続・騎士見習いの恋  9/10 ページ

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 リュシアンの鎖は解かれなかった。
 足かせをつけられたまま、彼は地下室でまた次の一日を過ごした。一日に二度の食事は与えられ、飢え死にさせられることはなかったが、それでも精神的な疲労や苦痛のせいで、ひどくまいっていた。
 コステルがあの男……ロディと、どうやら恋人同志であり、二人が共謀して自分をだましていたということは、リュシアンにはショックであった。そしてそれが、彼女の言う「復讐」である、ということ。そのことが、彼の心をどうにもやりきれない気持ちにさせた。
 コステルの淫らな姿を見ているのもつらかったが、それよりも強く彼を打ちのめしていたのは、かつて自分がマリーンを選んで彼女を部屋に置き去りにしたことが、こうまでコステルを変貌させてしまったのかということだった。
 あの時のことについては、彼女への申し訳なさと、後ろめたさをずっと持ってはいたリュシアンであったが、まさかそこまで彼女を追い詰めていたとは、彼自身は思っていなかった。
 春に自宅のパーティで彼女に再会したときも、確かにその変わりようには驚いたものの、それは少女であった娘が大人の女性へと変わってゆくときの変化なのだろうと、なんとなくそう思っていたのだが、実際はそうではなかった。彼女の心の奥底には、もっとどろどろとした、根深い、暗い感情があったのだ。
 あのコステルが、これほどに……自分を拉致して捕らえるほど、自分を憎み、あるいはまた、自分に執着していたとは。それはリュシアンに、なにか背中が震えるような戦慄すらも、感じさせるのだった。
(でも、こんなことは間違っている……)
 リュシアンは蹴るようにして、足につながれた鎖を床に叩きつけた。
 たとえ、自分が彼女に与えた苦痛をすまなく思っていたとしても、それはこのような形で償われるべきものではないはずだ。リュシアンは、なんとかコステルを説得したいと考えた。
 夜になっても眠れなかった。
 自分はいつまでここにこうしているのだろう。もしやこのまま数カ月も、この暗い地下室で、かろうじて飢えをしのぎながら、飼われるようにして生きなくてはならないのだろうか。
 そうした不安が、時間とともに少しずつ大きくなってゆく。
(まさか……)
 心の中で彼は首を振った。
(僕がいなくなってから、もう何日もたっている。レスダー伯夫人だって変に思うはずだ)
 そうなれば……おそらく夫人は、リュシアンの実家にも知らせをやるだろう。
(きっと今頃、母様も心配しているに違いない)
 そのことを考えると心が痛んだ。
(マリーンの所にまでは、知らせがいくのにもう何日かかかるかも。でも……その方がいい)
 彼女は今頃、モンフェール伯爵の看病で大変なはずだ。これ以上余分な心配を増やすのは、心苦しい。
(しかし……ここはどこなんだろう)
 さきほどまでの不安をなんとか打ち消し、リュシアンは冷静に考えてみた。
(あの、ロディという男の屋敷であるのは確からしいな)
(ここは町のどの辺なんだろう。せめてそれが分かれば……)
 しかし、運ばれている間はまったく気を失っていたリュシアンには、ここがレスダー伯夫人の屋敷からどのくらい離れているのか、見当もつかない。
(そういえば、この家はコステルの家とは仲がいいと言っていたな。ということは、けっこうな家柄の貴族だということだ)
 高級な貴族たちが住まう地域は、町の中でもおのずと限られてくる。なんとなく、場所の見当はつくものの、結局はなんの手掛かりもなくては、自分がここに幽閉されているということは、誰にも知れようがない。
(くそ……どうしたらいいんだ)
 無駄とは知りながら、リュシアンは足かせの鎖をつかみ引っ張った。これまでも何度となくやってみたが、やはり鎖は壁に埋まった鉄の輪にしっかりとはめられており、どう手足を踏ん張っても外れそうもない。
「くそっ!」
 リュシアンは壁を叩いた。いっそ、この足を切り落としてでも逃げたいくらいだった。
(マリーン……)
 暗い地下室の床に座り込み、リュシアンは格子のはまった窓を見上げた。そこからかすかに覗くのは、黒々とした星の見えない夜空だった。
(会いたいよ。マリーン)
 心に浮かぶマリーンの微笑みだけが、正気を保たせてくれる。それが彼にとっての唯一の希望だった。
 壁に寄り掛かって、いつしかリュシアンはうとうととしはじめた。

 いくらもしないうちに、かすかな足音が聞こえ、リュシアンは目を覚ました。捕らわれの生活の中で、物音にはとても敏感になる。
(誰だ……またあいつらか?)
