バスドラハート 4



 ……メロディが聞こえる。
 なんだかなつかしいような、むかし、どこかで聞いたような……
 そんなメロディが、聞こえる。
(これは、まだ夢なのかしら?)
 ゆったりと、心地よくつまびかれる音……
 子供のころによく口ずさんだような、とてもなつかしくて、悲しくて、そしてやさしいメロディ……
(綺麗な曲……)
 頭の中で、しだいに、それがはっきりとした音になってゆき、
 わたしは目を開けた。
(ここは、どこ?)
 自分の部屋かと思ったが、そうでいないらしい。ゆっくりと首を動かしてみる。
 天井があって、壁があって……見覚えのない、狭い部屋だ。
 ギターの音色が、部屋の中で静かに響いていた。
(この音……夢じゃ、なかった)
 ふと見ると、わたしの寝かされたソファのすぐ横で、「彼」がギターを弾いていた。
 わたしが体を起こすと、彼が指を止めてこちらを見た。
「ああ、気が付いた?」
「お願い。続けて……下さい。その曲を……」
 わたしは思わずそう言っていた。
「……」
 彼はふと不思議そうな顔でわたしを見たが、それからまた弦をつまびき始めた。
 狭い部屋の中に、再びやわらかなメロディが響きだす。
(長くて、綺麗な指……)
 わたしは彼の指の動きに見とれていた。ゆったりと弦を押さえる長くしなやかな指。
 この部屋にいるわたしと彼の二人だけが、このギターの静かな音色に包まれている。不思議とそれは、わたしをとても落ちつかせてくれるようだった。
(綺麗な曲……)
(やさしくて……切なくなるようなメロディ……)
 わたしの頭の中で、だんだんとはっきりした映像が浮かんでくる。
(そうだ、わたしはライブを見ていて……)
(なにか変な気分になって……それで……)
 強烈な赤いライト。バスドラムと合わさる自分の心臓の鼓動……そして、刃物のように鋭いギターの音。
 狂ったように髪を振り乱して、悪魔のような目でわたしを睨んでいたのは……
 目の前で優しい音色を奏でる彼が、まさか本当に?
「あ……あの、」
 わたしが何か言おうとするより早く、ガチャッとドアが開いた。
「朝美!」
「あ……奈津子?」
「あーん、朝美ィー!よかったぁ」
 泣きそうな顔をして、奈津子はわたしに抱きついてきた。
「えーと……どうしたの?」
 そう訊いたわたしは、ひどく間抜けな顔をしていたことだろう。
「どうって、覚えてないの?朝美ってば。いきなりばったり倒れちゃって、もう大騒ぎよ!あたしなんか、超心配しちゃって、もう朝美死んじゃうんじゃないかって」
「大げさだなあ」
 わたしは苦笑した。
 でも、確かにステージ前でいきなり倒れたら、皆びっくり仰天するだろう。冷静に思い出すと、いまさらに赤面する思いだった。
「それで急いで楽屋に運んで、寝かせてさ、ライブハウスの人とかに言って、お医者さん呼んだほうがいいかなとか、朝美の家に電話した方がいいかなとか……」
「ちょ、ちょっと……」
「でもまあ、とにかくしばらく様子を見ようってことで、ライブ終わってからも部屋に居させてもらえるようにして……とにかく大変だったんだからァ」
「ま、まさかホントにうちに電話したりは……」
「しないよぅ。だって、朝美のお母さんに『朝美がライブハウスで倒れました』なんて言ったら、ただじゃ済みそうにないもんね」
「そう……」
 それを聞いてわたしはほっとした。たしかにそんなことになったら、帰ってからの大目玉はもちろん、しばらくの外出禁止令くらいは出そうなところだ。
「えー、おほん」
 咳払いに気付いて顔を上げると、ギターの彼の横に、他のメンバー二人が立っていた。二人とも見覚えがある。この前駅で会った人達だ。
「あー、いやその、何といったらいいか。この度はまことに……」
 頭を掻きながらすまなそうにしているのは、わたしたちにティッシュをくれた、リーダーの人……ええと、確か三好さんだっけ。
「何あらたまってんだよ。結婚式の司会者みてえに」
「うるさいぞリョウ」
 ギターを手に椅子に座っている彼が、ふんと鼻をならす。
「えーとつまり、俺らの音楽聞いて気分を悪くされたってことで、我々としてはホントに……」
(リョウ……)
 わたしは、その名を心の中でつぶやいた。そしてまじまじと、目の前の、長髪にヒゲをはやしたギタリストの姿を見た。
「……」
 これが本当にステージでわたしを睨み、凄絶な微笑みをもらしたあの「轟音」のギタリストと同じ人なのだろうかと思うほど、今の彼は落ち着いて、おだやかな様子をしていた。おそらく、彼のことも駅で見たはずなのだが、あまり覚えていない。いや、たとえ覚えていたとしても、あの凄まじいライブでの表情からでは、想像もつかなかったに違いないが。
