続・騎士見習いの恋  8/10 ページ

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 敵を前にしてもし空腹であればよく戦うにあたわず、というカルードからの教えを思い出し、リュシアンは与えられたパンをたいらげた。
 理由も分からず捕らわれの身になり、さらに餓死したとあっては、いくらなんでも騎士としての面目がたたない。とにかく、今はなるべく体力を整えて、逃げ出す機会をうかがおうと、そうリュシアンは考えていた。
(くそ……なんとかしないと)
 薄暗くなった地下室の壁に寄り掛かって座りながら、リュシアンは考えた。手足が自由になったぶん、こうして腰を下ろしている分には、いままでよりはずっと楽なのがまだありがたい。
(レスダー伯爵夫人も、きっと今頃心配しているだろう。それに僕が突然いなくなったということは、いずれ母様にも連絡がいくだろう。もしかしたらマリーンにも……)
 あまり事が大きくなっては、皆にいらぬ心配をさせてしまう。なんとか、ここは自分一人で早く抜け出したい。
(いったい今は何時くらいなんだろう。もう昼すぎくらいかな)
 すでに室内は暗くなり、格子のついた小さな窓からは、もうほとんど光は入ってこなくなった。しだいに時間の感覚が麻痺してくるような心地に、リュシアンは内心で恐怖を覚えた。
(くそ……とにかく、これが外れれば)
 足にはめられた鎖が、なんとか取れぬだろうかと調べてみる。だが、鎖は頑丈で、壁に繋がった鉄輪は鍵穴でしか開けられないようになっている。当然ながら、引っ張ってみてもびくともしない。足首が枷に締めつけられて痛むだけだった。
(ちくしょう。どうすればいいんだ。このままじゃ……)
 こうして繋がれたままでは、いくら若いリュシアンでも、少しずつ弱ってゆき、いずれは死を待つだけの囚人のように朽ちていってしまうだろう。
 それは、彼にすれば今までに味わったこともない恐怖であった。
「……くそっ!」
 リュシアンは立ち上がると、やみくもに叫びだした。
「出せっ、僕をここから出せよ!ちくしょうっ、おおいっ!」
 だが、その声はどこまで聞こえているものか……いっこうに誰かがやってくるような気配はない。
「おおいっ、誰か……いないか」
 今度は後ろを向いて、格子の窓に向かって叫んでみる。
「おおい!おおおい!」
 あの窓の外はどうなっているのだろう。誰か人が通りかからないものだろうか。
 だが、そんなかすかな期待も、しばらくの静寂のあとにはすっかり消えてしまった。
「ちくしょう……」
 近くには誰も、リュシアンの声に気づくものはいないようだった。
 もしかしたら、この屋敷の敷地は相当に広く、滅多なことではこの地下室の近くを人が通ることなどはないのかもしれない。それに、この屋敷の人間であるなら、皆あの男の言うことを聞くだろう。たとえ自分がここに捕らわれていることを知ったとしても、誰も助けてはくれないような気がする。
 叫び疲れたリュシアンは、また壁ぎわに腰を下ろした。
「くそ……。あいつはいったい誰なんだ。なんで僕をこんな目に……」
 男が言ったのは、自分がマリーンと別れて屋敷から出てゆけばいいということだが……どうもそれだけではないようだ。
(あいつは変だ。どこか……なにかがおかしい気がする)
 それは騎士としての勘であったかもしれない。
(だいたい、あいつはマリーンを自分のものにしたからと言うけど、第一、今はそのマリーンは湖畔の城に帰っているのだし)
 もちろん、男はそのことを知らないのかもしれない。だが、それにしてもこんな方法で、自分を脅迫したところでいったい何になるというのだろう。それが、いま一つ理解できないのだ。