 リュシアンは、すっかり暗がりに慣れた目を鉄の扉に向けた。
 鍵をはずす音がして、ゆっくりと扉が開く。部屋に入ってきたのは、どうやら一人だった。
 燭台の火が、その顔を照らした。
 てっきり、ロディかコステルだろうと思っていたのだが。
「君は……レナス」
 リュシアンは意外そうにその名を呼んだ。
「お、大声を出すな」
 おどおどとした様子でそう言ったのは、旅芸人に化けてリュシアンを連れ出した、少年……レナスであった。ややためらいがちに、彼はリュシアンの方に近づいてきた。
「……」
「なにか用かい?」
 尋ねたリュシアンに、レナスはややむっとしたような顔をした。
「べ、別に……用というわけじゃない」
「?」
 リュシアンは眉を寄せた。いったい彼は、一人で何をしに来たのだろう。
 少年の背丈は、ほぼリュシアンと同じくらい。歳もたいして変わらないだろう。顔はロディに比べれば美男子とはいいがたく、頬には茶色いそばかすが浮かんでいる。
 また、今時の若者らしく、この少年にはどことなく落ち着きがなく、どこか頼りなげな雰囲気があった。それについては、かつてのリュシアンも似たようなものだったので、えらそうなことは言えないが、しかしどことなくおどおどとして、目を泳がせている様子は、見ていてもなんとなくいらいらしてくる。
「じゃあ、なんだい?君は、僕のこの姿を馬鹿にしにきたのかい?」
 リュシアンはやや鋭い口調で言った。
 レナスは首を振った。
「そうじゃない……ただ」
「ただ?」
「俺は……その、そんなつもりはなかった」
「どういうことだ?」
「だから……」
 またきょろきょろと視線を泳がせながら、少年は言った。
「お、俺はただ、ロディに言われて、お前を連れ出しただけだ。こんな所に閉じ込めたりして、ひどい目に合わせるなんてことは、知らなかった」
「なにをいまさら」
 リュシアンは眉をつり上げた。
「昨日も、一昨日も、一言もそんなことは言わず、君はただ、ロディとコステルの横に、まるで家来のように突っ立っていただけじゃないか」
「……」
「どうして、いまさらそんなことを言うんだ。君はあいつらとグルなんだろう。こうして僕を閉じ込めて、監禁していることが、もしばれたら困るから、今になって言い訳しているだけじゃないのか?」
「違う……」
 レナスは弱々しく首を振った。
「本当に、俺はそんなつもりじゃなかった。ただロディのやつが……」
「ロディ、ロディって、まるで君はあいつの子分みたいだな。いつもそうして命じられた通りにするだけなんだろう」
「違う。俺は……俺は、あいつなんか大嫌いだ」
 思わずというようにレナスは声を荒らげたが、すぐに口に手をやり後ろを振り返る。
「誰もこないさ。それとも、ロディたちはまだ近くにいるのかい?」
「いいや。今は別のところにいる。ここは離れなんだ」
 ほっとしたように少年は言った。
「なるほど。離れか。大貴族ってのは、いくつも屋敷があるもんなんだな。……ああ、そういえば、フィッツウースのやつも一人で立派な離れに住んでたっけ」
 リュシアンは独り言のように言うと、また少年の顔を見た
「それで?君は今、ロディが嫌いだって言ったけど。なら、なんであいつの言うことを聞いている?」
「それは……だから」
 レナスはうつむいて、そのまま言葉を濁した。
「彼の方が強くて逆らえないのか?」
「そんな、ことはない……」
 リュシアンの問いに首を振る。
 だが、心にあったことを一度口にしてしまったことでよほど安心したのか、レナスは低い声で話しだした。
「確かに、あいつの方が背も大きいし、力も強い。それに、家柄も。昔から、僕の家はロディの家に頼ってやってきたようなものらしい。だから、僕もいつしかあいつの友達……いや、そんなんじゃない。言うことを聞かされる相手にされてしまっていた」
「ふうん。そうなのか。ロディはそんなに立派な家柄なんだな」
「ああ。コステルの家とも対等に付き合いがあるらしいからな。この町でも五本の指に入る家柄だろう」
 レナスの言葉には、どことなくロディへの妬みのようなものが感じられた。
「なんでも買えるし、どんな贅沢だってできるのさ。大貴族のおぼっちゃんだからな」
「なるほど。それで、君は、内心は嫌々ながら、あいつの子分のようなものにされて、言うことを聞かされ、ついにはこうして僕を監禁する手伝いまでしたわけだ」
「だから、それは、そんなつもりじゃなかったって言ってるだろう」
 レナスは言い訳がましく言った。
「君はコステルが好きなのか?」
「なっ……」
 リュシアンのいきなりの言葉に、レナスは顔を真っ赤にした。
「そうなんだろう?」
「……」
 もじもじとしながら、彼はうなずいた。そうすると、歳相応の少年めいた純粋さが表情に覗く。
「ああ、そうさ。俺は……彼女が好きだ」
 そう言った少年の顔に、これまで見られなかった強い自信の色が浮かんだ。
「それに……それに、彼女だって、少しは俺のことを」
「だって、コステルはロディの恋人なんだろう?」
「違う」
 レナスは強く首を振った。
「恋人なんかじゃない。ただの友達さ」
「友達って……だって、君も見ていただろう。彼女が僕の前で、その……したのを」
「ああ。でも、あれはロディの奴が無理やりしたんだ。彼女は……そんなんじゃない」