「申し訳ない。御免なさい。面目無い」
 わたしははっとして、申し訳なさそうな顔で頭を下げる三好さんを見た。
「そ、そんな……。悪いのはわたしの方で……勝手に一人で倒れたりして、迷惑かけちゃって……」
 わたしはいそいで寝ていたソファから立ち上がろうとした。だが、まだ身体がふらふらとしていた。
「あっ、」
 よろけそうになるわたしを、誰かが支えてくれた。
「大丈夫か」
 優しい声……目の前に彼の顔があった。わたしを腕で抱きとめてくれたのはギターの彼……リョウだった。
「はっ、はい。どうもすいません。わたし、本当に……」
 うろたえるわたしを見て、彼はくすりと笑った。
 なんて自然な笑顔だろう。ライブで見せたあの恐ろしい笑いとは全然違う。
「おいリョウ、いつまで彼女抱いてんだよ」
「うるせーな」
「あっ、す、すいません、もう大丈夫です」
 わたしは顔を赤くしながら、ぱっと彼から離れた。
「だいじょーぶ?朝美」
「うん、もう平気」
 奈津子にうなずきかけながら、わたしの胸はまだどきどきとしていた。
「そーいや、リアンの奴はどうした?」
「先に行って、打ち上げの店予約してるそうです」
「そっか、んじゃどーする?コウ」
「よし、ではとりあえず、だ」
 三好さんが重々しく口をひらいた。さすがにリーダーというだけあって、他のメンバーも黙って耳を傾ける様子だった。
「彼女が倒れたことに関して、オレたちにも少なからず責任がある。なんせ勝手にライブのチケットを渡したんだからな。ここではい、さいならー……というワケにもいくまい、道義上。そうだろ」
「ええ。ロッカーなるものは、基本的にパトスによって支配される。ただしある熱情の時間が過ぎれば、エトスを取り戻し、実際的なモラルもそこには存在しうる。……僕の持論ですがね」
 ドラムの緑川さんは静かにそう語つた。顔を見合わせたわたしと奈津子を横目に、三好さんはえへんと咳払いをした。
「まあ、それはいいとして、とにかく……リョウ」
「ああ?」
「お前、彼女を駅まで送れ」
「俺が?何で」
「ああ、まあオレは一応、バンマスとして打ち上げに出なきゃならんし、乾杯の音頭とかさ、やっぱその、いろいろとあるだろう。とうせいの方は会計係だからな、ライブ後の集計や飲みの費用の分割とか、こっちもやることが多いし……」
「で、やることのない俺におはちが来た、と?」
「ああ、お前最近、酒やめたいっていってたろ?いい機会だからそれ実行してみろよ」
「どーいう理屈だ、ったく」
「あ、あの」
 わたしは、ことの成り行きがどうも妙な方行に進んでゆくことに気付いて、彼らの会話に割って入った。
「わ、わたし、大丈夫です。一人で帰れます。奈津子もいるし」
「あれ、でもこっちのお友達は打ち上げに行きたいって……」
「えっ?」
 三好さんの言葉に、わたしは奈津子を振り返った。
「ご、ごめーん、朝美ィ」
 そう言って、奈津子はわたしの耳元に囁いた。
「どーしてもリアンに会いたいの。お願いっ」
 両手を合わせて舌を出す奈津子。この裏切り者ー……。
「それに、このへんけっこうガラ悪いからね。特に女の子一人で夜歩くのは……」
「で、でも……」
「まっ、そーいうワケだ。頼むぜリョウ。せっかく俺達のライブに来てくれたお客さんなんだから、丁重にな」
「わーったよ」
長い黒髪をかきあげて、ぶっきらぼうに彼はそう答えた。

 夜の繁華街。けばけばしい色の看板たちや、怪しげな店店の連なる猥雑な道を、わたしと彼は歩いていた。
 確かに三好さんの言うとおり、来るときにはさほど感じなかったが、10時を過ぎようかという今時分になると、どうもその手の店が活発になるらしく、周辺の通りはいかがわしい客引きや柄の悪そうな通行人などでとてもにぎわっている。わたしは内心で、制服のまま来なくてよかったと考えた。
「ああ、そういや」
 わたしの前を歩いていた彼が振り返った。
「まだ名前聞いてなかったな」
「あ、わたし鮎乃朝美です」
「山岸涼二、リョウだ」
(リョウ……)
 その呼び方は、なんだか彼にとても似合っている。
「あの……、えーと、山岸さんは」
「リョウでいいよ。苗字だと逆にテレる」
「じゃあ……リョウさんは、もうバンドは長いんですか?」
 口に出して言ってから、つまらないことを聞いたなと、わたしは後悔した。歩きながらも、何かを言わなくてはと思ったのだ。
「んー、あんま考えたことねえけど。……5、6年くらいかな」
「そんなに前からあったんですか?このバンド」
