「なるほど。つまり、お前は単身海に飛び込んで難を逃れ、樽に捕まって漂流し、そして今朝になって、私の船に発見されて、ここにこうしているということなのだな」
「そうです」
 グリンは内心で、この尋問を楽しくすら感じはじめていた。美しい女海賊の顔を見ながら言葉を交わすのは、それだけで胸が高鳴るものだったからだ。
 しかしまた同時に、自分が騎士であるという事実を隠し、商人としてふるまわなくてはならないこと、そして、いずれはこの船を抜け出さなくてはならないという、任務のことをを常に考えてもいた。
「どう思う?オギナ」
 しばらく考えるように腕を組んでいた女海賊は、この船の副長でもある操舵長に意見を求めた。大柄なその男は、部屋に入ってきてからほとんど声を発せず、ただ彫像のように立っていただけだったが、今はその目をグリンに向けて口を開いた。
「そうですな……この者、グリンの言葉を信ずるとすれば、おそらくドルテックの<狩り>が始まった、ということでしょうな」
「やはりそう思うか」
 女海賊は眉を寄せた。
「噂によれば、奴らはアナトリア騎士団の動きをすでにある程度つかんでいて、不審な船を見かければそれが商船であろうとなんだろうと、とりあえずは拿捕してしまえという、かなり荒っぽい行為を始めたと聞きました」
 そばで聞いていたグリンはどきりとした。操舵長が騎士団の名を口にしたとき、その細い目が、自分の方をじっと凝視したような気がしたのだ。
(気のせいか……まだバレてはいないはずだ)
 しかし、騎士ではないかと疑われているのはまずい。これは余計なボロは出すまいと、グリンは己に言い聞かせた。
「ドルテックの連中は、騎士団に対してはなみなみならぬ恨みを抱いてますからね。それに巻き込まれた一般の商船などは、まったく運が悪いというところでしょうな」
「ふむ……」
 あごに手を当てた女海賊は、顔を上げるとグリンを見た。
「とにかく、お前がどこかの商人だろうと、あるいはそうでなかろうと、この船に拾われてここにいるからには、今後はこの船の掟に従ってもらう。ただ、あたしらはドルテックのようにやみくもに殺しをしたり、いくさをしたいわけじゃない。お前の言うとおり、ポート・イリヤに着いたら、そこでお前を下ろしてやってもいい。むろん、あたしらの船のことは多言無用にして欲しいものだが」
「ええ。それはもちろんです」
 おとなしくグリンは言った。
「それから、あたしらの船にはタダ飯を食わせてやれる余裕もないのでね。ここにいる間は働いてもらうことになるが、いいかい?」
「それも承知しています」
「よし。ではあとは、お前のことはこの操舵長にまかせる。オギナ、この者を部屋で休ませてやるといい」
 そう言うと、もう用はないというように、女海賊は向こうを向いた。長い赤毛を後ろに束ね、船尾の窓から海を見るその後ろ姿に、グリンはしばらく見とれていた。
 船長室を出ると、扉の外でルー・パイが待っていた。
「部屋にいくんだろ?あたしが案内してやるよ」
 「彼女」は馴れ馴れしげにグリンの手を取り、引っ張っていった。
 海賊船の船内は狭かった。大型ガレオン船のタンタルス号に比べると、船の居住スペースはその三分の一くらいのものであろう。船長室からいったん甲板に出て、メインハッチから再び船内に降りると、そこは船員たちが集う大部屋で、がやがやと声高に会話をする海賊たちの他に、床の上を犬や鶏などが鳴きながら走り回っている。
 誰かが弾いている下手くそなヴァイオリンの音色と、それに合わせた野卑な歌声が飛び交い、女たちの嬌声が響いていた。
 女!