 そう言い張る少年を、リュシアンは奇妙な思いで見つめた。
「……」
 どう考えても、レナスの言っていることは、勝手な思い込みであるとしかリュシアンには思えなかった。
「彼女は……君のことが好きなんだ。リュシアン」
 少年は、思いがけないほどの純粋な目つきで言った。
「だから、彼女はこうして君をここに連れてきて、なんとか心を変えさせようとしているんだ」
「……」
 リュシアンは納得がいかなかったが、この少年に、コステルとの複雑な経緯についてをいちいち説明するのも無意味に思われた。
「それじゃあ、コステルのことが好きな君は、きっと僕のことが憎いだろう?」
「ああ」
 少年は素直にうなずいた。
「でも、もうそれほどでもなくなった。なぜなら、彼女がいかに君のことを好きでも、僕の彼女への思いは永遠に変わらない」
「……」
「むしろ、許せないのはロディの方だ」
 そう言って、レナスは眉を逆立てた。そうすると、思いがけず少年の顔つきが凶暴になることをリュシアンは知った。
「奴は……彼女のそんな純真な気持ちを利用して、協力するふりをして君を捕らえ、それだけでなく、ああやって彼女の体と心を弄んでいる。僕には、それがつらかった。目の前で、彼女をあんなに……しやがって」
 少年の目が憎しみに燃えるのを、リュシアンはやや不気味そうに見つめた。このレナスという少年には、思い詰めると自分勝手な世界を頭のなかで広げてゆき、それを信じきってしまうところがあるようだ。
「君は……そんなにコステルのことを」
「ああ、愛している」
 さきほどまでのおどおどとした様子とは程遠い顔つきで、レナスは胸を張った。
「彼女のためなら、どんなことでもしたい。どんなことでも……たとえ、この僕の命だろうとも。彼女のためなら捧げるつもりだ」
「それなら……彼女にそれを告白したらどうだい?」
 少年は顔を真っ赤にした。
「そ、そんなこと……できるわけないだろう。無理だよ。できない……」
「どうしてさ」
「だって……ロディがそばにいるし」
 彼の表情は、にわかにまたおどおどとしたものになった。
「ロディ……あいつめ、あいつがいるから、くそっ」
 少年はぶつぶつとつぶやきだした。
「僕は……僕だって、コステルとしたことあるんだぞ。一回……いや、二回だけだけど。それにキスもしたことあるし。それに、彼女も、良かったって言っていたんだ……」
 そのつぶやきは、彼自身の内にある、行き場のないもやもやとした感情を表すようだった。
「……」
 リュシアンは、この少年の中に潜んだ、うす暗いものをかいま見た思いで、彼のつぶやきを聞いていた。
「でもロディのやつは、何回も……コステルをあんなに……ああ、ちくしょう」
「な、なあレナス」
「なんだよ、うるさいな」
 眉間に皺を寄せ、血走った目で、少年が顔を上げた。
「僕をここから出してくれ」
 リュシアンはここぞとばかりに言った。
「頼む。だって君はロディが憎いんだろう。なら、あいつの言うことを聞いている必要はない。僕をここから出せ。ロディの命令なんか聞くことはないんだ。そうすれば、君のことは誰にも言わない。悪いのは全部ロディだ」
「……」
 少年は腕を組んだ。
 しばらく考えるようにしてから、
「だめだよ」
 力なげに言った。
「そんなことをしたら、ロディに殴られる。それに、コステルも悲しむだろう」
「それじゃあ、いつまで僕をここに閉じ込めておくつもりだ」
「分からないよ。それは、ロディとコステルが決める」
 それを聞いて、リュシアンは落胆した。
「やっぱり君は、二人の子分じゃないか」
「うるさい。お前になにか分かる」
「分からないね。コステルが好きなら、ロディや僕のことなどはかまわず、自分からぶつかっていけばいいだろう」
 この少年の卑屈さと勇気のなさに、リュシアンはいらいらとしてきていた。
「……」
 黙り込んだレナスは、顔を歪めて、一瞬リュシアンに殴りかかりそうなそぶりを見せた。だが、彼はそうしなかった。
「ほら、水だ」
 レナスは、それが自分の仕事だっとばかりに、持ってきた水桶をリュシアンのそばに置くと、そのままくるりと背を向けた。
「おい、待て。僕を放せ!」
 少年は、リュシアンの言葉は耳に入らない様子で、扉の方に歩きだした。
「おい。このままでいいのか、君は。いつまでも、ロディとコステルに馬鹿にされたままで」
「……」
 振り向いた少年の顔は、暗がりでその表情は分からなかった。
「このままじゃあ、僕も君も、ここで腐ってゆくだけだぞ!」
 リュシアンの叫びをどう聞いたのだろうか。少年はのろのろと扉を開けると、無言で部屋から出ていった。
 鉄の扉が閉まる鈍い音が、重く室内に響きわたった。

 その翌日も、翌々日も、何もリュシアンが期待する出来事は起こらなかった。
 この前と同じように、ロディとコステルがやって来て、ロディはつながれたリュシアンをあざ笑い、暴言を吐き、ときに殴りつけ、そしてまた見せつけるようにして、二人は寝台の上で淫らなことをしたが、リュシアンはもうただ歯を食いしばり、目を背けたままじっと耐えた。それにいちいち怒りの言葉を返したりする気力は、彼にはもうなかった。
 ふと、リュシアンが扉のそばにたたずむレナスに目をやると、彼はやや青ざめた顔をして、淫らな行為にふける寝台の二人を、じっと食い入るように見つめていた。