(僕が屋敷を出てゆくと言っても、あいつはすぐには放してくれない。きっとそんな気がする)
 考えられるのは、マリーンとのこと云々ということよりも、むしろ奴の目的がはじめから自分を捕らえることで、こうして監禁することそのものが狙いだったとしたら……
(そんなことが……)
 リュシアンはぶるっと体を震わせた。
(くそ。なにを怖がっている。もうすぐ正騎士となる人間が)
(そうだ。こういうときこそ、騎士らしく、誇りを持ってふるまうんだ。カルードもそう言っていた)
 自分自身に言い聞かせるように、リュシアンはぐっと拳を握りしめた。
(よし。戦うんだ……誇りをもって)
 だが、今のところは、なにも出来ることはなさそうだった。空腹が満たしたこともあってか、しだいに眠気がやってきた。
 ひとつあくびをすると、
「なるように……なるさ」
 そうつぶやいて、リュシアンは壁に寄り掛かったまま、うつらうつらとしだした。
 地下室の時間は、しばらく音もなく、薄暗くそして、ゆるやかに流れていった。

 自分が眠っていたのかどうかも、よく分からなかった。どこかでかすかな物音がしたような気がした。
「んん……」
 目を開けると、室内はすっかり暗くなっていた。今が夕方なのか、それとも夜なのか、元々が薄暗い地下室では判然とはしなかったが、かすかに涼しい風が格子窓から入ってくるのが、なかなか気持ち良かった。
 物音がしたと思ったのは、気のせいらしい。またうつらうつらと、リュシアンのまぶたが閉じかかった。
「リュシ……アン」
 どこかで女の声がした。
 夢の中なのか、それとも現実なのか……自分を呼ぶ声が。
「リュシアン……リュシアン」
 しだいに、声ははっきりとしてきた。
 それもすぐ近くで……若い女の声だ。
 自分を呼ぶのは誰なのだろうと、リュシアンはぼんやりとした頭で考えた。
「誰……?」
 薄く目を開くと、目の前に人影があった。
 ふわりとした香水の匂い……
「ああ、マ……」
 マリーン、と言いかけて、リュシアンは口を閉じた。
 眠っていた頭が、しだいにはっきりとしてくると、暗がりの中で、自分を覗き込んでるいる姿が見えた。
「あ……き、君は……」
 リュシアンはその女性をよく知っていた。
「気づいた?リュシアン」
 心配そうにこちらを見る眼差し。
 暗い室内でもそれと分かる、蜂蜜色の金髪が、さらりとリュシアンの鼻をくすぐる。
「コ……コステル?」
「そうよ。リュシアン。私よ」
 驚くリュシアンを見て、彼女はにこりと笑った。目の前に立っていたのは、まぎれもなくコステルに違いなかった。
「どうして……君がここに」
「しっ、あまり大声を出してはダメよ」
 彼女は周りを気にする様子で、唇に手を当てた。
「実はね、ここは私の友達……いいえ、正確にはお知り合いの家なの。私の家とは昔からお付き合いがあった家系で。ここの息子さんのロディとはね、ときどきお話をするくらいのお友達だったの」
「ロディ……」
 リュシアンはその名をつぶやいた。
 自分を見下ろして嘲笑し、罵倒した……あの悪魔のような若者。
「それが、あいつの名なのか」
「ええ。今日はたまたま、私がこの屋敷に遊びに来ていたのだけど。さっきちょっと裏庭をお散歩していたら、どこかからあなたの声が聞こえたのよ。はじめは信じられなかったけど、そばにあった格子の窓から覗き込んでみたら、この地下室に誰かが捕まっていたわ。よく見ると、リュシアンそっくりで……私、びっくりして。どうしていいかわからなくて。それから、すぐにロディに呼ばれたから、彼にはなにも知らないふりをしていたわ」
「そうだったのか……」
 リュシアンは呻いた。
「それからね、また少しして頃合いを見計らって、地下室の鍵を見つけて、こうしてきたのよ。彼に見つからないようにするのは大変だったわ」
