続・騎士見習いの恋  10/10 ページ

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 心地よい鳥のさえずりが耳に届いてくる。
室内に差し込む光が、まぶたの上からもまぶしい。
「……」
 目を開いたリュシアンは、はじめ、ここがどこであるか分からなかった。
 ここが暗い地下室ではなく、足に鎖がつながれていないことを知ると、心のそこからほっとした。なにせこれまで、彼はそうした絶望感とともに朝を迎えてきたのだ。
 彼が眠っていたのは、清潔な亜麻布がしかれた寝台であり、冷たい地下室の石の上ではなかった。
(ここは……)
 しだいにはっきりしてくる頭が、昨日からの時間の流れを思い出させた。リュシアンはゆっくりと寝台から起き上がった。
(ここは湖畔の城……)
 部屋を見回すと、ここは見覚えのある場所だった。かつて、何度かこの来客用の部屋に泊まったことがある。
(ああ……)
 じわりと、体の奥底から喜びが沸いてくる。
 では自分は、地下室から助けられ、そのまま疲れ切った体で馬を走らせて、確かにここにたどり着いたのだ。
 窓からはたっぷりとした朝日が差し込み、室内を照らしている。
 地下室の生活では、そんなことは考えられなかった。朝の光がこんなに気持ちのよいものだということに、リュシアンは新たな感動を覚えた。
 寝台から起き上がろうとすると、体のあちこちが痛んだ。それも無理はなかった。昨日までの監禁生活ですっかり体は弱っており、その上、無理をして馬を走らせてきたのだから。
 短剣で傷つけられた右腕を触ってみると、そこには丁寧に包帯がまかれ、しっかりと薬草が塗られた匂いがする。この屋敷の者が施してくれたのだろうか。すっかり汚れていた服も、真新しいものに取り替えられていた。
(マリーン……)
 ここは湖畔の城……そして、マリーンが、彼女がいる場所なのだ。そう思うと、体から痛みが抜けてゆくような嬉しさがこみ上げてくる。
 昨日ここに到着したとき、走り寄ってた彼女の姿……おぼろげに見たその時のマリーンの顔を、リュシアンが思い出そうとしていると、
 控えめなノックの音がして、部屋の扉が開かれた。
「失礼します……あら、もう起きておられたんですか」
 入ってきたのは屋敷の侍女だった。
「おはようございます」
「ああ、どうも……おはよう」
 この若い侍女の顔をリュシアンは知っていた。マリーンの気に入りの侍女ということで、この屋敷に来るとよく顔を見ていたからだ。
「よくお眠りになれましたか?」
「ああ、うん……」
 微笑んだ侍女を見て、リュシアンは照れながら礼を言った。
「その……ありがとう。傷の手当てもしてくれたみたいで。それに服も」
「いいえ。私はお手伝いしただけですから。ちょうどまだお医者様がお屋敷に残っていらして良かったですわ」
 運んできた果物やパンなどの朝食をテーブルに置きながら、侍女は言った。
「でも、失礼ですけど、以前にお見えになったときよりも、ずいぶんとお痩せになりましたわ」
「あ、ああ……うん。いろいろあって」
「お髭も剃られてないようですし、よろしかったら後でお手伝いしますよ。さあその前に、朝食をどうぞ」
 並べられた食物を見て、リュシアンは自分がかなりの空腹であるのを知った。ぴかぴかの皿に乗せられたパンや、湯気を立てるスープのなんと美味しそうなことか。
「あまり具合がよろしくなさそうだったので、パンと果物くらいの軽いものです。先生がおっしゃるには、何日も十分なものをちゃんと食べていなかったようだということですから、これを食べて、はやく元気になってくださいね」
「ああ、ありがとう」
 侍女が部屋を出てゆくと、リュシアンは赤く熟したりんごを手に取った。それを一口かじってみると、汁けと甘酸っぱさが口のなかで広がった。
「美味い。りんごってこんなに美味しいものだったのか……」
