バスドラハート 5



 それからの一ヵ月は、ほんととうにあっと言う間に過ぎていったような気がする。
 わたしは予備校の帰りに何度か彼らに会い、二度ライブを見に行った。わたしはリョウと、そして他のメンバーたちと色々なことを話し、すっかり彼らと打ち解けた。彼らと会う時間というのは、わたしにとって真面目でいる必要がない時間だった。通りを行き交う人々が、長髪のバンド連中に混じっているわたしをじろじろといやな目で見ても、もうさほど気にもならなかった。
 金髪のリアンは新しい彼女の自慢話をし、三好さんはロックについての展望を真面目な口調で話してくれた。緑川さんは『人生は川のようなものだ』と、独自の哲学を語った。リョウは今書いている曲のことや、たわいもない自分の昔話、それに次のライブへの意気込みなどをわたしに話してくれた。
 彼らの話はそれぞれにみな興味深く、しだいに、それまでわたしが抱いていたロッカー連中に対しての偏見……彼らは皆ぐうたらでカッコつけで傲慢な、目的もなくブラブラとしている輩である、というそれは、きれいさっぱり消えていった。
 彼らは、ある意味では大変真面目であるとさえ言えた。彼らがアルバイトをするのは、遊んだり酒を飲んだりするためではなく、もちろんそれもあったにせよ、実際はもっと切実で、各々の部屋代や生活費、食費などをかせぐためだった。そして残ったなけなしのお金を楽器につぎ込み、スタジオ代に当てたりしているのだ。彼らは人々の好意的とは言えない視線を受けながら、毎日ティッシュを配り、牛丼屋で食事をし、仕事が終わるとスタジオで曲作りをする、といった生活を続けていた。
 また、ライブをするのにも相当なお金がかかり、最近はけっこうチケットが売れるようになったが、少し前まではライブをする度に赤字で、メンバーがその分を払っていたということを聞いて、わたしは驚いたものだ。それでも彼らはバンドを続け、曲を作り続け、練習を欠かさないのである。リョウに聞いた話では、生活費と音楽にかかるお金をとると、ほとんど使えるお金はないのだという。
 世間から彼らが、だらしなく、ぐうたらで不真面目な存在だと思われているとしても、一つだけははっきりと言えることがある。彼らは音楽に対しては真面目であると。そして、たしかにそれは本当のように思えた。あれから二度ほど行った彼らのライブを見て、つくづくわたしはそう思ったのだ。
 わたしが初めて行ったあの時に比べると、格段に彼らはステージ上で楽しそうだった。それに、この前はただのノイズにしか聴こえなかった曲も、ちゃんと聴けば彼らがなにを聴かせたいのかがしだいに分かってきた。もちろん、彼らはハードロックバンドであって、その持ち前の激しさやヘヴィな面はそのままだったが、それはあの時のように一方的な破壊を感じるものではなく、曲としての完成されたハードさであるように思えてきた。
 中でも、特にリョウの変わりようは目を引いた。
 かつてのように、ステージ上でわたしを睨み付けた、あの凄絶な表情は少しずつおだやかになり、彼自身がまるで音楽に演奏されてでもいるかのように楽しそうにギターを弾くその姿は、「なにかが吹っ切れたようだ」と三好さんが評する通り、とても自然に見えた。そう、かつてわたしが楽屋で見た彼のように……
 そんなリョウに引っ張られるかのように、緑川さんのドラムも全体を支えるような安定さを増し、ただ叫んでいただけのようなリアンのヴォーカルも、そのハイトーンを生かした「歌」を聞かせるようになりつつあった。そして、リズムとメロディをつなぐように、三好さんのベースが心地よいビートをつくり出す。
 それは、まるで、泣き叫んでいた赤ん坊が、しだいに言葉を覚えはじめるようにも見えた。素人のわたしから見てさえ、彼らは着実に成長していた。
 しかしもちろん……、もちろん一方ではわたしは受験生だった。そして、それを忘れていたわけでもなかった。