 そう言って微笑んだコステルが、彼には天使のように見えた。
「でも、ああ……リュシアン。良かったわ。会えて、よかった……」
 彼女は、覆いかぶさるように抱きついてきた。
「コステル」
「リュシアン……ああ。会いたかった!」
 花のような香水の香りと、やわらかな体の感触が彼を包み込んだ。
「会いたかったの。心配もしたわ。たくさん……たくさん心配していたわ」
 耳元で囁かれる優しい声に、リュシアンは陶然となった。
「ありがとう。コステル……」
「ああ、リュシアン」
 コステルがゆっくりと顔を近づける。
 バラ色の頬と、可愛らしい唇を目の前に、リュシアンはなんとか自制した。
「コステル……だめだ」
「リュシアン……」
 そっと抱擁をとくと、彼女は立ち上がった、その顔をわずかに悲しそうにして、うつむく姿がいじらしい。
「……ごめんなさい。こんなときに。私……」
「いや……いいんだ」
 リュシアンはやさしく首を振った。
「私……とっても、あなたに会いたくて。それが、こんな形でリュシアンを見つけられたから。それが嬉しくて……それで」
「ああ。ありがとう。偶然とはいえ助かったよ。君が来てくれて、僕も嬉しい」
 リュシアンの言葉に、コステルはぱっと顔を輝かせた。
「本当?良かった」
 そうしてにこりと笑った彼女は、かつてのあの無邪気なコステルの顔であった。
「ああ、リュシアン……大好きよ」
 再び抱きついてくるコステルを、今度はもぎはなすのも可哀相かと、軽く抱きしめてやる。すると、彼女はますます体を押しつけてきた。
「リュシアン。はあ……ん」
「コステル……」
 薄暗い地下室で、鎖につながれたままで女と抱き合っている自分。
「ああん……リュシアン」
 喘ぎにも似た色香を含んだコステルの声と、やわらかく押し当てられる肉体の感触……
 リュシアンの中で、倒錯的な欲望がふつふつとこみ上げてくる。
「う……、もうだめだよ。コステル」
 リュシアンは自制心を振り絞って、なんとかもぎはなそうともがいた。だが、コステルはそれを許さなかった。体をくねらせるようにして絡みついてくる。
「ねえ……リュシアン。キスして」
 コステルが耳元で囁く。
「コステル……」
「お願い。ねえ……」
 ねだるような甘い声が、リュシアンの体から力を抜く。
「ダメ……だよ」
 そう言いながらも、己の意思に反して若い体の方が勝手に反応してゆく。
「いいでしょ?ね……。リュシアン……」
 再びコステルの顔が近づけられる。
 今度は抗えなかった。
「ん……」
 やわらかな唇の感触……それが一瞬、リュシアンの欲望に火をつけかけた。
「コス……テル」
 そのとき、
 ガチャン、と荒々しく扉が開かれ、
「お前ら、何をしている!」
 怒鳴り声とともに、男が入ってきた。
「きゃあっ、ロ、ロディ……」
 悲鳴を上げるコステルに、ずかずかと男が近寄ってきてその腕をつかむ。
「痛いっ、なにするの……放して」
「俺の知らないところで、いちゃいちゃとしていやがったな!」
 男は昨日とは別人のように、眉間に皺を寄せた獰猛な顔つきで、二人を睨んだ。
「この浮気女が!」
「リュシアンにこんなことをして……どうしようっていうの」
「うるさい。お前には関係ない!」
 つかまれた手首を引っ張りあげられ、コステルは悲鳴を上げた。
「やめろ!」
 リュシアンは男に向かって叫んだ。
「コステルを放せ。乱暴なことをすると許さないぞ」
「ふん。許さない、だって?へえ……どう許さないっていうんだい?その鎖につながれた恰好で」
 男は馬鹿にしたように言うと、コステルを乱暴に抱き寄せた。
「いやっ。放して!」
「へへっ、こんなことをすると、許さないってことか?ええ」