 感動したようにつぶやくと、リュシアンは一心に食べはじめた。

 食事を終える頃には、リュシアンは自分がすっかり元気になっているように感じた。
 やはり若さというものには、どんな体の痛手をも、睡眠と食事とによって回復できる特権があるのだろう。手足の関節はまだ多少痛かったが、このくらいならまた馬に乗りつづけることも、剣を振ることもすぐにできそうだった。
「うん。もう普通に歩けそうだ」
 部屋を出てみようかと、リュシアンが立ち上がったとき、またノックの音がした。
 侍女が食事を下げに来たのかと思ったが、そうではなかった。
「リュシアン」
 彼の名を呼ぶ声、
「あ……」
 扉が開くと、そこに立っていたのはマリーンだった。
「マリーン!」
 満面の笑みがリュシアンの顔に浮かんだ。
「もう、起きていいの?」
「うん。もう全然平気さ」
「よかった……」
 ほっとしたように笑顔を見せた彼女は、昨日と同じ、黒の胴着に同じく黒いビロードのスカートといういでたちで、部屋に入ってきた。
 二人は、しばしお互いを見つめ合ったままそこに立っていたが、やがてどちらからともなく、そっと寄り添い手を取り合った。
「リュシアン……」
「会いたかったよ、マリーン」
「私も……」
 どちらとも、ややためらいがちにそっと抱き合うと、互いのぬくもりに安心したのか、しだいに再会の喜びが二人の頬に血の気がよみがらせた。
「リュシアン……ああ。リュシアンなのね。本当に」
「ああ、僕だよ。マリーン。僕は戻ってきたんだ……マリーンの所へ」
 永い別離の後に邂逅した恋人たちのように、二人は抱き合い、見つめ合った。
 マリーンの目にはかすかに涙が浮かんだ。
「ああ、よかった。なんだか私……あなたにはもう会えないような気がして」
「どうして?」
「なぜだか分からないけど……」
「大丈夫。僕はここにいるよ」
 ぐっとマリーンの体を引き寄せ、リュシアンは優しく囁いた。
「ああ、でも……驚いたわ。昨日のあなたの姿を見たときは」
 マリーンはリュシアンを気遣って寝台に腰を下ろさせ、自分もその横に座った。
「いったい何があったの?そんなに痩せて。それに、服も髪も汚れて……おまけに腕には怪我もしているし」
「ああ……」
 リュシアンはなんと答えるべきかと考えた。
 どうやら、この城にまでは、自分が行方知れずになったという知らせは届いていないらしい。おそらく、これ以上の心配はかけさせたくないと、レスダー伯夫人が知らせるのを止めたのだろう。
「いや……なんでもないよ」
 なるべく平素な様子で、リュシアンは首を振った。
「その、ただ……剣の修行をしていたんだよ」
 彼自身も夫人同様に、この黒ずくめの喪服に身を包んだ彼女には、これ以上悲しい顔はさせたくはなかった。
「まあ、修行ですって?こんなに痩せて、ぼろぼろになるまで?」
「ああ、まあね……」
 ごまかすようにリュシアンは笑ってみせた。
「いやー、何日も山にこもってさ。食べ物もあまりなくて、もうお腹へっちゃった……。だからもうやめるよ」
「まあ……」
 マリーンはまるで、笑うべきか、それとも心配するべきかと悩む様子だった。
「それよりマリーンの方こそ。ちょっと痩せたみたいだ」
「そうかしら」
 頬に手をやった彼女は、確かに以前よりも肌が色白くなって、その顔には疲れの跡が見えた。
「伯爵が……亡くなったんでしょう?」
 リュシアンは、やや言いずらそうにそれを口にした。
「ええ。五日前に」
 マリーンはうっすらとその目を潤ませたようだった。しかし、すでに悲しみの淵からは何日かを経たように、その口調は穏やかで落ちついていた。
「最後は、ほとんど息をひきとるようにして……静かに、逝かれたわ」
「そう……」
 最後に会ったときの伯爵の顔を、ふとリュシアンは思い出した。