 予備校が終わってから、彼らの働く駅前にゆき、差し入れにサンドイッチを持って行ったりは何度かしたが、わたしは親が心配しない程度にはちゃんと勉強もした。
 わたしは高校三年の受験生。受験勉強はつまらなく退屈だ。以前はそれほど嫌いでなかった予備校の静まり返った空気も、彼らのライブを見た後の、あの「音の存在し終えた」自然な静寂に比べたら、それはいかにもつくりものめいていて、そして冷たかった。
 学校も勉強も友達も親も、そして私自身の優等生ぶりも、なにもかもみんな無意味に思うこともあったが、それでもとにかく、わたしは逃げたくはなかった。わたしはときに、彼らに会いに行きたくてたまらなくなったが、それをこらえて勉強にはげんだ。
 そして、夏休みの後半に感じる時間の速さは、受験生であるわたしにも例外ではなく……、
 気が付けば、八月も終わろうかという時期にさしかかっていた。
 予備校の夏期授業もいよいよ佳境にさしかかり、それが終われば受験生にとっての最後の猶予期間の秋、そして冬が来る。
 予備校にいるあいだ、わたしはなるたけバンドのことは考えないようにした。授業に集中し、黒板の文字を真剣に睨み、シャープペンの芯を換える暇も惜しむほどに、わたしは手を動かした。
 ただ、わたしには一つだけ気になることがあった。それは、あの時以来、予備校の授業でえりかに会っていないということだ。
 それまでは、わたしはあまり深く考えずに、教室にはこれだけの人数がいるんだし、友人が一人くらい目に入らなくても不思議はないだろうと、なんとなく思っていた。しかし、それでも同じ講義を受けていれば、見かけることもあるだろうし、席取りで廊下に並んでいるときに出くわすことだってあるだろう。最近では、わたしもなるべく意識して、えりかの姿を探すようにしている。
 しかし、にもかかわらず、わたしはえりかの姿を、それらしい人影すらも、一度として目にしたことはなかった。わたしのかばんにはいつでも彼女に返せるように、ずっと前に借りたノートが入ったままなのに。
 わたしはある時思い立って、えりかに電話をかけようと携帯の電話帳を見た。しかしそこに彼女の名前は無かった。わたしは、自分が彼女のメールアドレスも、携帯番号さえも知らないことに、そのとき気づいたのだった。
 考えてみれば、彼女と会ったのはまだたったの三回だけ。それも、わたしはほとんど彼女の話を聞くだけで、彼女がどこでバイトしているのかも、今どこに住んでいるのかも尋ねなかった。彼女の方も、バンドの話や中学時代の話などはしたが、具体的に、予備校でどの講義を受講しているとか、彼女の連絡先などは、殆ど話さずじまいだったのだ。
 わたしは、なにか得体のしれない不気味さに呆然とした。中学時代の友人、えりかの顔はぼやけたままだ。
 彼女はいったい……
 わたしの心の中で、そのことがもやもやとわだかまっていたことは確かだったが、それでもわたしにはやらなくてはならないことが山ほどあった。勉強やら大学の下調べやら、親や先生との進路の相談やら。なおかつ、その合間を縫ってリョウたちに会ったり、ライブを見に行ったりと、一ヵ月はあっと言う間に過ぎてゆき、姿の見えない彼女のことは心配ではあったが、そう常に気にしていられたわけではなかった。

 そして8月31日がやってきた。
 予備校の夏期授業を終えてから、わたしは勇んでライブハウスへと足を運んだ。
 今日は夏休み最後のライブ。彼らに悪いのでチケットはちゃんとお金を払った。さすがに四度目ともなれば慣れたもの、店のまえでたむろする長髪の連中も、地下へ下りる階段の汚い壁の落書きも、受け付けの髪を逆立てたにーちゃんも、重くて分厚い扉も、すでにわたしにとっては見知ったものだった。そしてもちろんデカい音も。