 日に二度の食事と水桶を置いてゆくレナスは、リュシアンとはもうまったく目を合わせようとはせず、ただロディに命じられた通りに床に食器を置き、いそいそと下がってゆくだけだった。
 さらに数日もたつと、さすがに騎士として鍛えられたリュシアンの肉体もつらくなりだし、鎖につながれたまま長い間固い石の上にいるせいか、体の節々が痛くなった。
 自分はここからもう出られないのか……という、心に沸き起こる不安が彼を苛んだ。ときに、発狂したくもなるような気持ちを抑えながら、リュシアンはかろうじて自らの精神を律した。
 それはひとえに、彼にとっての希望……マリーンへの思い、そして何があっても自分の未来を信じるという、その気持ちだった。
(マリーン……僕は負けないよ)
 心が折れそうになると、彼はマリーンのことを考え、彼女と再会する日のことを想像し、それを期待し続けた。
 そうして、リュシアンが捕らわれてから、すでに八日あまりが過ぎようとしていた。

 その日、いつもと同じように壁に寄り掛かって眠っていたリュシアンは、近づいてくる馬車の音で目が覚めた。
 目を開けると、室内にはかすかに日が差し込んでいた。リュシアンにはその明るさの具合で、今がだいたい何時なのかが分かるようになっていた。
(もう昼前か。今日はよく眠れたな……)
 すっかり頬がこけて、髭の伸びた自分の顎を触りながら、リュシアンは立ち上がり、体を伸ばした。身体がなまらないようにと、鎖につながれた範囲での体操は、彼の毎日の日課だった。
(あの馬車の音は、またコステルが来たのか……)
 今までに、コステルがこの屋敷に泊まることは一度もなかった。さすがに未婚の女性ということで、世間体や自分の親への配慮もあったのだろう、夜になってリュシアンを見張りに来るのは、ロディかレナスのどちらかで、コステルが来るのはだいたい決まって、午後の遅い時間になってからであった。
 それを考えると、どうも今日はかなり早いようだ。
 リュシアンは一応身繕いをして……といっても、髪を撫でて整え、汚れてしわくちゃな服をはたくくらいのものだったが、人が来る心構えをして待っていると、いつものように階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
 扉の鍵をはずす音を聞き、リュシアンは顔を引き結んだ。
 疲れ切って、相当まいってはいたが、彼は騎士として己の弱さをなるたけ相手に見せたくないと思った。どんな状況に陥っても、誇りを忘れるなというカルードの教えが、常に彼の脳裏にはあったのだ。
「やあ、リュシアン。おはよう」
 そう言って地下室に入ってきたのは、ロディ、そしてやはりコステルの二人だった。
 しわひとつない真っ白なブラウスを着たロディは、血色の良い顔で笑いかけた。
「ふむ。だいぶ痩せたようだな。君、食事は足りているかい?」
「……」
 皮肉めいた言葉と、蔑んだ笑いを浮かべる相手を、リュシアンは無言で睨み付ける。
「こわい顔だなあ。その髭づらでいっそう怖く見える。それに汚い。まあ何日もつながれていたら、それはそうなるだろうが」
 ロディの言葉はいちいち憎らしく、疲れ果てているリュシアンの心すらも、また怒りに熱くなるのだった。
「さてさて、今日もまた一日遊ぼうか。最近はちょっと君と遊ぶのにも飽きてきてはいるんだがね。なあ、コステル」
「さあ。私はどうでもかまわないわ」
 部屋に入るなり、彼女はずっとリュシアンを睨むように見つめていた。数日前とまったく変わらぬ、したたるような憎悪をこめた目をして、彼女は言った。
「リュシアンがここにいて、私の思いどおりになって……いずれは私に助けてと哀願して、身も心も私のものになる。それだけで、私は幸せなのよ。退屈などしないわ」
「ほっ、さすが我がいとしのマドンナ。素晴らしい悪魔を心にお持ちだ。それでこそ我が天使。相変わらずに愛しているよ」
 そう言ってコステルを引き寄せようとしたロディだが、ぴしと手の甲を叩かれた。
「よして。こんな昼間からそんな気にはなれないわ。お酒でも飲まないと無理よ。あんたのアレは大きくて、シラフの時じゃ痛くて仕方がないのよ」
「へいへい。お姫様。それでは、また地下室の宴を始めますか。おい、レナス。ワインを持ってこい!グラスは二つだ」
 ロディは扉の外に向かって命令した。
 だが、しばらくしても何も返事はない。
「おい、レナス!聞こえているのか?」
 もう一度、彼は怒鳴った。しかし、やはりいくら待ってもレナスは現れず、誰かが階段を下りてくるような気配もなかった。
「ちっ、あいつめ、なにしてやがるんだ」
 いらいらしたように舌打ちする。
「きっと。上で居眠りでもしているんだわ。あんた、見てきなさいよ」
「ちぇっ、分かったよ」
 コステルに言われて、ロディは面倒くさそうに頭を掻きながら部屋を出ていった。
 地下室にはリュシアンとコステルの二人だけになった。
「……」
 少しあいだ、どちらも何も言わぬまま、互いを見つめたり、また目をそらしたりと、やや気まずい時間が流れた。
「ねえ……リュシアン」
 先に口を開いたのはコステルだった。
 その表情には、さっきまでの憎しみの色はない。むしろかすかな媚を含んだ目で、彼女はリュシアンを見た。
「ねえ……本当に、私のことはもう嫌いになってしまったの?」