 カルードとフィッツウース以外では、自分とマリーンとのことを知る、唯一の存在。かつては、マリーンとの結婚を妬み、恨んだこともあった。しかし、伯爵は、会うたびに自分に穏やかに接してくれ、いつも静かに文学的に話をし、そしてどこかすべてを理解しているふうな雰囲気があった。
(もう、会えないのか……)
 思いがけず、なんとはない寂しさのようなものが、リュシアンの心に浮かんだ。
「それじゃ、マリーンもいろいろ大変だったんだろうね」
「そうね……」
 涙を追いやるように、彼女は微笑んだ。
「でも、もう葬儀もすんで、ひととおりのことは片づいたから。先生や会計士の方や、それにクインダにもいろいろ苦労をしてもらって。私ひとりではきっと、とても何も出来なかったわ」
「そうか……マリーンは、これからどうするの?」
 尋ねてしまってから、リュシアンはそれがひどく抽象的な質問であったことに気づいた。
「そうね……」
 しばらく考えるようにしてから、マリーンはそっと立ち上がり、朝日の差し込む窓辺に近づいた。
「きれい……」
「どれ……ああ、ほんとだ」
 側に来たリュシアンも、そこから見える湖に目をやった。
 朝日を浴びてきらきらと輝く湖面が、眼下一面に広がっている。それはなんとも心踊る景色だった。
「ねえ、リュシアン。もし歩けそうなら、ちょっと外に出てみない?」
 マリーンの声が心なしか浮き立っていた。

 空気にはもう、秋を感じさせるほのかな涼しさがあり、湿りけを含んだ緑の匂いがそこに混じっていた。
 外に出た二人は、朝露に濡れた枯れ葉を踏みしめながら、湖のほとりを歩いていた。
 髪を覆う黒い帽子をかぶったマリーンは、かすかに頬のこけた白い頬と物憂げなまなざしとともに、悲しみをまとった伯爵夫人らしく、その姿はしっとりと美しかった。
「もう夏も終わりなのね」
 湖面をつたってくる涼しげな風に、彼女はそっと目を閉じた。
「秋の香りがする……」
 どちらからともなく二人は手を握った。
「……」
 白い頬をかすかに染めたようなマリーンの横顔は、はかなげで、そしてたまらなく綺麗に見え、リュシアンの胸をときめかせた。
「まだどうするか、はっきりと分からないけれど……とりあえずもう少ししたら、一度お母様の所に戻るつもりよ。きっと心配しているでしょうから」
「ああ、そうだね……」
 リュシアンは少し安心した。伝わってくる手の温もり、自分の手を握る彼女は、変わらずにいてくれたように思えた。
 輝く湖面を見ながら、二人は木々の間の小道を歩いていった。
「湖の反対側の丘に、伯爵のお墓をつくろうと思うの」
 ちょうど城の方からは正面になる、緑に包まれた高台を指さし、マリーンは言った。
「あの人は、窓からこの湖を見ているのがとてもお好きだったから。本当は神父様に来ていただいて、終油の儀を受けるのが貴族としての習わしなのだけど、あの人は、きっとそういうことはお嫌いでしょうから。そう……とっても、自由な人だったわ。見かけはいつも、物静かで穏やかだったけど」
「……」
 リュシアンは、ただ黙ってマリーンの言葉を聞いていた。
 妻であるマリーンと、見習い騎士である自分との許されざる関係を、伯爵自身はどう思っていたのだろう。かつては、彼に会うたびに内心で罪悪感を感じながら、マリーンを妻にした伯爵に嫉妬し、心の中では、いなくなればいいと望んだこともあった。
 だが伯爵は、まるでなにもかもを知っているような顔で、自分に穏やかに微笑みかけ、あるいは意味深長な言葉を投げかけてきた。そんな伯爵の中には、自分に対する怒りはなかったのだろうか。妻となったマリーンの心も体も奪ってしまった、若い見習い騎士への憎しみは。
 湖を見つめながら、リュシアンはいつも穏やかだった伯爵の顔を思い浮かべた。
「……」
 考えてみれば、モンフェール伯爵とは、自分が初めて「大人の男」というものを実感させられた、そんな相手でもあった。