 ライブはとても盛り上がり、アンコールまでとびだした。彼らの演奏はいよいよ力強さと説得力を増していくようで、聴いていたわたしも思わず背中に汗をかいていたほどだった。
 ギターを弾くリョウの姿に、わたしは見とれた。その自然な表情、なにも作らない仕草……確かにそれが彼の本当の顔であり、そして音なのだと、見るものを納得させるような。そんな姿にわたしは見とれていた。

 ライブが終わり、そろそろお客が帰りはじめたステージでは片付け作業が始まっている。
 楽屋へ通じる狭い廊下には、演奏を終えたメンバーたちが壁によりかかっていて、わたしを見ると笑いかけてきた。
「あ、朝美ちゃん」
「お疲れー。はい、コーラ」
「どうもどうも」
「サンキュー」 
 わたしの差し出したコーラの缶を開ける彼らの顔は、汗にまみれてはいたが、皆どこか満足げに見えた。
「よかったよー、今日のはとっても」
「やっぱそう思うだろ?オレのクリスタルヴォイスに客はもうイチコロさ」
「それに、とうせいのドラムもノってたしな」
「ええ、夏が終わりを告げようとする今日この頃、ようやくいいプレイが出来るようになったと僕自身感じつつ、コーラがうまい」
「特にリョウのギターなんか、すげえ冴えてたよなァ」
 そうそう。
「ああ、なんかアイツ、最近めっきり腕上げたって感じ」
「そうだな。ひとつ殻をやぶったっていうのかね」
 うなずき合う三好さんとリアン。その横では緑川さんが微笑んでいる。そういえば、リョウの姿が見えない。
「あの……、リョウは?」
「ああ、今楽屋にいるけど……」
「あ、馬鹿。リアン」
「へ、どったの?」
「あ、朝美ちゃん。今、ちょっと……」
 妙な顔をしている三好さんには気づかず、わたしは楽屋のドアを開けた。
「リョーウ、いるの?」
 ドアを開けた瞬間、わたしはそこにいた二人を見て固まった。
 二人……?
 リョウはドアに背を向けていた。そして、その背中に手を回してしっかりとしがみついているもう一人は……
わたしは凍りついたようにその光景を眺めていた。わたしの後ろで三好さんが顔に手をやったが、そんなことは知らない。
 わたしは見た。リョウにしがみつくその相手を。
 茶色の髪がリョウの肩にかかり、涙をためた瞳がわたしを見た。
 え……りか。
 わたしはつぶやいた。
 目の前でリョウと抱き合っていたのは、まぎれもない、彼女……藤村えりかだった。
(あ……ああ……)
 わたしは口に手を当て、なにかを口走るのをこらえた。手からコーラの缶が滑り落ちて転がった。
 リョウが、ああ、リョウが気づいたように振り返り……
 わたしはドアを閉めた。
「……」
「あ、あのね朝美ちゃん。彼女は……」
 三好さんが何かを言おうとしたが、わたしは無言で首を振った。
「それじゃ、」
 わたしはなんとかそうひとことだけ言うと、廊下を歩きだした。何事もなかったかのような顔で階段を上り、わたしはライブハウスを出た。
 何がなんだか分からなかったというよりは、むしろ何かが分かってしまったような符合がわたしを打ちのめしていた。思い出したのは、えりかのギターに貼られた「エメラルド・スラッシュ」の文字。
(あたしの好きな人にもらったものなんだ)
えりかの言葉とうれしそうな笑顔……そしてさっきの涙。そのすべてが、わたしを突き刺すかのようだった。
 ギターの轟音が、わたしの頭の中で鳴り響いていた。
 わたしは走った。
 夜の繁華街は、ネオンが眩しくて……目が痛かった。
 自分が泣いているのかどうかなど、知りたくもなかった。
(わたしは馬鹿だ)
 走りながら心に思ったのはそれだけだった。
 わたしは、リョウの彼女でもなんでもなく、そして、その事は自分でよく知っていたはずだった。
(それなのに……。なんで……)
 こんなに苦しいのだろう。
 わたしは彼らにとっては、単なる観客の一人にすぎないのに……
(わたしは、何を期待していたんだろう?)