 そう、この船には女が乗っているのだ。おそらくは男たちが陸から連れてきた娼婦かなにかなのだろうが、女を乗せると船に邪気を呼び寄せるということわざを、彼らは知らないのだろうか。いや、だがそれを言うならこの船の船長そのものが女であったのだと、グリンは思い至った。
 ルー・パイに手を引かれながら、グリンは雑多にひしめき合ったその部屋を眉を寄せながら通っていった。何人かの海賊たちが振り返り、自分を指さして何事かを言い合ったり、あからさまに嫌な顔をしたりした。「よう、色男の商人さん。ルーのやつにつかまったのかい?」と、げらげら笑いながら、酒臭い息で絡んでくる男に、ルー・パイはきっと顔を向け、「うるさいね、お黙り。この馬鹿」と怒鳴りつけた。
 部屋を抜けると、短い廊下の両側にいくつかの扉があった。その先が船倉への階段で、そこには絶対に行くなとルー・パイは言った。
「船倉には武器や食料だけじゃなくて、皆の分け前になるお宝もあるんだよ。船長の許可なしで入ったやつは、鞭打ち二十回かマストに一日吊るされるのさ。あんたも気をつけな」
 部屋に案内されると、グリンはややげんなりとした。そこは人がかろうじて二人ほど横になれるくらいの広さで、むろん窓もない。床板は変色しところどころにカビが生えている。部屋の空気全体もじめじめとしていて、もしハンモックがなければ、到底ここには寝られまいというような部屋であった。
「さあ、とりあえずここで休みなよ。でも明日からは個室なんかでは眠れないよ。ここも本当はオギナのための寝室なんだからね」
「ああ、ありがとう」
「あんたの服は乾かしておくけど、でも、その恰好のほうが似合ってるよ」
 だぶだぶなズボンに袖の破れたシャツという、自分の姿を見下ろしグリンは苦笑した。これではどう見ても騎士には見えない。
「ねえ……もしなんなら、あたしが一緒に添い寝してやろうか?」
「ああ、ええと……またそのうち」
「あっそ」
 ルー・パイは、はちょっとふくれ面をして部屋を出ていった。
 ようやくグリンは一人になった。ハンモックに横たわると、全身に急激に疲れを感じた。
「……」
 目を閉じると、すぐにでも眠れそうだった。だが、少しもしないうちに彼はがばっと起き上がった。
「う……ああ」
 苦しげな呻きのような声が、その口から漏れた。
 脳裏に現れたのは、昨夜の海賊の襲撃のこと。そして、あの船倉での恐怖であった。
 樽に隠れた仲間たちが、残虐な海賊の手に掛かって殺されてゆくのを、何もできずに、ただ樽のなかで丸くなっていた自分……暗がりに響いた海賊たちの笑い声、銃弾の響き……
 頭の中でそれらが次々に甦り、苦痛と恐怖、そして、言い知れぬ怒りとが混ざり合って襲ってきた。
「う……ぐっ、うう」
グリンは、海賊船のハンモックの上でひとり頭を抱え、声を殺して嗚咽しつづけた。

 部屋は薄暗くなっていた。
 どうやらもう夕刻であるらしい。やはり、漂流した疲れからか、いつのまにか眠ってしまったのだ。
 グリンはハンモックの上で、ゆっくりと手足を動かした。少し節々が痛んだが、眠ったせいか頭はすっきりとしていた。
「ここは……海賊船」
 確認するようにつぶやいてみる。
(赤毛のジェーン……)
 かつてガルタエナの湾で見たあの船に、自分は乗っているのだ。騎士たちの間でも、もっとも名高い海賊のひとつ、ジェーンレーン一味の船に。それはひどく奇妙な、不思議な感じがする。
「ブルー・マスター号、といったな……」
 それは、いかにも彼女に似つかわしい、この船の名前である。大胆にして迅速な行動力、騎士団のガレオン船の、その鼻先をせせら笑うように去っていった小さなスループ船。
(ジェーンレーン……)
 グリンは船長室での対面を思い出した。
 つり上がった眉と鋭い眼差し、凛と張った声、それに長い赤毛をかきあげる仕種……ほんの短い時間であったが、その強い印象は、自分が考えていた「女海賊」の魅惑的なイメージそのままであった。
(俺は、赤毛のジェーンの船に乗っているんだ……)