「……」
 リュシアンは答えなかった。いまさら何をというように、じろりと相手を見る。
「そう。それは、そうかもしれないわね。あなたにこんな仕打ちをしたり、目の前であんな……いやらしいことをしたり。でも……」
 これまでこの地下室で見せていた嬌態や剣幕が嘘のように、コステルの声はかすれ、そして震えていた。
「でも、でもね……私があなたを好きなのはずっと変わらないわ。そうよ。好き……。ねえ、愛しているのよ、リュシアン」
「……」
 リュシアンは顔を上げた。
 目の前の少女を……二人きりになったとたんに豹変したように優しいまなざしを見せるコステルを、彼は奇妙なものを見るようなまなざしで見つめていた。
「ね、分かって。私……きっと嫉妬していたんだわ。マリーンさんに。私がどれだけあなたを好きだったか、あなたに裏切られて悲しく、苦しかったか。それを知ってほしくて。私のこの気持ちを分かってほしくて、それで……ね、こんなことをしてしまったの」
 コステルは可愛らしく身をよじった。それが演技であるのか、本心からの言葉であるのか、リュシアンには分からなかったし、今はもうどうでもかまわなかった。
「ロディなんかは、本当はどうでもいいのよ。あれはただのあなたの身代わりなんだから。あなたさえ私と……私と一緒になってくれると言うのなら、あんな奴とはすぐに別れるわ。本当よ。信じて、リュシアン。私が好きなのはあなただけ。私が抱かれたいのは、あなただけなのよ」
 そう言ったコステルの目には涙が浮かんでいた。体を震わせるその姿には、かつての可憐な少女の面影が残っており、リュシアンの胸は痛んだ。
「だから……お願い。私を好きだと言って。私と一緒になってくれるって。昔みたいに、あなたと楽しく過ごしたいの」
 コステルは願うように両手を組み合わせ、リュシアンを見つめた。
「……」
 リュシアンは、ただ黙っていた。
 時間は元にはもどらない。
 過去の彼女への償いをするには、今はもう遅いのだと、彼は知っていた。
「ごめんよ」
 その言葉が、コステルの表情をこわばらせた。
「……」
 無言のひとときがすぎ、二人は流れていった互いの時間を、はじめて理解した。
「なぜ……」
 コステルの声がかすれていた。
「ごめん……」
 リュシアンはもう一度言った。
 かつてコステルと過ごした時間は、もう思い出となっていた。季節は何度も過ぎ、彼女を前にして今、リュシアンの中にあるのは、ただ憐憫の情でしかなかった。
「僕は、君とは一緒になれない」
 鎖に繋がれた少年が、
「なぜなら……」
 彼を見下ろす蜂蜜色の髪の少女に、思いを絶つ最後の言葉を告げた。
「僕はマリーンを愛しているから」
 剣で人を斬るような顔をして……
 苦しく、しかし誇らしげに、彼は言った。
「マリーンだけを。これからも……ずっと」
 これが最後と、まっすぐにコステルを見る。その目は、地下室での生活に疲れ果てた者の目とは思えぬ、強い光をはなち、剣をかかげる騎士のように輝いていた。
「……」
 コステルの顔は、
 まるで笑っているかのように、固まっていた。
「そ……う」
 震える声で息を吐き出し、
 彼女は目をそらした。
「わかったわ……」
 しわがれた声……まるで呻きのような声で、
「じゃあ……それじゃあ」
 彼女はつぶやき、
 ゆっくりと、懐からそれを取り出した。
 格子窓からわずかに差し込む陽光に、きらりと光るもの。
「コステル……」
「じゃあ、もういいわ……」
 低い声でもう一度つぶやく。その手には、銀の短剣が握られていた。
「もう……いい」
 尖った剣先をこちらに向け、ゆっくりと近づいてくる。
「やめろ。コステル」
 リュシアンは鋭く言った。
「馬鹿なことはよせ。君は、そんなことをする娘じゃなかった」
「もう、たくさんだわ」
 コステルは首を振った。
「あんたのその、騎士のまねごとのような偉そうなお説教は。私を苦しめるあんたの顔も、もう見たくない」
 短剣を握りしめたコステルが、一歩ずつ近づいてくる。
「……やめるんだ」
 しかし、もう何を言っても遅かった。彼女は無表情の顔に、恐ろしい決意の色を覗かせて近づいてくる。
 リュシアンは壁際に立ち、身構えた。足元で鎖が音を立てる。
 コステルが短剣を振りかざした。
「リュシ……アン」
「コステル!」
 振り下ろされる剣先を、リュシアンはかろうじて避けた。だが、つながれた鎖で足が突っ張り、前につんのめりそうになる。
「リュシアン!」
 コステルが飛び掛かってきた。
「よせ」
 短剣を持った彼女の手をなんとかつかむ。だが、剣先がかすかにリュシアンの腕を切り裂いていた。
「く……」
 右腕からだらだらと血が流れた。
「もう、やめろ……コステル」
「あんたなんか……あんたなんか!」
 ぽたぽたと流れ落ちる血を見て、興奮したコステルが叫び声を上げる。
「う……」
 切られた右腕に力が入らない。地下室での暮らしで体力が落ちていたこともあったろう。短剣を持ったコステルの手をかろうじてつかんではいるものの、それ以上の力が出なかった。
「殺すわ。あんたを殺して……私も」
 痛みと痺れで、リュシアンの腕はぶるぶると震えだしていた。
「やめ……ろ、コステ……」
 少しずつ、剣先がリュシアンの体に近づいてゆく。
(マリーン!)