 夜の街……かつてリョウに送ってもらった駅への道を、わたしは走った。
(馬鹿だ……)
(わたしは、馬鹿……)
 わたしが思っていたのは、ただそれだけだった。



 9月になり二学期が始まった。
 あれ以来、わたしは一度も彼らとは会わなかった。しばらくは学校が終わって駅を通るたびに、ティッシュを配る彼らに出くわすのではないかとはらはらしたが、どうやら彼らは別の仕事を始めたのか、もうそこに姿を見せることはなかった。
 わたしは、ほっとしたような、がっかりしたような、なんだかあやふやな気分だったが、時がたつにつれて、しだいに彼らがいないことへの違和感は薄れていった。
 まるで何かから逃れるように、わたしはひたすら勉強に励んだ。
 わたしはまた試験で一番をとり、生徒会副委員として壇上で真面目ぶった演説をし、何もかもつまらないと思いながら英語の教科書を高らかに朗読した。ようするに、わたしは、へんくつで、ひねくれものの、ただの女子高生だった。それは以前と何も変わらないわたしの姿。それまでと同じ生活……何も起きない日々だった。
(これでいいんだ……)
(これで……)
 わたしはそう自分に言い聞かせた。
 受験勉強はくだらない。しかしそれでも、わたしには他に何もするべきことはないのだ。縛られた時間に身をおくことは、息苦しくはあるが、それはそれで楽なものだ。学校という名の檻に拘束されることで、我々は社会というより大きな檻に適応できるように、飼い馴らされる。そこには本当の自由はないが、与えられた目的を目指して日々を生きることはとても安心できる。
 そう、わたしたちの求める日常とは、安心という薄い殻に包まれた中での適度な刺激と娯楽、そして決して絶望的ではない程度の悲しみとささやかな歓び、それの繰り返しなのだ。そしてそれらの安心とは、時に生活上の安心であり、時に金銭上の安心であり、そして、拘束された時間に属することの安心でもあるのだ。
 もし学校がなかったら、わたしたちはどのように日々を過ごせばいいのだろう。大学がなかったら、あるいは会社がなかったら、わたしたちは何を目指して勉強をすればいいのだろう。
 そうなのだ。これらの拘束は、わたしたちがうまくレールに乗り、そこそこの努力をすればスムーズに通過できるように作られたシステムであり、いうなれば線路の先に見える駅であり、それは手近な目的地なのだ。安全にレールの上を歩いていれば、決してはぐれることはなく、いずれはどこかしらの駅にたどり着き、相応の安心を得ることができる。それはつまらないかもしれないけど、確かで安定した道だ。
 ただ、彼らは……、彼らは、それを選ばなかった。ただそれだけのことなのだ。
 与えられた範囲の自由、与えられた目的には満足できずに、レールを離れ、あえて歩きずらい荒野を選んだ。それは端から見れば勇ましく、自由な生き方に見えるだろう。だが、それはつまり、安心を得るための補償を捨て去り、社会人であるという実生活上のステータスと、自分の場所としての帰るべき巣を持たないということだ。
 以前にわたしが感じた、彼らのもつ根源的な他との違いは、まさにそれだったのだ。髪が長かったり、ピアスをしたり、駅前でティッシュを配ったりする連中はたくさんいる。しかし、そうした表面的な部分は同じでも、彼らはその外見のみならず、他とは異なる空気を身につけている。彼らのもつ空気……私達を不安にさせるような、安定の無さ……非日常。そこにある、どこかしら切羽詰まったような張り詰めた鋭さ。明らかに私達とは違うもの。
 レールの上から見る私達には、そうした彼らの姿は楽しげで、とても自由に映る。彼らもかつてはこちらにいたということになど、もう私たちは気付きはしない。この社会の拘束たちに、私たちも疑問を持つことはあるけれど、自分が彼らのように安定を捨て去る生き方に身をやつすことができるとは思えない。彼らは特別であり、異端のはみだしものなのだと、そう考える。
 しかし、彼らにしても、生まれつき特別であったわけではなく、もしかしたらわたしたちと同じように苦しみ、悩みながら日々を過ごし、そしてあるときついに、その道を選ぶ決意をしたのではないだろうか。