 そんな深い感慨を胸に、グリンは起き上がった。ぎしぎしと音をたてる板を踏みしめ、彼は目の前の扉を開けた。
 甲板に出ると、赤く染まる夕焼け空が美しかった。水平線の向こうに燃えるような円盤が落ちゆき、赤と紫と青の入り交じった黄昏の空が頭上に広がっている。グリンは、しばらくの間、己の立場も、海賊たちのことも忘れ、夕暮れの輝く海に見とれていた。
「どきな。邪魔だ」
 いきなり後ろから声をかけられた。
 振り向くと、そこに見かけぬ男が立っていた。男は、ひょろりと手足が長く、背が高い。目つきの鋭い、いかにも無愛想な感じで、グリンを睨んでいる。
「あ、ああ……すまない」
 自分がハッチの出入口に立っていたことに気づき、グリンは端に寄った。男は何も言わずその横を通っていった。
 見ると、男の手にはひどく奇妙な銃があった。スナファンス銃のようだが、それにしては銃身がはるかに長い。今まで見たこともないような形の銃だった。
 男はそれを背中にかつぐと、するするとマストへの縄ばしごを登ってゆく。いったい何をする気なのだろうと、グリンが興味深く見守っていると、男はマスト上方の見張り台にたどり着き、そこで四方を見渡し始めた。
 定期的な海上の見張りにしては、あんな銃を持っていくのは変だ。それとも単なる銃の試し撃ちなのだろうか。それなら甲板からでも十分のはずだ。
 しばらくして、見張り台の男は、何かを見つけたように空に向けてさっと銃を構えた。そして「バーン」という銃声が轟いた。弾を込めなおし、立て続けに二発、三発と。
 甲板にいる他の海賊たちは、銃声に気づいて見張り台を見上げたが、それが「いつものこと」であるかのように、驚いた顔のものはいなかった。
「ローガンの奴、今日もやってるよ」
 甲板に上がってきたルー・パイが、グリンの横に来て言った。
「これじゃ、今夜もまた鳥料理か。ま、ただの豆のスープよりはマシだけど」
「鳥料理って……まさか」
 驚くグリンに、ルー・パイはふんと鼻を鳴らして言った。
「カモメだろ。今日は何羽だろうね」
「まさか。船の上から空を飛ぶカモメを撃つなんて。そんなことができるわけ……」
 なにしろ、通常のスナファンス拳銃では、射程は至近距離の船に当てるのがせいぜいだ。かといって散弾のマスケット銃では、小さなものを狙い撃つなどという真似はまずできない。どちらにしても、空を飛んでいる鳥を、銃で撃ち落とすなどという芸当は、可能であろうはずがない。
 銃を背に背負って男が見張り台から降りてきた。船からはすぐに小型ボートが出てゆき、男の指さす方に向かってゆく。
「四匹だよ。皆でっかいやつ」
 しばらくして、戻ってきたボートから声が上がった。ボートにいるのはドリスだった。少年はその手に白い鳥を持って見せた。
 グリンは目を丸くしてそれを見ていたが、次に彼は、「あっ」と叫んだ。銃を背負った男が振り向いた。
「そうか……そうだったのか」
 目を輝かせ、ひとり合点がいったというように、彼は何度もうなずいた。肩をすくめてその場を離れようとした男を呼び止める。
「た、頼む。その銃、ちょっと見せてくれ!」
 振り返った男は、こちらを見て怪訝そうに眉を寄せた。
「なんてすごい銃なんだ。あんなに遠くの鳥を撃ち落とすなんて。驚いたよ。それは君が作った銃なのかい?見たところスナファンス銃にも似ているが、でもそうじゃない。砲身も長いし。弾は普通の弾なのかい?それとも特注なのか」
 甲板にいた他の海賊たちが、何事かと近くに寄ってくる。
「頼む。そいつを見せてくれよ。ちょっとだけ、触らせてくれればなお嬉しい」
 唾を飛ばしてまくし立てるグリンの様子に、男は気押されたように後ずさった。
「おい……分かったから。待てよ」
「見せておやりよ、ローガン」
 そばに来たルー・パイが面白そうに言った。
「なあ、頼むよ。そんな銃、生まれて初めて見たんだ」
「ああ、分かったよ」