 やみくもにただ恋をして、いつかはマリーンと結ばれると考えていた少年の願望を、現実的な地位や財産や社会的な信頼などで打ち負かし、ただ愛しているだけでは女を幸せにはできないのだと、彼に教えてくれた。
 剣や乗馬を鍛えてくれながら、ときに自分を叱り、騎士としての生きかたを教えてくれたカルードのような存在ともまた違う。モンフェール伯爵は、リュシアンにとってのいわば初めての大人のライバルであり、人生を生きる先人でもあったのだ。
 伯爵のおかげて、彼は目先の欲求に耐えることを知り、人の妻となった女を愛するという背徳を知り、それでもなお相手を愛しつづける強さと、複雑な感情を心に持ちながらも世間と上手くやってゆくことを覚えていったのだ。
(伯爵……僕がこんなことを言えた義理ではないかもしれないけど)
 湖を見やりながら、リュシアンは心の中で祈りを捧げた。
(できるなら、安らかにお眠りください。そして、僕の行為を、僕の許されぬ恋を、どうかお許しください)
 最後に見た、伯爵の顔がリュシアンの脳裏に浮かんだ。病に痩せ衰え、それでいながら、強いまなざしで自分を見つめていた、穏やかな顔が。
 それは、咎めているような、悲しげに笑いかけているような、そんな表情であった。
(伯爵……でも僕は)
(それでもマリーンを愛しているんです)
 消えない心の苦しみと、その許されない愛を、自分は一生背負ってゆくだろうと、リュシアンは誓った。
「どうしたの?」
 首をかしげたマリーンが、彼に優しく笑いかけた。
「いや、なんでもないよ」
「そう。じゃあ、丘の上まで行ってみる?」
「うん」
 二人はまた手を取ると、湖をぐるりと囲む丘への道を歩きだした。

 生い茂った木々の間の小道を、下生えを踏みしめながら登ってゆく。梢の間から覗く朝日が、ときおりまぶしく顔を照らす。
 この辺りは、城の人間以外には滅多に人がやってくることもない。聞こえるのは鳥の鳴き声だけだ。
 丘を登ってゆくにつれ、湖の向こうにたたずむ城が、その優美な姿を木々の間から覗かせはじめる。
「お城が見えるこの風景を、あの人にもずっと見ていて欲しいから、ここにお墓をつくろうと思ったの。ほら、もう少し登った先、あの丘の上よ」
 マリーンの声はむしろ楽しげだった。
 夫を亡くしたという悲しみは、彼女の心に傷を残したに違いないが、しかし、それでもまだ彼女は若いのだ。清浄な朝の空気と美しい景色、時のながれと、やってくる季節のうつろい……紅葉や咲き乱れる花々や、鳥のさえずり、新緑の匂い……
 それらの前には、心を浮き立たせずにはいられない。たとえ、どのような傷を心に負っても。それが生きているということであり、時の流れを感じること、その喜びであるのだ。
 悲しみはいずれ癒されるだろう。時の力が生きるものたちに働くかぎり。
「待ってよ……マリーン」
 病み上がりの体力という点では、この登り坂はリュシアンの方にきつかった。
 息を荒くしながら、ようやく前をゆくマリーンに追いついた。
「大丈夫?」
 リュシアンに寄り添うようにして、マリーンが背後を指さした。
「ほら。見て。綺麗でしょう。ここからはお城がよく見えるのよ」
「ああ、本当だ」
 振り向くと、湖の向こうに、白い壁を朝日に輝かせる城が立っていた。
 それは、まるで一幅の絵画のように素晴らしい景観だった。湖の深い青と、木々の緑とに囲まれた湖畔の城は、その色を自然の色彩に溶け込ませ、見事に調和していた。
「きれいだ……」
 きっとこの場所からは、春夏秋冬、それぞれの季節ごとに彩られた、素晴らしい城の姿が楽しめることだろう。
 その景色を見ながら、リュシアンの背中に、マリーンがそっと体をもたせかけた。
「リュシアン……私」
 その声の調子が、やや変わっていた。
「私……、私ね……」
 それはひどくためらいがちな、なにかを告白する時のような声だった。
「あの……ね」
「うん」
 ひとつ息を吸い込み、マリーンは言葉をついだ。
「私たちの……」