「ああ、いや、今のエメスラはまだ2年くらいだな。それまでもいろんなバンドでやってきたから……」
「そうなんですか」
「ああ」
 彼はわたしの横に並んで歩きだした。
「そういや、あんた」
「え?」
「こないだ見たよな、駅で」
「あ、ええ。三好さんにティッシュもらった時に……」
「ああ、あの時は制服だったんでぜんぜん気付かんかった。そうか、高校生?」
「はあ……」
「悪かったな」
「え?」
「いや、無理やりチケット渡してライブ来させたみたいで。リアンの奴がティッシュにチケットなんて、くだらねえこと考えっから」
「いえ……」
 わたしは、なんだかとても奇妙な気分だった。
 今日の昼間は学校の終業式だった。校長のつまらない長話と生活指導部のお決まりの生徒心得、生徒会委員のわたしは、体育館の壇上の席に座り、真面目な顔をして先生たちの話を聞いていた。まさか、そんなわたしが数時間後には、ハードロックのライブに出かけ、しかも、その帰り道でメンバーの一人と歩きながら話をしているなんて、いったい誰が考えるだろう。先生たちも、クラスのみんなも、わたしの両親も、きっとみんな、さぞ仰天することだろう。わたし自身ですら考えもしなかったことだ。
 人通りの少ない裏道にさしかかったとき、横を歩く彼がポツリと口をひらいた。
「学校……」
「えっ?」
「学校って、面白いか?」
 わたしは一瞬、彼が何を聞きたいのかが分からずに戸惑った。
「分からない……」
 わたしはそう答えた。
「そうか」
 彼は前を向いたまま、つぶやくように言った。
「俺は嫌いだった」
 わたしは何も言えずにいた。彼がどんな答えを期待していたのか、分からなかったのだ。
 それからわたしたちは、なんとなく気まずい空気のままで、駅への道を歩いていった。
「あ、もうこのへんでいいです」
 通りの先に駅が見えてきたところで、わたしはそうきりだした。
「あの……送ってもらってありがとうございました」
「ああ、それじゃ、気をつけてな」
 くるりと向こうを向いて、歩きだそうとする彼の姿を見て、
「あ……あの!」
 わたしは何を思ったのだろう。 長髪を揺らせる背中に向かって声を上げていた。
 立ち止まった彼が振り向いた。
「ん?」
「あ、あの……」
 彼とわたしの目が合った。かあっと体が熱くなるような気がした。
「曲……」
 わたしは必死に、さっきからずっと考えていたことを、なんとか言葉にしようとした。
「あの、さっき、わたしが眠っていた時に弾いてた……」
「ああ」
「あれ……なんて曲ですか?」
 わたしは顔を真っ赤にしながら、なんとか声をふりしぼった。知らないうちに、両手を胸の前でぎゅっと握りしめていた。
「あれはまだ、名前ないんだけど」
「わ、わたし、あの曲……好きです」
「そりゃ、どうも……」
 彼はすこし驚いたような顔でわたしを見ていた。
「……」
 顔を引きつらせたわたしと、長髪にひげのバンドマン。夜の駅前で、向き合って突っ立っているわたしたちを、通りがかる人達が振り返ってゆく。
「ど、どうして……」
 わたしは自分の声が震えているのを聞いた。
「どうして、ああいう曲をライブでやらないんですか?」
「どうしてってな……」
「あんなに、綺麗な曲なのに。やさしいメロディの、口ずさみたくなるような、とってもステキな曲なのに……もったいないな、って思いました。勝手なこと言ってすいません。でもなんとなく、ライブでの演奏のときよりも、楽屋であの曲を弾いていた時の方が、自然な感じがして。なつかしいメロディ、やさしくて悲しいような、切ないような……心に染みてくる、っていうんですか?なんか、そんな感じがして……」
 いったん言葉を口に出してしまうと、わたしは恥ずかしさも忘れていた。
「目を開けると、横にあなたが座ってギターを弾いていて、わたし、思わず見とれてました。ゆったりと弦を押さえる指や、やさしくつまびくように弾く姿が、なんていうか……とっても自然で。驚いたんです。その人が、さっきステージでギターを弾いていたのと同じ人だと分かったとき」
「……」
 彼は無言だった。きっとわたしの言葉に呆気にとられているのだろう。だが、もういい。かまうものか。心の中から沸き起こってくるものが、次々に溢れ出てとまらないのだ。
「こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、ライブでのあ、あなたは、なんだかとても怖かった。わざと無理して激しくギターを弾いてるような、あの目とか……笑いも、なんだかとても不自然な気がして……」
 わたしは、いったい何を言っているのだろう?