 彼らと私たちを隔てているのは、実はたったそれだけのことなのかもしれない。たったそれだけ……でもそれは、私たちにとっては、そしてわたしにとっては、とても難しいこと……
 私は、高校三年の受験生。わたしは生徒会委員で、真面目で優秀な生徒で、誰もにそう思われている。きっとわたし自身以外には。
 わたしは常日頃、学校や受験勉強に退屈さやつまらなさを感じているが、しかし、もしも学校や大学がなかったら、わたしは何をするというのだろう。拘束された時間はたしかに苦痛ではあるが、それを自分が望んでいないとはっきり言えるだけのものが私にはない。わたしには与えられたものではない、自分自身の目標などはない。だから、わたしには縛られた時間から抜け出す資格はないのだ。
 そして、彼らと共に時間を過ごす資格も……。
 レールの上を歩きながら次の駅を目指す、とても安定した人生。目的地はすでに定まっている。いい大学、いい会社、いい家庭……あとは流れに沿って歩いていけばいい。いい社会人になること、いい家庭人になること。
 それがこの社会においての、安心と補償とを得ることなのだから。
 おそらくは、わたしの両親もそれを望んでいるはずだ。わたしが良い大学生になること、良いOLになること、そして良い家庭の母になることを。
 時の流れは速く、10年はあっという間に過ぎるだろう。わたしは年をとり、温かい家庭という最後の檻のなかで、あの時にとった自分の選択が正しかったことを、TVに映る長髪のロッカーのくたびれたジーンズを目にする度に感じるのだろう。
 それでいいのだ……それがわたしの人生。
 安定という名の切符を買い、次の駅まで安心していられる確かな線路。窓の外の荒野は別の世界だ。
 ステージ上で狂気に微笑み、長髪を振り乱す、あの鋭い眼差しも、狭い楽屋に響いていた、やわらかなギター音色も、わたしの生活にはかけ離れたもの。
 すでにそれらは遠く、レールの上からは見えないほどに遠く、わたしにとって、それらは一時の夢であったかのように……今はそう感じられた。
 私は勉強にうちこんだ。学校でも、家でも、予備校でも。
 何もかもを……彼らの生き方に感じた憧れや、ひげのギタリストのやさしい笑顔や、わたし自身の思い……
 その何もかもを忘れるように……


 キーンコーン カーンコーン
 いつものように終業のチャイムが鳴る。
 いつものように席を立ち、重いカバンを手に靴を履く。予備校へ行く前に、図書館で予習をしなくてはならない。
「朝美、今日もヨビコー?」
 奈津子がまたいつものように訊いた。
「うん」
「このごろの朝美すごいよねぇ」
「そう?」
「うん。なんか一心不乱ってカンジ。授業中もコワイ顔して黒板睨んでるし」
「まあ、もうすぐ冬だし。受験生だし」
(わたしには、他にはなにも出来ないし)
 わたしはその言葉をのみ込んだ。
「さ、帰ろ」
 10月の風は涼しくわたしの頬を撫で、校内の銀杏は黄色い葉を落としはじめる。勉強の秋、読書の秋、食欲の秋……人々が秋に見るイメージは、そうした心の平穏や思索の欲求に結びついているのだろう。落ちてゆく木の葉を見ながら、私たちは、自分のこれからについて真剣に考え、思い悩み、そして次に木々が緑の芽を出すまでに、解答を見つけられることを願うのだろう。
 教科書や参考書のぎっしりと詰まったカバンを両手で持ちながら、わたしは秋の中を歩いている。手にした重みは、そのままわたしをそこに引き止めるための錨であるかのようだ。
(これが、わたしの現実……)
 わたしの思いは、だが不意にさえぎられた。
「朝美」
 立ち止まった奈津子が、奇妙な目つきで私の方を見ていた。
「どうしたの?」
 わたしもつられて立ち止まる。
「ほら、校門のところ……」
 奈津子が指をさした。
 わたしはそれほど目がいい方ではない。けれど、奈津子が指さす校門の前に、誰かが立っているのが分かった。 
 わたしの胸が、一瞬どきんと音をたてる。
「朝美?」
「……い、こう」
 歩き出したわたしの、カバンを持つ手がかすかに震えた。
 校門に近づくにつれ、そこに立っている姿が、わたしの視界に大きくなってゆく。