 だが、その言葉は途中で消えた。
 代わりに、「あっ」という叫びが、彼女の口から上がり、その表情がこわばった。
「どうした……」
 振り返ったリュシアンも、そのまま言葉を失った。その目がはっと見開かれる。
「リュシアン……」
 押し殺したような声……
 きらりと光るものを手にして、そこに立っている少女……
「コステル……」
 リュシアンが名を呼ぶと、その少女はまるで、コステルの顔をした人形のように、ゆっくりと口をつり上げ微笑んだ。
「どうして、ここに……」
「……」
 少女が無言で指を指す、その方向を見ると、やや離れた丘の下のあたり、木々の間に隠れるようにして、一台の馬車がとめられていた。
「リュシアン」
 その口からつぶやきがもれる。
 コステルはゆらりと、一歩ずつこちらに近づいてきた。その動きはひどくぎこちなく、まるで糸で引かれる操り人形のようだった。
「コステル……君は」
「私……好きだったのよ。あなたが」
 コステルの手に握られているのは、地下室でリュシアンを傷つけたときの、あの短剣だった。
「なにをする気だ……コステル」
 リュシアンはマリーンを背後にかばうように動いた。それを冷たい目で睨み付け、少女はかすれる声で言った。
「あんたが……裏切ったから。私は……」
 しぼり出すような声。
「その、女のせいだわ……ぜんぶ」
「何を言ってるんだ、君は」
 ひどく不気味なものを見るように、リュシアンは目の前のその少女を見つめた。
 かつては、無垢で可憐だった可愛い少女……陽光に当たるときらきらと輝いていた蜂蜜色の髪は、今はばらばらに乱れて頬にはりつき、顔は青白く、落ちくぼんだ目にはぎらぎらとした病的なまなざしが宿っていた。
「一晩かけて……追ってきたのよ。あの馬車で」
 コステルは囁くような声で言った。
「あなたに裏切られても、それでも、私は……あなたが好きだった。でも……その女が……私からあんたを奪ったのよ」
「何を言っている。マリーンは関係ないだろう」
 しかし、コステルにはリュシアンの言葉などは届いていないようだった。こちらを睨みながら、ただ、ぶつぶつとつぶやき続けている。
「伯爵の妻になったくせに、淫らにも彼をたぶらかし、私から奪って喜んでいる。そういう女なのよ。許さない……許せない。私から恋も愛も奪って、そして私を破滅させた女……私の騎士を奪い取った女」
 かつてコステルであった少女は、したたるような憎しみを込めてマリーンを見た。その表情には、戦慄するほどの狂気と、そして憎悪とが混ざり合い、ぞっとするものだった。
「……」
 マリーンは何も言葉を発せず、ただ呆然と目の前の少女を見つめていた。
「よせ。彼女は悪くない。憎むなら……僕だけにしてくれ」
 リュシアンはそう言って、マリーンをかばいながら後ずさった。騎士の短剣を持ってこなかったことを、彼はひどく後悔した。
「コステル。こんなことをしてなんになる。君は……君は、そんな子じゃなかったはずだ」
「あんたが、そうしたのよ!」
 声をうわずらせたコステルの顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「あんたを好きだったのに。愛していたのに……それなのに」
 絶望の表情を浮かべ、短剣を握りしめたコステルが一歩ずつ近づいてくる。
「コステル……こんなことはよせ」
 リュシアンは背中越しに、逃げるようにマリーンに囁いた。
 だが、マリーンは首を振った。
「私は……あなたのそばをはなれないわ」
 その声が聞こえたのかどうか、コステルがかっと眉をつり上げた。
「あんたが……」
 きらりと、振りかざした短剣が光った。
「いなければ!ああああ!」
 かん高い絶叫とともに、
 コステルが飛び掛かってきた。
「危ない!」
 リュシアンはとっさにマリーンを突き飛ばし、
「あああ!」
「!」
 飛び込んでくるコステルの短剣を、彼はその体で受けた。