 心の中でリュシアンは叫んだ。
 彼女に会うまでは、こんな所で死ぬわけにはいかない。その気持ちが彼を支えた。
「リュシアン!」
 悲鳴のような絶叫。
 自分を見る、そのまなざし。
 血走ったコステルの目には、例えようもない憎しみが浮かんでいる。
「……」
 何かに打たれたように、リュシアンははっとなった。
(……そんなに、僕のことを)
 純粋で無邪気だったあの少女を、自分のしたことでこんなにも変えてしまった。
(僕のせいで……)
(ああ……)
 泣きたいような、いますぐ謝りたいような衝動が、痺れる頭の中でよぎった。
 彼はふと、腕の力をゆるめていた。
(なら……仕方がないのかな)
 剣先が、リュシアンの胸に触れた。
「このまま……」
 つぶやいたのは彼だった。
 目を見開いたコステルが、その手に力を込めてくるのが分かった。
(ああ……分かったよ)
 リュシアンは目を閉じた。
(じゃあ、好きにしてくれ)
 心の中で、諦めかけた……
 その時、
「リュシアン!」
 大きな声と同時に、誰かが駆け込んできた。
 コステルの目がはっと見開かれる。
 彼女が振り向こうとした瞬間、体当たりをするようにして飛び込んできた者がいた。
「ああっ」
 悲鳴を上げて、コステルは床に倒れこんだ。その手から短剣が落ちる。
「大丈夫か?リュシアン」
「お、お前は……」
 目を開けたリュシアンの前に、心配そうな顔があった。
「フィ……」
 リュシアンは友人の名を叫んだ。
「フィッツウース」
「ああ、よかった。間に合ったか」
 ほっとした顔でそこにいたのは、まぎれもない彼の無二の親友、フィッツウースであった。
「お前……どうしてここに」
「それよりも、ともかくはこれをなんとかしねえとな。待ってろ」
 フィッツウースはかがみ込んで、リュシアンの足かせに鍵を差し入れた。
「そら、痛かったろう」
 鉄の足かせが外されると、リュシアンは自由になった足を嬉しそうに撫でつけた。
「ああ、我が左足よ。やっと俺のもとに戻ってきたか」
 足首には枷の跡が赤く残っていたが、ひどい痛みはなく問題なく動かせた。
「助かったよフィッツ。本当に助かった……ああ、こんなに自由が素晴らしいなんて」
 リュシアンは感極まって親友に抱きついた。
「まあそうだろうな。何日ここにいたのかは知らないけど。その様子だと、ろくなメシも食わせてもらえなかったようだしな」
「俺、そんなに痩せたか?」
「ああ。それに髭も伸びて、ワイルドでなかなかいい男だせ」
 フィッツウースはにやりと笑って、リュシアンの肩を叩いた。
「まあ、俺ほどではないがな」
 そう付け加えた親友に、リュシアンは小さな笑い声を上げた。
「ああ……でも、どうやってここへ?」
「まあ待て。それよりまず……」
 フィッツウースは、床に倒れたまままだ呆然としているコステルを指した。
「彼女をどうする?」
「……」
 リュシアンは落ちていた短剣を拾い上げた。コステルは、まだ何が起こったのか分からぬ様子でこちらを見上げている。
「あとで護民兵を呼ぶから、そのとき一緒に突き出すか?ロディって奴の方は上で縛ってあるから」
 フッィツウースの提案に、リュシアンは首を振った。
「彼女は……悪くない」
「ああ?だがよ、彼女はその短剣でお前を刺そうとしたんだろう?」
「ああ、でも……」
 首をひねる親友に、リュシアンは静かに言った。
「もう、いいんだ」
「……そうかい」
 フィッツウースはそれ以上は言わなかった。
 二人はそのままコステルを残し、地下室から出た。
「いやー、しかし危ないとこだったなあ」
 階段を登りながら、フィッツウースはあらためて安堵の表情で言った。
「まさか、こんなことになってるとは思わなかったぜ。第一、こんな地下室にお前が監禁されてるなんざ、夢にも思わなかったよ。おそるおそる上から暗い地下への階段を覗いてみたら、下から声が聞こえてきたんで、慌てて飛び込んだんだけどよ」
「ああ。ほんとに。助かった。一時はもう、このまま彼女に刺されてもいいかとも思ったんだけどね……」
「なに言ってる」
 リュシアンの言葉に、親友は笑った。
「そんなのは、こんな気が滅入るところに閉じ込められたせいで、心が疲れてたのさ。気にするな」
「ああ……そうかもな」
 階段を登ると扉があった。扉を開けると、そこはもう屋敷の一階だった。
 薄暗い地下室で過ごしていたリュシアンには、久しぶりに出られた明るい世界である。
「ああ……助かった」
 あらためて、リュシアンは神と親友に感謝をした。
「しかし、てめえの屋敷の中にこんな地下室があるなんざ、ろくでもねえ奴だな、ロディってやつは」
 地下室への扉を蹴りつけ、フィッツウースは言った。
「ところで、そのロディは?」
「ああ、奴ならそのへんの部屋に縛ってあるぜ」
 そう言ってフィッツウースは鼻で笑った。
「なんだなんだ、背はオレよりもでかいくせにまるで意気地がないやつでな。二三発殴ったら、もう泣きべそかきやがった」
「ロディのことは前から知っていたのか?」
「いや全然。なんかのパーティのときに一度くらい見たような気もするが、よく覚えてない」
「じゃあ、どうやってこの屋敷に?」