 ふわりと、長い髪がなびく。
「……」
 彼がわたしを見ていた。
 わたしも彼を見た。
 一瞬わたしたちの目が合った。が、わたしはすぐに目をそらした。
 まっすぐにわたしを見るそのまなざしは、いまはわたしにはつらすぎる。その目を見つめ返す勇気も、その資格も、私にはなかった。
 わたしは顔を伏せ、校門を出ようと歩いていった。
 だが、冷静になれという命令とは反対に、わたしの心臓は高鳴り、カバンを握る手が汗ばんでしまう。
 顔をあげられないままで、わたしは門にさしかかり、彼とすれ違った。
 目の前に、彼の手が差し出された。
 思わず立ち止まる……私。
「スペシャルなティッシュ……、受け取ってくれるか?」
 彼の言葉に、わたしはおずおずと顔を上げた。
 わたしを見つめるまっすぐな目。長い黒髪と伸びたあごひげ。前とちっとも変わらない姿で、リョウがそこにいた。
「ティッシュ配りのバイトはもう終わったけど、配り忘れた相手が一人いたことを思い出してな」
 彼はそう言ってにやっと笑った。
「……」
 何を言えばいいのか分からない。心臓が爆発しそうだ。
 わたしはまた下を向いた。勇気がないのだ。
「わ……」
 リョウの顔を見ないようにして、何とか口をひらく。
「わたしは、もう……」
「“エメスラ”の最後のライブ……」
 その言葉に、わたしはつい顔を上げた。
「えっ?」
 リョウの目がわたしをとらえる。 今度は、視線を外せない。
 わたしは石のように動けなくなった。
(吸い込まれそう……)
 長い髪を風に揺らせて、わたしの前に立つ黒い影。わたしの日常を、まったく別のものに変えてしまうもの。学校の校門が、いつもの駅が……一瞬にして、なにか異なる空間に変貌する。
 ライブのステージが、それを見る者に強く非日常を感じさせるのは、おそらくそこに立つ人間のまとう、強い意思にも似たある種の空気のせいなのかもしれない。
「最後のライブ……」
 リョウの声が耳に響く。
 わたしは彼の言葉を待っていた。
「あんたに……」
 ドクンと心臓が波打つ。
 わたしは、何を……待っているのだろう? 
 振り下ろされる刃?
 それとも……
 わたしの日常を破る……その言葉。 
 「あんたに、来て欲しい」
 ティッシュの中のチケットを破り捨てていれば、わたしはまだ戻れたのかもしれない。
 わたしは腹が立った。
 涙が出た。そして無性に悔しかった。
 こんなにもあの……ひげづらのギタリストが、わたしの中で大きくなっていたなんて。
 こんなにもあいつが……好きだったなんて……。
 それに気づいてしまった自分
 彼の言葉を待ちながら、その瞳を覗き込んでいた自分
 今、こうして涙を流す自分に……
 わたしは、腹が立った。
 そして……このライブに行くだろうことが、もう分かっている自分に



 一週間後、わたしは赤や青のライトと人々のひしめき合う、狭く息苦しく、やかましい空間にいた。これで最後にしよう。これが最後なんだと、そう思いながら。
 今夜のライブはいつにも増してお客の入りがよく、そう広くもない地下の一室は、立ったまま動けないほどの盛況ぶりだった。
 “エメスラ”の人気は、実際この何ヵ月かのうちに急上昇しているようだった。また、彼ら自身も確かにそれ相応の成長を遂げていた。ただ速くてハードだった今までとは異なり、ステージ上での余裕のようなものが、彼らの音の一つ一つに説得力を付加していた。
 以前はほとんど自己満足的だった演奏も、今では曲をしっかりと聴かせることにもこだわりだしたようで、時には繊細にメロディを弾き、時には力強くハードにたたみかけ、そのアンサンブルにはバンドとしての強い一体感を感じさせた。
 一曲一曲が、強く、美しく、激しく、そして「確か」だった。
 これまでなら、彼らの演奏でただ首を振り、暴れるだけだった観客も、今では音に耳を傾けはじめ、体を動かしながらも、その演奏を噛みしめるようにして聴いている。フロアを埋めつくすほどの聴衆たちは、曲の間はほとんどが無駄に声を上げることはせず、耳を澄ましているようだった。