「やあっ……やめて」
 抵抗するコステルを弄ぶように、男は服の上からその体をまさぐりだした。
「いや。やめて、ロディ!」
「へっ、お前だって、本当は俺にこうされたいくせに」
「いやよ。私は……あんたなんか!私が好きなのはリュシアンなんだから」
「じゃあ、いいかげんその体に教え込ませてやるよ!」
「きゃあっ」
 男はコステルの体を軽々と抱え上げると、寝台の上に乱暴に放り投げた。
「やめろっ」
 リュシアンは男に飛び掛かろうとしたが、鎖でつながれた足かせがそれを許さなかった。
「へへへ。どうした?届かないなあ。ここまでは」
「くそっ」
 こんなに近くにいても、自分にはコステルを助けることすらできないのだ。リュシアンは悔しさに歯噛みした。
 男はコステルに向き直った。
「さて、コステル。勝手なことをした罰だ。好きな男の前で……お前を犯してやる」
「いやっ。やめてっ!」
 寝台の上であとずさるコステル。男はその足を捕まえて引き寄せた。
「ほら、おとなしくしろ」
「いやあ……ロディ、やめて。こんなこと」
「何を言ってやがる。お前だって、本当はしたいくせに」
 欲望に目をぎらつかせ、男は嫌がるコステルの体にのしかかってゆく。
「嫌あ!助けて……リュシアン!」
「コステル!」
 リュシアンには叫ぶことしかできなかった。
「やめろ!」
「ふん」
 男はにたりと笑い、コステルの腕を押さえつけると、その服をはぎ取りはじめた。
「嫌っ、嫌よう。ああ……私。リュシアぁン……」
 その目に涙を浮かべ、自分の名を呼ぶコステル。その姿はたまらなくいじらしく、不憫だった。
「コステル……コステルっ!」
 リュシアンは絶叫した。
「ほらっ。おとなしくしてろ。すぐそばでお前の大好きな男が見ているぞ。これから俺とお前が愛し合うところをな」
「嫌ぁ……」
 男の手が、荒々しくコステルの胸元をまさぐってゆく。まくり上げられたスカートから、白いペティコートと太腿が覗いた。
「……」
 リュシアンはたまらず目を背けようとしたが、コステルの悲鳴に引き寄せられるように、また彼女の姿を見つめずにはいられないのだった。
「よーし。いい子だ。これからもっと良くしてやるからな」
「ああ……いやぁ」
 男にのしかかられて、しだいにコステルの抵抗は弱々しくなっていった。
「そら、いくぞ」
 男の体が、コステルの足を押し広げる恰好で割り入った。
「ああっ、いやっ」
 コステルの体がぴくんと跳ねた。
「そら、もっとだ」
「ああっ!」
 体をのけ反らせたコステルが、苦悶の表情で寝台のシーツをつかんだ。
「へへ。いいぞ……そら、そらっ」
「あっ、ああっ、やっ……」
 男の体が動きはじめると、それに合わせてコステルの口から喘ぎが漏れだした。
「どうだ?いいのか?」
「ああ……いや」
 弱々しく首を振るコステル。
 だが、それでもしだいに、彼女の顔からは苦悶の色が消えてゆき、代わりにその頬が火照ってゆくのが分かった。
「コステル……」
 男と抱き合うコステルを目の前にして、リュシアンは心が痛いような気分だった。
「……」
 だが一方では、彼自身は認めたくはなかったが、恥ずかしそうにその頬を染めながら可愛らしい声で喘ぐコステルの姿に、どこかで興奮を覚えてもいた。
(くそ……俺は、俺は……)
 リュシアンは血が出るほど、自分の唇を噛みしめた。
「そらっ、もっとか?」
 男が激しく体を動かすと、その度に彼女の白い体がのけ反り、その口から悲鳴にも似た喘ぎが上がる。
「ああ……あっ」
「いやぁ……ああっ」
 しがみつくようにして、男の背に手を回すコステル。その姿に、リュシアンはたまらない嫉妬心を感じた。
「へへっ。たまらねえ。やっぱりお前の体は最高だ」