 今日会ったばかりの、よく知りもしないバンドマンに向かって。いったい何が、わたしをこんなにもかりたてるのだろう。わたしには、そんなこと関係がないはずだったのに。
「音楽を演奏しているというより、何かを壊そうとでもしているみたいで。本当に勝手なことを言って、ごめんなさい。でも、わたしびっくりしたんです。その後わたしの横で、あんなやさしくギターを弾くあなたを見て」
 わたしの心の言葉はとまらなかった。なんだか、体中が熱くて、泣きたいくらいに恥ずかしいのに、
「ああこれは本当のものだって感じがして。なんていうか、なんだか、ああ……無理して作らなくてもいいんだ。自然のままでいいんだ、とか思ったら、わたし……なんか嬉しくなって……」
 こんなに思ったことを一生懸命に人に話したのは、いつ以来だったろうか。
「あんなステキな曲をライブで聞きたいな。みんなに聞かせたいな、とか、いろいろなことを勝手なことを思っちゃって……」
「あ……あんた」
 わたしは本当に気付かなかった。自分が涙を流していたなんて。
「あれ……」
 自分で頬を触ってみてから、わたしはようやくそれに気付いたのだ。
「何で、こんな」
「……」
 彼が驚いたようにわたしを見ている。
「ご、ごめんなさい」
 わたしは急に恥ずかしくなって、ぺこりと頭を下げた。
「言いたいだけ言っちゃって……わ、わたし帰ります!」
「あ、おい」
 彼がわたしを呼び止めた。
 わたしがおそるおそる振り返ると……
「また……」
 照れくさそうに頭を掻きながら、彼が言ったのだ。
「ライブ来てくれよな」
 わたしは小さくうなずくと、そのまま駅へ向かって走りだした。

 揺れる電車の窓から、町の明かりをながめながら、わたしはいろいろなことを考えていた。
(ああ、恥ずかしいなぁ。どうしてあんなことを言ったんだろ)
(でも、なんだか思ったことが次々に口から出て……)
 どうしてなんだろう。そんなこと今までになかったのに。
(心の中から、まるで言葉が沸きだすようだった……)
 あんな感覚は、学校で先生や友達と話をしているときには感じたことはなかった。もちろん、両親にも。
(なんだろう……)
(わたしには……関係のないことなのに……)
 関係のないこと……そう、本当はそのはずだったのに。
 だが、いくら自分にそう言い聞かせても、彼の顔が頭に浮かぶ。長髪にひげのギタリスト……ステージからわたしを炎の目で睨みつけ、口をつり上げて笑った彼。静かにギターをなでるように、なつかしいメロディを弾いていた彼……そのぶっきらぼうだが飾らない物言い。なにか、わたしをほっとさせるもの。
(おかしいな、わたし……)
(どうして、こんなに気になるんだろう)
 揺れる電車の窓に映った自分を見つめながら、わたしはいつまでも、ふたつの顔をもったそのギタリストのことを思いつづけていた。
 電車が次の駅にとまり、人々がわらわらと乗り込んで来た。わたしは押されながら反対の扉側に移動した。
「あーさーみっ」
 突然、肩に置かれた手に、わたしはびくっとして振り向いた。
「え、えりか」
 電車内に藤村えりかが立っていた。
「偶然だねー、同じ電車に乗るなんて」
「う、うん」
 今の駅から乗ったのだろうか?どうも、この子とはこうしてよくばったり会う。
「あたしね、今バイトの帰りなんだ」
 彼女はにこっと笑った。
「朝美は?買い物かなんか?」
「うん、まあ、ちょっと」
 まさかライブハウスの帰りだとは言えまい。このわたしがだ。
「ふーん」
「な、なに?」
 えりかはわたしをじろじろと見ながら、意外そうに言った。
「うん、朝美でもそーいうカッコするんだって思ってサ」
「んー、まあ……たまには、ね」
 わたしはややぎこちなく、とりつくろうように笑った。
「ふーん。そうなんだぁ」
 な、なんなの?その意味深な反応は……。
「でも……けっこー似合ってるよ」
「あ、そ、そう?……」
 な、なんか疲れる。やっぱりこのコと話すのはちょっと苦手だ。
(あと3駅だな……)
 何を話そうかと、わたしは懸命に考えていた。
「えーと、えりかに借りたノートだけど……その、まだ全部見てないんだ。だから……もうちょっといい?」
「あー、いーよいーよ。そんなの、いつでも」
 さばさばとえりかは言った。
「でも、えりかも勉強があるだろうから……」
「だいじょーぶだって。そんなのいつでもできるし」
「そう?じゃあ、もうちょっと。ありがと」
「……ね、それよりサ」
 えりかはやや意味ありげな目をして、茶色の髪をさらりとかき上げた。
「今度スタジオに来ない?」
「え?」