「う……ぐっ」
「リュ、リュシ……」
 反射的に身を引こうとするコステルを、その体ごとつかまえる。
「コステル……」
 腹の右側あたりに熱いものが広がり、痺れるような感覚が身体中を駆けめぐる
「う……ううっ」
 枯れ葉の上に、ぼたぼたと赤い血がしたたり落ちてゆく。
「きゃああああ!」
 マリーンの悲鳴が辺りに響いた。
「リュシアン!」
「来るな!」
 駆け寄ろうとするマリーンを制する。
「コステル……」
「リュ……シアン」
 コステルの目が大きく見開かれ、
「そんなに、マリーンのことが……そんなに」
 その顔が再び、彼の目の前で憎しみに歪んでゆく。
「そんなに……。私が、私が……」
「うっ……ぐ」
 流れ出る血が、コステルの腕をつかんだ自分の手の上にもあふれてゆく。
「それじゃ、あんたも……あんたなんて」
 つぶやく声に殺意が混じった。
 体に刺さった短剣が、少しずつ深くに埋まってゆくような、そんな気がした。
「コステル!」
 しだいに朦朧としてくる意識の中で、リュシアンはその絶叫を聞いた。
 丘の下……馬車の方から走り寄ってくる人影が見える。
「コステル……コステル!」
 その名を叫びながら、握りしめたナイフを振りかざして。
「レナス!」
 コステルの目が狂気に輝いた。
「早く、レナス。とどめを。それからその女も逃がさないで!」
 命じられた少年が突進してくる。
「や……めろ」
 リュシアンは動けなかった。
「ああっ!」
 突き出された少年のナイフが、体を突き刺す。ざくりとにぶい音が上がった。
「いやあああ!」
 マリーンの悲鳴。
 そして、
「ああああああ」
 叫び声が上がった。
 混じり合ったいくつもの絶叫が、丘の上に響きわたる。
「レナス……ああ。レナス!お前……」
 流れだす血に、地面が真っ赤に染まってゆく。
 痛みと痺れが、にわかに意識を遠のかせる。
 リュシアンはかすかに目を開けた。
 深々と胸に突き刺さったナイフ……
 そして、目を見開いたコステルの、
 その歪んだ顔。
(ああ……)
 なにかが、崩れ落ちる……
 悲鳴と、叫び声が、遠い喧騒に変わり……
 そして
 なにもかもが、真っ暗になった。
                    








 目を開いたとき、
 そこには、限りなくやさしいマリーンの顔があった。
「マリーン……」
 ふるえる唇で、その名を口にする。
「リュシアン」
 自分を呼んでくれる、いつものその声。そして彼女の微笑み。
 彼にはそれだけで十分だった。
「う……」
 体の節々が痛い。腹のあたりが燃えるように熱かった。
 どうやら、自分は寝台の上に寝かされているらしい。見覚えのある空間……湖畔の城の客室だ。
「う……マリーン」
 荒い息を吐きながら、苦しげにリュシアンは尋ねた。
「コステル……は?」
 ずっと微笑んでいたマリーンの顔がにわかに曇った。
「……」
 無言で首を振る、その様子からリュシアンはすべて理解した。
「そう……か」
 その後、レナスはどうなったのか。
 そして、自分はどうなるのか……
 それらを聞きたかったが、リュシアンにはもうその気力がなかった。
「ああ……」
 震える手を差し出すと、優しくうなずいたマリーンが、その手をそっと握ってくれた。温かく、やわらかな手だ。
「マリー……ン、僕……は」
 意識がまた遠のく。
 うつらうつらと目を閉じかける彼を、マリーンは静かに見つめていた。
「いいのよ。もう……、ゆっくり休んで……リュシアン」
 優しい囁きが、とても彼の心を安らがせた。
 少しずつ、体の痛みが薄れてゆくようだ。
 世界が、また夜に包まれる……
 リュシアンはゆっくりと目を閉じた。
                    









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