「ああ、三日くらい前だったか。お前がいなくなったらしいって話が俺のとこにも来てさ。それで、いろいろあたってみたんだが、友人たちはみんなことごとく知らないと言う。またマリーンのとこへでも行ったのかと思ったが、どうもそうじゃない気がした。なにしろモンフェール伯のことが……これはまあ、あとで言うよ」
 フィッツウースは意味ありげにいったん言葉を切り、それからまた話しだした。
「それじゃあ、あとはコステルくらいかと思って、今日になって彼女の屋敷に行ってみたんだ。そしたら、ちょうど目の前で彼女らしき姿が乗った馬車がさ、門を出ていったのよ。なんとなく気になったもんで、馬に乗ってその後を付けてったら、そう遠くない所にあるこの屋敷の前で止まったのさ。ここは、この国でも指折りの名家、ロスアード伯爵の屋敷だぜ」
「ロスアード伯爵……」
 リュシアンもその名には聞き覚えがあった。彼自身の家とは比べものにならない大貴族である。
「じゃあロディはそこの息子……」
「みたいだな。さあそれで、馬車から降りたコステルがこの屋敷に入るのを見て、俺もこっそりと後に続いておじゃましたのさ。離れだけあって、ほとんど人はいなくてさ、侍女や召使もここにはいないみたいだった。んで、適当に部屋を覗いたり、なにかないかと歩き回っていたら……驚いたことに、レナスと鉢合わせしてよ」
「レナスを知っているのか?」
「ああ。一応、やつも騎士見習いだしな。それにお前んとこのパーティにも来ていたぜ、確か。いつもいっちょまえに強がってるが、実際は気の小さい奴よ。さっきも、俺を見て驚いている奴をとっつかまえて、コステルのことを聞いたら、泣きべそをかきながらお前のことも白状してよ。そのあとは、地下室から上がってきたロディを叩きのめして……俺も騎士団の稽古の成果が発揮できたわけだ、うむ。あとは、お前さんを助けに参上、とまあ、こういうワケ」
「ああ……」
 リュシアンはその話を聞き終え、改めて親友の手を握りしめた。
「本当に助かった。このことは一生忘れない。いつか必ずこの借りは返すよ。僕に出来ることがあったら、なんでも言ってくれ」
「おいおい、大げさな……」
 フィッツウースは照れたように頭を掻いたて。
「それじゃ、お前が正騎士になったら、寄ってくる女の一人でも紹介してもらおうか」
「いいとも」
 二人は顔を見合わせ、笑い合った。

 屋敷の外に出ると、太陽がとてもまぶしかった。
「ああ、久しぶりの外の空気だ」
 リュシアンは大きく深呼吸をして、気持ち良さそうに体を伸ばした。
 晴れ渡った広い空を見上げていると、つくづく自由の素晴らしさが実感される気がした。
 さすがに名のある貴族の屋敷だけあり、広々とした庭園は緑に包まれ、整えられた芝生や植え込みなどが美しい。大きな噴水の周りには見事な円柱や、神々の彫像が並んでいる。
「まったく、こんな立派な屋敷にいながら、親と暮らすのはウザいってんで、離れを建てさせたんだろうよ。自分が好き勝手に暮らせる場所をな」
 フィッツウースはふんと鼻を鳴らした。
「親の前ではいいおぼっちゃんの顔をとりつくって、てめえが王様でいられる離れでは、地下室に誰かを監禁したりもする。知らぬは親ばかりなり、ってな。きっと、今までも女を何人も連れ込んでるんだろうぜ。……まあ、それについちゃあ、俺も人のことは言えないがな」
 フィッツウースはぺろりと舌を出した。
「そのへんに座ろうぜ」
 二人は庭園の芝生に腰を下ろした。
「そら、水だ。飲めよ」
「ああ、サンキュー」
 差し出された水筒に口をつけると、リュシアンはほっと息をついた。
「しかし、コステルはなんでこんなことをしたんだ?」
「……」
 リュシアンは黙って首を振り、
「悪いのは、俺だよ……」
 つぶやくように言うと、これまでのいきさつ……自分が再会したコステルを抱いたこと、それからの彼女とのやり取り、地下室でのことなどを、かいつまんで親友に話した。
「そうか……そんなことが」
 フッィツウースは、それ以上余計なことは言わなかった。普段は陽気でお調子者であるこの親友の、リュシアンにはそこが好きなところだった。
「いろいろあったんだな」
 それから、フィツウースは、むしろさばさばとした声で言った。
「さてと、で、これからどうする?とりあえず護民兵でも呼んで、奴らをしょっぴかせるか?といっても、大貴族ってのは、このくらいの事件じゃ、きっと金にものを言わせて簡単にもみ消しちまうだろうがな。しょうもない連中よ」
「ああ……そうだな」
 リュシアンはふと空を見上げた。
 夏の終わりを思わせる高い青空に、まるで竜のような形をした細長い巻雲が、ゆっくりと流れてゆく。
「……」
 この空は、湖畔の城にも同じく続いているのだろうか。彼がそう考えていることを知ってか、
「モンフェール伯は、亡くなったそうだよ」
 フィッツウースがぽつりと言った。
「何日か前に知らせが届いた」
「そうか……」
 そう言ったきり、リュシアンは黙り込んだ。
 様々な思い、さまざまな希望や、後悔や、怒りや悲しみ、やるせなさ……
 そんなものが、心の中を飛び交い、ありきたりの言葉にすることを許さなかった。