「ほら、昨日も言ったじゃない。あたしのバンドのこと」
「ああ、うん」
 そういえば、彼女もバンドをやっていたのだったっけ。なんだか、この何日かでいきなりバンドとご縁ができるものだ。
「うちらのバンド、近いうちにはライブとかの予定ないからさ、とりあえずスタジオでのリハくらい見せたいなーって。どう?」
「うーんと……」
 わたしは返答に困った。えりかのバンドというのにも、悪いけどそんなには興味はないのだが。
「あの、わたし……」
「受験生なのはお互いさまだし、いいじゃない一日くらいさ」
「でも……」
「とりあえず、次のリハは今度の金曜なんだ。なんなら駅まで迎えにいくよ」
「……」
 これは困ったことになったぞと、わたしは思った。なにか断る理由はないものか。だが、えりかはうきうきと言った。
「んじゃ、決まりね。5時に迎えに行くから」
「えっ、あ……じゃあ奈津子も誘っていい?」
 とっさにそう言ってしまったが、
 そのとき、わたしは見た。それはごく一瞬だったが、えりかの顔がこわばったようになり、その笑顔がかたまるのを。
「あっ……ダ、ダメかな?」
「……」
 えりかは微妙な表情をして言った。
「そうねえ……でも、スタジオっていってもレンタルだから、入れる人数が決まってるのよね」
「そうなんだ……」
「うん、ごめんね」
 そう言ったえりかの顔には、もう微笑みが戻っていた。
「ううん、わたしこそ……」
(さっきは、なんだったのかしら。わたし、なにか悪いこと言ったのかな?)
「そういえば、小泉さん……」
「えっ?」
「元気にしてる?」
「ああ、うん、元気だよ。そういえば奈津子も言ってたよ、久しぶりにえりかに会いたいなって」
「中学校以来だものね。朝美はたしか同じ高校だったのよね?小泉さんとは」
「うん、そうだけど」
「いいなあ。昔っから仲良かったもんね、二人とも」
「うん、まあ」
「いいなあ……」
 わたしは心の中で、電車が早く駅に着くようにと、そればかりを考えていた。
 


 それからの何日かは、特に何事もなくすぎていった。
 こまかいことを言うのなら、ライブから帰ったあの日の夜、両親から小言を言われたり、奈津子と電話で話したりしたが。ちなみに、奈津子の奴はしっかりあの金髪のヴォーカルのファンになっていた。だが、それ以外にはとりたてて変わったことはなく、わたしはやっぱり受験生であって、いくら夏休みとはいえ、おいそれと出かけるのも気が咎めた。なので、予備校や図書館に行く以外には、めったに電車に乗ることもなかった。
 彼らがまだ、あの駅の前でティシュを配っているのかどうかも知らなかったし、またそれを確かめに行く気にもなれなかった。あの時、リョウとの別れ際に、自分が言ったことを思い出すだけでいまだに気恥ずかしかった。彼はわたしの言葉を聞いて、どう思っただろう。それが気にかからないわけではなかったが、かといって、わたしには一人で彼らに会いに行くだけの勇気はなかった。
 そして、あっと言う間にえりかと約束をした金曜日がやって来た。

「おーい、朝美ー」
 待ち合わせの駅の階段を下りると、えりかはすでにがわたしを待っていた。黒いTシャツにホットパンツにしたジーンズ、長い茶色の髪を背中に垂らして、肩からギターのケースを下げたその姿は、いかにもロッカーといったスタイルだ。
「さっ、行こっか」
「う、うん」
 えりかは、うきうきとした顔でわたしの手を取った。
「晴れて良かったね」
 えりかの笑顔はとても綺麗だった。それは、この前ふと見せたあの険しい表情は、あるいは私の見間違いだったのではないかと思わせるような、とても楽しげな笑顔だった。
「えりかってギターも弾くの?」
「うん、最近習ってんだ。やっぱ曲書くのに必要かなってね」
「へー、ピアノも出来てギターも弾けるなんて、すごいんだ」
「そんなことないって。あたしなんてまだまだよ。自分の思ったとおりの曲を作るには、まだ技術的にも程遠いしね」
「でも、うらやましいな。自分の思いや考えを音にできるって」
「そう、かな……」
「うん、やっぱりすごいと思う。形のないものを音や言葉にして人に聞かせられる、っていうのは」
「……」
 えりかは少し照れくさそうにはにかんだ。
「それで、えりかたちはどんな曲をつくってるの?」
「んー、まあそんな大したモンじゃないんだけどね。けっこうヘヴィな……ハードロックってやつかな」
「ふーん。……ね、そのギターちょっとさわらせて」
「ダーメ」
「なんでよぅ、いいじゃない少しくらい」
「ダメだもーん。これはね……」