 ローガンと呼ばれた男は、グリンの剣幕に半ば呆れたような顔をしたが、自分の銃を褒めてもらって、まんざらでもなさそうだった。
「ほら、ちょっとだけだぞ」
 男から銃を手渡されると、グリンは熱心な目つきで、それを観察しはじめた。
「ああ……やっぱり、構造はスナファンス銃みたいだ。それに長い銃身と、あとはバネも長くしてあるようだ。それに、なんだこれは……望遠鏡?銃に望遠鏡が付いているぞ」
「それでかなり遠くのものも、しっかりと狙えるのさ。射程はスナファンス銃の三倍。命中精度は五倍以上だな。もちろん、それには俺の銃の腕があってこそだが」
 男は得意気に説明した。
「すごい。すごいな……、あんたが作ったのかい?」
「そうさ。長い間かかっていろいろ試したんだ。より遠くのものを狙い撃ちできる、そんな銃をな」
「銃の腕なら、マロック海の海賊でこのローガンにかなう奴はいないからね」
 ルー・パイが誇らしそうに言った。
「鳥はもちろん、マストのロープだって、狙い撃てるのさ」
「……ああ」
 グリンは意味ありげにうなずいた。
 その表情は、驚きと純粋な感嘆に満ちていたので、そのとき彼の頭に浮かんでいた別の事を知る者はいなかった。
 この時代、「ライフル」という言葉など存在しなかったが、改造されたこの長銃の威力は確かに凄いものだった。そして、あのとき自分が思った「解答」の正しさに満足するかのように、彼はその目をきらめかせた。
「凄い。凄い銃だ。それにあんたの腕前も。こんなものを作れるなんて、あんたは天才かもしれない」
 賛辞を贈るグリンに、男は照れたように頭を掻いた。
「まあな。これだけは誰にも負けねえ。ところでおめえは……グリンとかいったか。ただの商人って話だが、なかなか面白いやつだな。俺はローガン、まあ、よろしくな」   
 握手を交わす二人の横から、ルー・パイが口をはさんだ。
「確かにローガンの銃の腕は一番だけどさ……あたしのナイフだって、そりゃちょっとしたもんよ。そうだ、元気になったら教えてやるって約束したよね。そら、こっちに来てよ。見せてやるから」
「ちょっと待ちな、ルー・パイ」
 グリンの手を取ろうとする彼女に向かって、別の海賊が言った。
「だったら、俺の錨巻き上げのスピードだって相当なもんだぜ。みろよ、この腕の筋肉を。ぬおおっ」
 海賊は、その丸太のような腕に力こぶを作って見せた。
「なに言ってやがる。俺のマスト引きの方がよっぽどすごいぜ。この船のメンスルだったら、一人で上げられるぜ」
「嘘付けこの」
「なんだと?」
 いつのまにか、周りにはたくさんの海賊たちが集まってきていた。
「だったら、まずは俺の大砲の腕を見ろって」
「ばあか。無駄弾を使ったらお頭にどやされるぞ。それよりも俺の樽運びを見せてやる」
「そんなもん自慢になるかよ」
 あっけにとられるグリンの前で、海賊たちは、てんでにそれぞれの自慢を始めて、もはや収拾が付かなくなった。
「お待ちよあんたら。それじゃ、このグリンに決めてもらおうよ」
 ルー・パイの言葉に男たちがうなずいた。
「ああ、いいとも」
「そうしようや」
「ねえ、グリン」
 しなだれかかるようにグリンの体に身をもたせ、彼女は艶っぽく言った。
「あんたは誰のが見たい?もちろんあたしのだよね?向こうに行ってさ、二人きりでナイフ投げの手ほどきをしたげるよ。ねぇ、どうさ?」
 首筋に息をかけられ、グリンはぞくりと体を震わせた。
「あの……ええと、その」
「あっ、ずるいぞ」
 彼が困っているところへ、甲板をかけてきたのはドリスだった。
「みんなして楽しそうに。おいらもまぜろ」
「おや、ドリス。鳥はどうしたい?」
「料理長に渡してきたよ。それより、腕自慢だったらおいらのマスト登りを見てくれよ。この船じゃ誰にも負けないぜ」
「ガキはすっこんでなよ」
「なんだよ。ルーなんか、怖くて戦闘楼までだって登れやしないくせにさ」
「おだまり」
 ドリスとルー・パイは互いにきっと睨み合った。
 周りの男たちはそれを面白そうに眺めている。銃を手にしたローガンが、呆れた顔で肩をすくめる。それを見てグリンは思わずぷっと吹き出した。