「……」
 しばらくの間、二人は並んで座ったまま、静かに空を見上げていた。
「フィッツ……」
 口を開いたリュシアンは、静かに親友の名を呼んだ。
「フィッツ。頼みがある」
 そう言った彼の顔は、穏やかな悲しみをまとわせてはいたが、その目には静かな決意の色を光らせていた。
「僕はもう大丈夫と、母と、それにレスダー伯夫人に告げて欲しい。きっと心配しているから」
「ああ、分かった。で、お前は」
「ああ」
 尋ねられる前から、彼はうなずいていた。
「行くのか?」
「うん」
 その頬のこけた横顔を見て、フィッツウースは心配そうに言った。
「大丈夫か?もう少し休んだらどうだ。その体で馬に乗るのは……」
「平気さ」
 親友を安心させるように、リュシアンは白い歯を覗かせた。
「いかなくちゃ。マリーンが」
「そうか……分かった。なら俺の馬を使え。後のことはまかせろ」
「うん。ありがとう」
 二人は立ち上がり、もう一度握手を交わした。
 門の前に、コステルが乗ってきた馬車が止められていた。御者席に人はおらず、車内にも誰もいない様子だった。そこから少し離れた場所に、フィッツウースの馬はつながれていた。
「大丈夫か?そらっ」
 フィッツウースの手を借りて、リュシアンはよろめきながらなんとか馬に乗った。
「無理せず。途中で休むんだぞ」
「ああ、サンキュ」
「気をつけてな」
 リュシアンの馬が走り出した。
 それを見送ると、フィッウースも自分の役目を果たしに、屋敷の方に戻っていった。
「さてと……まずはロディとコステルの様子でも見ておくか」
 だが、そのとき、フィッツウースは気づかなかった。
 リュシアンの馬が去っていった方向へ、それを追うようにして、黒い馬車が走り出したことを。
                   
 リュシアンは馬を走らせた。
 何日もの監禁生活で、体力はすっかり衰えてしまっていた。手綱を握る腕がすぐに痛くなり、鐙にかける足や膝にも、踏ん張るごとに痺れるような痛みが走った。
 それでも、昨日までの苦悶の日々を考えれば、そんな痛みなどはなんということもなかった。
(マリーン……マリーンに会いたい)
(会いたい!)
 彼を支えるのは、その強い気持ちだった。
 かつて、同じように夜通し駆け通した、湖畔への城へと続くこの山道を、リュシアンは馬を走らせ続けた。疲れ切った体をこらえながら。手綱を握りしめ、口許を引き結んで、彼は駆け抜けていった。
 途中、一度だけ馬を下りて休憩をとった。さすがに、駆け通しでは体力が続かない。リュシアンは土の上に腰を下ろし、額の汗をぬぐった。水筒に口を付けると、生き返る心地がした。
「よし」
 再び馬にまたがると、今度はやや気を落ちつかせるようにして手綱をとった。なにも急ぐ必要はないのだ。ただ、どうしようもなく心が急いてしまうだけだ。
 彼女の顔を見るために。
(もうずっと……長いこと会っていなかったような気がする)
 実際には、十日あまりしかたってはいないはずだったが、今のリュシアンには、それは何月にも感じられるような日々だったのだ。
 丘を越える林の中の道を、彼の馬は登ってゆき、そして下り、また登った。

 ようやく眼下に湖畔の城が見えたのは、西の空が残照の光に赤くなりはじめる頃だった。
 衰弱した体で長い間馬を走らせて、リュシアンは半ば、馬の首にしがみつくようにぐったりとなっていた。
 最後の力を振り絞って手綱を握る。
(マリーン……来たよ)
 これまで何度となく通った、山道から湖畔へ続く道を、リュシアンはかつてないような気分で眺めた。
(ああ……綺麗だ)
 西日を受けて、きらきらと湖面を輝かせるその湖は、彼とマリーンとをつなぐ鏡の回廊のように見えた。
 そんなことを考えたのは初めてであった。あるいは、朦朧とした頭の中で、リュシアンにはこの景色に映すべき、様々な思い出が脳裏によぎっていたのだろう。
 疲れ切った主を乗せる、馬の方もまるでよろめいているような様子で、彼らは湖畔の城の門をくぐった。
「マリーン……」
 庭園をゆく馬上から、白壁の屋敷を見上げて、リュシアンはその名を呼んだ。
 そのつぶやきが聞こえたはずもないが……
 彼の馬が止まろうとする前に、屋敷の扉が開かれた。
「リュシアン!」
 その声……
 リュシアンは馬上で顔を上げた。
 黒い服を着た女性がこちらに走り寄ってくる。  
「ああ……」
 よろめくようにして、彼は馬から降りた。
「マリーン……」
 その名を呼ぶと、やっとたどり着いたという大きな安堵が、彼の中に広がった。
「リュシアン……リュシアン」
 近づいてきたはずの彼女の声が、また遠のいてゆく……
「マリーン……」
 自分ががくりと膝をついたことに、リュシアンは気づかなかった。その顔には、かすかな微笑みを浮かべたままで。
「リュシアン」
 倒れ込む彼の体を、ふわりとマリーンが抱きとめた。
「ああ……マリーン」
 腕の中でかすかに目を開き、もう一度つぶやく。
「来たよ……」
 そのまま、リュシアンは気を失った。


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