 えりかはぺろりと舌を出し、背負ったギターケースを大事そうに撫でた。
「これは、あたしの好きな人にもらったものなんだ」
 そう言ったえりかの顔は、どこか誇らしげだった。

 駅の近くの喫茶店にわたしたちは入った。えりかが言うには、ここで他のメンバーと待ち合わせをしてるということだった。
 コーヒーを注文したえりかは、どこかそわそわとした風にわたしと向かい合っていた。無言の時間が過ぎてゆく。わたしが、「他の人はまだ来ないの?」と、そろそろ言おうかとしたころ。コーヒーのカップを撫でながら、えりかが何かもったいつけるように切り出したのは、店に入って20分もたってからだった。
「ねえ、朝美……」
「ん?」
「あの、さ……、朝美は、そのう……」
 もじもじとした様子は、およそいままでの彼女らしくもない。なにかとても言いにくそうにしている。
「何?」
 わたしは首をかしげながらえりかの顔を見つめた。
「うん……あのね」
 なにか思い切ったようにえりかはひとつ息を吐くと、次に思いがけないようなことを言った。
「朝美はサ、たとえば……カッコいいロッカーとかを彼にしたいとか、思う?」
「はあ?」
 わたしは思わず目をまるくしていた。
「なに、それ?」
「う、うん、だから、さ……、たとえばよ、どこかのバンドのメンバーの一人を好きになるとか……そういうのって、どう思う?」
「え、えーと、わたしはよくわかんないけど……」
 えりかは何を聞きたいのだろうか。わたしの脳裏には、一瞬、ひげをはやした長髪のギタリストの姿がよぎったが、わたしは内心で首を振り、すぐにそれをうち消した。
 そんなわたしの様子をえりかはじっと見つめている。わたしはやや顔を赤くしながら答えた。
「うーん、わたしは別にバンドやってるからとか、そういう理由で彼にしたいとかは思わないけど」
「そう……なの」
「うん。でも、なんでそんなこと聞くの?」
「……べつに」
「そういえばえりかの彼って、バンドやってる人なんだっけ?」
「もう……いいよ」
 自分で聞いたくせに、えりかの声はひどくそっけなかった。
「……?」
 なんだか、わたしは目の前に座っているのがいつものえりかではなく、まったくの別人であるような、そんな奇妙な錯覚を感じ始めていた。
 それからまた、息の詰まるような無言の時間が流れ、
「……ちょっと、電話してくるね」
 そう言ったえりかは、携帯を手に持って立ち上がった。彼女が店の外に出てゆくのを見送り、わたしはほっと息をついた。
 漠然とした違和感のようなものが、わたしをとらえていた。えりかはいったいなんのためにこの店に入ったのだろう。他のメンバーとの待ち合わせというが、それらしい姿は誰一人として見えない。
「……」
 わたしはふと、イスに立てかけてあるえりかのギターケースに目をやった。
(あれ?)
 その黒いギターケースの端っこに貼ってあるステッカーに、わたしは目を止めた。アルファベットで書かれたそれは、どうやらバンドのロゴのようだった。
『エメラルド・スラッシュ』 
 それは、たしかにそう読めた。
(どこかで聞いたような……)
 それが、この前見に行ったあのバンドのことだと気付いたのは、後になってからだった。たとえ気が付いたとしても、このときは単なる偶然としか考えなかったかもしれない。
「朝美ぃ、ゴメンゴメン」
 電話をかけていたえりかが店に戻ってきた。「どうしたの?」とわたしが訊くと、えりかは頭を掻きながら「ごめん」と言った。その顔には、もういつものえりかのあの明朗な笑顔が戻っていた。

 帰りの電車に揺られながら、わたしは釈然としない気持ちの悪さを感じていた。
 それは、目に見えない壁の向こうでなにかがうごめいているような、そんなもやもやとした不安、不快感だった。
 わたしにあやまったときの、えりかの言葉が思い出される。
「ごめん朝美。他のメンバーに聞いたらね、今日はスタジオの予約がとれなかったんだって。ほんとゴメンね、わざわざ来てくれたのにサ。まったく、そーいうことはもっと早く連絡してよねって言ったんだけど。まぁ、スタジオの都合じゃサ、しょーがないし、また今度ちゃんとライブやるときとかは呼ぶからさ、今日はカンベンしてね。あたしこれからそのメンバーん家行って、文句言ってやろうと思うの。まったく、あいつったら、いいかげんなんだから。そういうわけで、また今度ね朝美。ここはあたしが払っとくからね。んじゃ、バイバイ」
 そしてえりかは、ギターを背負い足早に去っていったのだった。残されたわたしは、なに言えずに、ただ呆然として手を振るだけだった。