 それはとても不思議な空気だった。決して白けているのでない、いうなれば、熱気と静寂と興奮と緊張が同時に存在するかのような、それはそんな空気だった。
 その熱い静けさの中で、彼らの「音」が響きわたる。それは、妙にわたしにある場面を思い起こさせた。
 かつてわたしが聴いたあのメロディ……。静かな狭い部屋で、彼がやわらかに紡ぎだしていたあの音。あの不思議な空間を……
 いつの間にか、早くもライブは終盤にさしかかっていた。
 曲が終わるごとに、それまで静まり返って聴いていた観客から、拍手や口笛や喝采が上がる。かれらが本気で音楽を楽しんでいたという証のように。ステージの上のメンバーたちもそれに笑顔で応える。そこには実際の会話はないけれど、本当の心のコミュニケーションが存在するかのようだ。
 何て素敵な空間だろう。気ここでは取りもてらいも必要ない。音楽とは、演奏する者とそれを聴く者がいて、はじめて成り立つものなのだと納得できるような、そんな空間にわたしはいた。
 自分が自然に頭を振り、体を揺らせているのをわたしは知った。それは、轟音の中でもうろうとしながら、彼らの音に押しつぶされそうになっていたあの時とは違い、自分の身体がリズムの上に乗り、一緒になって躍動しているような、そんな心地のよい感覚だった。
 おそらくは、ここにいる観客の全てがそのように感じていたのだろう。ステージ上で気持ち良さそうに演奏するメンバーたちも含めて、この空間にいる全ての人間がロックという目には見えないが確かに感じられるものにつながれて、不思議な一体感に包まれていた。
 そうして時間は過ぎていった。退屈な学校の授業に比べて、10倍くらいの楽しさで。
 何度目かの拍手のあと、わたしがリョウの言う「最後のライブ」という言葉を忘れかけていたころ……

「えー、今日はオレたちエメラルド・スラッシュのラストライブに来てくれて、どーもありがとー」
 マイクを持ったリアンが、ステージの真ん中に立ち話しだした。
「えー、何でやめんだよー!」
「これがラストなんてウソだろー?」
「やめんなよー!」
 客席からは次々に不満の声が上がり、満員のフロアは騒然とした空気に包まれた。
「どーもどーも。ありがとーう!」
 観客に向かってリアンが手を振る。
「ああ、これほどのファンに愛されていながら、このバンドに幕を閉じなくてはならないことを、オレは今痛切に悲しみ……いてっ」
 大仰なポーズを作って語りだそうとしたリアンを、ベースを下げた三好さんが横から小突いた。
「んーだよ、いてーなァ。ヒトがせっかくファンと一緒にこの悲しみを分かち合ってるってーのに」
「ダホ!よけいなこと言ってないで、とっとと肝心なことを言えっての」       
「ちぇっ、わーったよ」
 客席に笑いが起こる。それから、いくぶん真面目な顔をしたリアンがあらたまってマイクに向かった。
「えーとね……今日は、知ってのとおりエメスラとしてのラストライブなワケですが……」
 男としては高いリアンの声が、静まったフロアに大きく響きわたる。
「実は……オレたちは、今後バンド名を変えて新たなスタートをきることにしたのです!」
 ざわめき始める客席。そこにいるわたしも、驚きながらその言葉を聞いた。
(それじゃあ、最後っていうのは……)
 ざわめきが、少しずつ期待のこもった歓声へと変わってゆく。
「では、ラストの曲。この曲がオレたちの新しいバンド名になります」
 リアンは、ステージ右側に立つリョウを指さした。
 スポットライトがリョウを照らす。一瞬だけ、彼がわたしの方を見た気がした。
「ヴァールハイト」
 ゆっくりとマイクに向かい曲名を告げるリョウ。目を閉じた彼が静かにギターを弾きはじめたとき
(あ……)
 わたしは叫び出しそうになった。
 薄暗くなったステージで一人、ギターをつまびく彼。ゆったりとしたやさしい音がフロアに響き出した。
 あの曲だ。
 あの時……わたしを起こした、なつかしいメロディ。
 撫でるように弦を押さえる彼の長い指。狭い楽屋に響いていた静かなギターの音。
 音に包みこまれて、一体になったようなひととき……わたしの横にいたのは目を閉じているひげのギタリスト。