「なに笑ってんのさ。あんたはどっちが見たいんだい?グリン」
「おいらだよな?」
「あたしでしょ?」
 尋ねられたグリンは、困り果てたように二人を見比べた。

「まったく、騒がしいね。なんの騒ぎなんだい?これは」
 後部甲板に上がってきたのは、この船の船長、ジェーンレーンだった。夕日に照らされて、その燃えるような赤毛をなびかせて立つ女海賊は、さながら船上の女神のようだった。
「あれですよ」
 舵柄をとるオギナが甲板の方を指さした。
「なんだい、大勢集まって……」
 マストの周りに輪になった部下たちを見て、彼女は眉をひそめた。
「おや、あれはグリンとかいった男だな。あいつが何かしでかしたのかい?」
「さあて。しかしここから見ている限りでは、どうも皆がグリンに自分の特技を見せたがっている様子ですな」
「ほう」
 ジェーンレーンは少し興味をもったように、甲板を見つめた。
「ほら、マストに背中を付けて立つんだよ」
 両手にナイフを持ったルー・パイが、得意気にそれをくるくると回してみせた。
「ちょっと、待て……おい、ちょっと」
 情けない声を上げるグリンを、両側から二人の男が容赦なく押さえつける。彼は頭に帽子をかぶり、マストを背にして立たされる恰好になった。
「いいかい。動くなよ」
 細く小さなナイフを両手に持ち、マストから十歩ほど離れた所でルー・パイは構えた。
「いくよ」
「わあっ、よせっ」
 ルー・パイの手から続けざまにナイフが放たれると、グリンはたまらず目を閉じた。
「うわっ」
 グリンの叫びと同時に、ストン、ストンとナイフが突き刺さった。
「ああ……」
 恐る恐る目を開けると、二本のナイフが突き刺さった帽子がマストに縫い付けられていた。安堵の息をつき、グリンは甲板に座り込んだ。
「どうだい!」
 自慢げに手をかざすルー・パイに、海賊たちがやんやと喝采した。
「いいぞ、ルー・パイ」
「男にしとくのが惜しいぜ!」
「おだまりっ」
 彼女はへたり込んでいるグリンに近づいて、その腕をとった。
「さあ、今度はあんたがやってみなよ。なに簡単さ。ナイフをこう指にはさんでね、投げるというよりは、上から下に真っ直ぐに切る感じで放すんだよ」
 周りの海賊たちが二人に向かってひゅーひゅーと口笛を吹く。その横では、少年が準備体操を始めていた。
「さあ、次はおいらのマスト登りを見せる番だよ。なんならおいらと勝負するかい?」
「やなこった」
「へん。ルーのいくじなし」
 ドリスは、軽く何度かジャンプすると、いきなりだっと駆けだしていって縄ばしごに飛びついた。そのまま猛烈なスピードで、一気に戦闘楼まで駆け上がってゆく。
 瞬きをする間に、少年は戦闘楼のさらにその上の、見張り台にまで駆け登っていった。
「おお……」
 鳥のように小さくなってゆく少年を見上げ、グリンは目を丸くしていた。マストは相当な高さだろうに、少年は恐れげもなくてっぺんまでよじ登って立つと、こちらに向けて手を振った。
「いいぞ、ドリス!」
 海賊たちが手を叩く。グリンも笑顔で少年に拍手を贈った。
 後部甲板からその様子を見ていたジェーンレーンは、呆れたように笑った。
「今度はドリスのマスト登りか」
「皆、見栄っ張りな連中でさあ」
「ふふ。そのうち、オギナの舵の腕前も見せてやりたいものだな」
「かといって、わざわざ珊瑚礁に近づくのは勘弁ですな」
 操舵長の顔にも、なにやら楽しげな笑いが浮かんでいる。
「あの、グリンという男……どう思う?」
「さあ……しかし、ただの商人とは思えませんが」
「そうだな」
 まだ騒がしい甲板上を見やりながら、女海賊はふっと笑った。
 夕日に照らされたその横顔は、何事かを思うように静かで、そしてその目は、甲板に集う己の部下たちの中にいる見知らぬ若者に、じっと向けられていた。



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