 どうにも納得がいかなかった。それは、彼女が自分から誘っておきながら、今日になってスタジオの都合云々でリハーサルがダメになったという事実それ自体よりも、むしろ喫茶店でのえりかの態度、そして彼女の話に感じた不自然さに対してだった。
 電車の窓に映る自分の顔を見ながら、わたしは不意に、おかしな考えが浮かんでくるのを感じた。
 彼女は……いったい誰なのだろう。
 その馬鹿げた質問に答えるわたし。
 彼女は藤村えりか。
 わたしの中学時代のクラスメート。
 だが、それ以上の答えは思いつかない。
 それに、わたしには、中学のころの彼女の顔つきや言葉は、もうはっきりと思い出すことが出来ない。
 明るく、はっきりと物を言い、自分のしたいことを追い求めようと頑張っている、茶色の髪をしてギターをかついだ姿……つい最近出会ったそんな彼女の姿が、わたしの知っている藤村えりかのほとんどすべてだった。
 わたしは思った。
 彼女はいったい誰なのだろう。

 しばらく電車に揺られながら、このまま家に帰るつもりもなく、わたしは自分が何処に行くつもりなのかと考えてみた。きっともう、とっくに知っていたのだけれど。
 わたしは、やはりその駅で電車を降りた。
 いつもの駅……いつもの改札。毎朝通っていた駅の風景も、夏休みに来てみると少し感じが違う。
 胸をどきつかせながら、いつもの階段を下りてゆく。行き交う人々の中に、その姿を見つけることを、わたしは密かに期待していたのだろうか。
(いないのかな……)
(しばらくはここで働いてるって言ってたのに……)
 階段を下りたわたしは、かすかな失望とともに、ふだん見慣れた駅前の広場をぐるっと見回した。
 夏休みだけあって、下校する高校生の姿はほとんどみられない。通りを行き交うのは、買い物の主婦たちやおじいさん、それに何人かのカップルやサラリーマンくらい。いつもなら混雑するはずの今時分でも、学生がいないというだけでけっこうさびしくなるものだ。それに……ティッシュを配る長髪の連中も。
 わたしはがっかりした気分で、しばらくそこに立っていた。
(帰ろうかな)
 そう思って、再び階段をを上ろうとした、
 その時だった。
「おい、あんた」
 少し離れたところから声がした。わたしが振り向くと、そこに……リョウが立っていた!
「ああ、やっぱりあんたか」
「あ、……」
 彼はちょうど、駅前にある牛丼屋から出てきたところだった。リョウの姿を見たとたん、わたしはかっと顔が熱くなるのを感じた。
(お、落ちつけ、落ちつけ……)
 自分にそう言い聞かせながら、わたしはぎこちなくならないよう、なんとか笑顔を作り、そちらに歩いていった。
「よう」
「こ、こんにちは」
 すらりと背の高い長髪のリョウ。なんだか会うのはとても久しぶりに思えた。
「あ、あの、わたし、ちょっと通りかかったものだから……」
 なるべく自然に話そうと試みたわたしだったが、見事にしくじった。
「もしかしたらいるかな、とか思って、その……」
(ああ、何を言ってるの!)
「ああ、ライブ以来だな」
「はあ。あ、あの時はどうも……」
 あのライブの帰り道の光景が頭に浮かぶ。あのとき自分が口走った数々の言葉を思い出し、わたしは死ぬほど恥ずかしかった。
「元気?」
「はあ……」
 わたしは彼と目を合わせることもできず、ぎこちなく黙っていた。
「おいリョウ、何やってんだ?」 
 牛丼屋の扉が開いて、他のメンバーたちがどやどやと出てきた。
「あれ、その子、こないだのライブの時の?」
「は、はいっ。鮎乃朝美です」
 わたしはぺこりと頭を下げた。
「そうそう、朝美ちゃん。あの後心配してたんだよ。大丈夫だった?」
「はあ、どうもご迷惑かけまして」
 リーダーでベースの三好さんだ。相変わらずのやわらかな物腰が、わたしをほっとさせる。
「まったく。あとでコイツにどうだったって聞いても『別に……』としか言わないし、まさかこの馬鹿がなんかやらかしたんじゃないかと心配してたんだよ」
「あのなあ」
「まあいーじゃんよ、リョウ」
 憤慨するリョウを、金髪のリアンがなだめる。
「こーして、カノジョの方から会いに来てくれたんだし」
「べつに俺は……」
「彼女に会いたくとも、彼はバイトと牛丼とギターを弾くことでそれに耐えた。それは辛くはあったが、彼はたしかにロッカーだったのだ」
 緑川さんが例の哲学者めいた面持ちでそう言うと、他の二人は笑い転げた。
「とうせい……てめえまで」
 リョウが赤くなるのをわたしははじめて見た。
「……」
 なんとも言えないような安堵感がわたしを包む。くったくのない会話と笑顔。とりつくろう必要のない時間……思わずわたしの顔にも笑顔が浮かぶ。