 わたしの頭に、音を介してあの時の光景がよみがえり、そして、目の前のステージにいる今の彼とぴったりと重なった。
 白いライトに浮かび上がるリョウの姿は、あの時と何も変わらない。ただ違うのは、大勢の人がそれを見ていて、その音を聴いているということだけだ。そうだ、わたしがかつてそう望んだように。
 ゆったりとイントロを弾き終えると、リョウは目を開き、わたしの方に軽くウインクした。
 そのとたん、ドラムとベースがリョウのギターにかぶさるようになめらかに滑り込んだ。ステージにはまぶしいライトが照らされ、リアンが歌いだす。
(ああ……)
 鳥肌が立つような感覚に、わたしは体を震わせた。
 あの時の、なつかしくて、やさしいメロディ。リョウのギターだけだったメロディが、そのままバンドの音となって、命が吹き込まれたのだ。
 わたしは知らず両手を握りしめていた。
 緑川さんのドラムは心地よいリズムをキープし続け、三好さんのベースがそれ厚みを加えてゆく。リアンの高い声が伸びやかにビートの上にかぶさり、曲が「歌」へと変わる。
 そしてリョウは……
 リョウはあの時と同じに、優しく、自然にギターを弾いている。とても楽しそうに。バンドでいること、ギターを弾くことを、心底楽しんでいるように……
 そうだ……。そんな彼を見るのがわたしは好きだったのだ。
 わたしが好きなのは、彼のその自然な姿。自然な微笑み、自然な言葉。そのぶっきらぼうな物言いも、照れたように尖らせる口元も、黙ってわたしを見るときのその黒い瞳も、みんなわたしは好きだった。もちろんギターを弾くときの彼の長い指も!
 メロディは流れるようにしてわたしの耳に入り込み、わたしの記憶にある映像や言葉たちを浮かび上がらせて、また沈めてゆく。
 わたしの言葉、リョウの言葉、誰かの言葉……
 言葉は流れてゆき、そうして時も流れてゆく……。
 わたしは自分が泣いているのに気付いた。
 それは何に対してでもない、音楽がわたしの目に入って涙を流させたのだと、わたしは自分に囁いた。

 曲は再びイントロのメロディに戻り、リョウのつまびくやわらかなメロディの余韻を残して、静かに終わりを告げた。
 曲が終わっても客席は静まり返っていた。
「なんか、今までと違うよな……」
「“エメスラ”って感じじゃないぜ」
「メタルじゃないよなぁ、コレって……」
 ざわざわと、満員の聴衆からざわめきが上がりはじめる。
 その中で、わたしは手を叩いた。
 彼らのステージに。彼らの曲の素敵さに、ただ素直に手を叩いた。
 パチパチパチ
 わたしの周りの人達も、ひかえめに手を叩き始める。
「でも、いいぞ!」
「こんないい曲があったのかよ!」
 やがて何人もの人が手を叩きはじめた。すぐに、それは波のようにフロアじゅうにゆきわたり……
 そして、一気に会場全体が爆発した。
 ワーッという大歓声が、この狭いライブハウスを揺るがした。
 拍手と喝采、口笛と悲鳴が響いた。
「ヴァールハイト!」
「良かったぞーっ!」
「リアンー!」
「うおー」
「きゃー」
「イカすぜてめえらー!」
「リョウー!」
「リアンー!」
 ステージで嬉しそうに手を振るメンバー達……高々とベースをかざす三好さん。スティックを投げる緑川さん。ジャンプするリアン。そして、ちょっぴり照れながら片手を上げるリョウ。
 歓声は止まない。
 わたしも拍手する手を止めない。
「アンコール!」
 誰かが叫んだ。
「アンコール!」
「アンコール!」
 それはすぐにフロア中に飛び火し、一つの大きな合唱となった。
「アンコール!」
「アンコール!」
「アンコール!」
 会場の全ての人が一緒に叫ぶ。わたしも叫ぶ。
 手拍子、そして大きな合唱。
 空気を震わせる声、声、声。
 それらはいつまでもいつまでも止むことがなく、この小さなライブハウスにこだましつづけるかのようだった。
 ライトと歓声に包まれるエメラルド・スラッシュ……いや、ヴァールハイトのメンバー達が、ステージの上でとても、とても大きく見えた。



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