「ねえ、朝美ちゃん聞いてよ。コイツったらさ」
「あー、コウ、てめえ!」
 三好さんがにやにやと笑いながらわたしに言う。
「あの後、きみを送って戻ってきたらさ……」
「やめろ、よけいなことを!」
「まあまあ、いーじゃんか」
 暴れるリョウをリアンが取り押さえる。
「ポツリと一言」  
 三好さんは真剣な表情をしてみせ……
「オレって、ステージじゃそんな怖いカオなのかな?」
 ギャハハと笑いだす他のメンバー達。思わずわたしもつられてプッと笑ってしまった。
「あんまりマジにそう言うもんだから、オレたちびっくりしちゃってさ、その後で大笑い!いやー、打ち上げの席でそれネタにしてみんなで盛り上がっちゃった」
「人を酒の肴にしやがって」
「ご、ごめんなさい、わたしそんなつもりじゃ」
「いーって、いーって、それでその後さ、こいつ、ここでティッシュ配りながら、きみが来るのをずーっと待ってたんだぜ」
「んーなわけねーだろ」
 照れたように向こうを向いたリョウが、なんだか可愛らしい。
「じゃあ、このズボンのポッケに入ってる次のライブのチケット入りのティッシュは、誰にあげるためかなー?」
「わ、やめろ!リアン」
「ふふん」
「まあ、とりあえず渡してやれよ、リョウ。せっかくだし。オレたちコーヒーでも飲んでくっから。じゃね朝美ちゃん」
 三好さんはそう言うと、他の二人を連れて歩いていった。
「ったく、あいつらときたら……」
「……」
 わたしたちは近くにあるベンチに並んで腰掛けた。そろそろ薄闇がおり始めた街には、街灯の明かりが灯りはじめ、道路を照らしている。
「あ、あの……」
 なんとなくお互いに黙ったまま、しばらく何も言いだせずにいたが、わたしは勇気を出して口を開いた。
「ご、ごめんなさい」
「ああ?」
「その……、この前は勝手なことばかり言って……」
「ああ、別に全然かまわないんだけどさ……」
 Tシャツにジーンズというラフな格好で、足を組んでベンチに座る様子は、なんというか、それだけでとてもサマになっていた。わたしは思わず、彼の長い足や、器用にギターを奏でる細い指を横目で見つめた。
「なんつーか……あんなにはっきり言われたのって初めてでさ」
 リョウは呟くように言った。
「あんた、言ったろ。ライブで演奏している激しいオレは不自然だってさ」
「あ、あれは、その……」
「いーんだって。別に怒ってるワケじゃないしさ……」
 彼はにやりと笑って見せた。
「実を言うと、オレもずっとそう思ってたんだ」
「え?」
「最初のころは、全然そんなこと考えもしなかったけどな。近頃はけっこう……自分で思う時がある。オレはなんでこんなに激しくギターを弾かなきゃならんのだろう、ってな。確かにオレらのやってることは、ハードロック、メタル、なんだろうが、なんつったらいいのか……ライブのステージにいて、見てる奴らもノってて、もちろんオレら自身もノってるんだけど、最近たまにそうやって激しく演奏してる最中に、フッと醒めるときがあるっていうか……。自分でギター弾いてて、何でオレはこんな風に弾いてるんだろう?って思う時があるんだな」
「……」
「これは本当にオレの弾きたいギターなんだろうか?とか、そんなことをふっと考えたりさ。でもそんなこと深く考えてもわかんねえし、客も叫んでるし、オレも頭を振ればすぐに気持ち良くなるから、今まではあんま深く考えずにきたんだな。オレらはメタルバンドなんだから激しいのが当然……みたいな気持ちでさ。だから、あんたが駅前でオレに言ったとき、ちょっとびっくりしてさ。いままで客のノリがよけりゃいーや、でやってきたんだけど、まさか、そうはっきりと『不自然だ』なんていう客がいるとは思わんかったから」
 そう言って、リョウはわたしの方を見た。だが、すぐに照れたようにして視線を外す。
「あー、だから……さ、本当に全然あんたに言われたことに腹立てたりしてないし、むしろはっきり言ってくれて有り難かったくらいで、ようするに……」
 ズボンのポケットからティッシュを取り出し……、
「今度も来てくれよ、ライブ」
 彼はそう言ってわたしにそれを手渡した。
「でも、またタダでもらっちゃ……」
「いーって、どーせ売れ残りだし、それにな……」
 リョウはいたずらそうにニヤリと笑った。
「あんたが今度も倒れるかどうかで、賭けてんだオレたち」
 わたしが目をぱちくりさせるのを見ると、彼は本格的に笑いだした。



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