 男のいやらしい言葉にいやいやと首を振りながらも、コステルの表情にはすでに、明らかな快感の色が見えはじめていた。
「あんっ、リュシアン……リュシアぁン」
 他の男に貫かれながら、甘い声で自分の名を呼ぶ。快楽と苦痛の中間のような、コステルの表情がひどく艶めいて見えた。
 リュシアンは知らず、己の体が欲望に火照っているのを感じた。男への憎しみ、嫉妬……そしてコステルへの複雑な思いに、胸が苦しく、狂いそうなほどだった。
「……」
 ふと扉の方を見ると、今まで気づかなかったが、そこにレナスが立っていた。彼の方もリュシアンと同じく、その顔を興奮に火照らせて、寝台の二人を食い入るように見つめている。
(あいつ……)
 リュシアンには分かった。
 寝台の方を向いて、ときおり苦悶と嫉妬に表情を歪ませている、レナスの気持ちが。
(あいつもコステルを……)
 寝台の男の方は、そんなレナスの視線などには気にもとめぬ風に、一心にコステルを責め続けていた。
「さあて、お前のコステルはこんな風に俺の下で喜んでいるぞ。どうだ、お前も仲間に入りたいか?」
 体を動かしながら、男はリュシアンの方を振り返って言った。
「この女は見てのとおり淫乱でな。なんだかんだいいながらも、最後はこんなふうに、気持ち良さそうに声を上げはじめるんだ」
「もうやめろ。コステルを放せ」
「そうはいかんな」
 男は乱暴にコステルの金髪をつかんだ。
「きゃあっ、痛いっ」
 悲鳴を上げるコステルを見て、リュシアンは叫んだ。
「やめろ!」
「ふん。どうする?お前次第だぞ」
「僕に……どうしろって言うんだ」
「なに簡単さ」
 いった動きをとめ、男はにやりと笑った。
「昨日も言ったろう。すぐにあの屋敷を出て、マリーンと別れろ」
 毒々しい笑いを浮かべて、男は言った。
「彼女は俺がもらう。そうだな……代わりにお前にはコステルをやろう。それがぴったりだ」
「なにを馬鹿なことを」
「コステルが嫌なのか?」
「そんなことを言っているんじゃない」
 リュシアンは鎖につながれたまま男を睨みつけた。
「どうしてお前の言うとおりにしなくてはならないんだ。馬鹿らしい」
「……そうか。なら……こうだ!」
 男は再びコステルに覆いかぶさると、いっそう激しく体を打ちつけ始めた。
「ああっ、いやっ、いやっ……あああっ」
 痛々しいコステルの悲鳴が地下室に響きわたる。
「くっ、やめろ!卑怯者!」
「卑怯結構。いいぞう……コステル。そら、もっと、もっと声を出せ!」
「いやあ!」
「ああ、見ないで……リュシアン」
 薄く目を開いたコステルが小さく言った。
「コステル……」
「私なんか、もうどうなってもいいんだわ……」
 そうつぶやいたコステルの目から涙がこぼれた。
「コステル。どうしてそんなことを」
「だって、リュシアンは……マリーンさんのことを。だから私なんて……」
「そんな……」
「ああ、そうだとも。この見習い騎士野郎はな、お前を裏切り、年上の女の色香に狂ったんだ。そうさ。見かけはご立派な騎士のふりをしているが、中身はただの色情狂なのさ!はははっ」
「黙れ!」
 男の言葉にリュシアンは眉をつり上げた。
「お前になにが分かる!」
「ああ、分かるとも。お前はただマリーンの体が欲しくてたまらず、その身代わりにコステルを弄んだのさ。違うか」
「違う。俺はそんな」
 ぎゅっと拳を握りしめ、リュシアンは首を振った。
「お前も俺も、同じなんだよ。ただ女の体が欲しくて、嘘をついて偽って、恰好をつけたがる、外づらだけいいガキなのさ!」
「違う……俺は」
 それ以上は言葉が出なかった。男の言葉を真っ向から否定したいのに、その言葉が出てこない。
「そら、どうする。騎士見習い殿!」
「リュシアン……助けて。お願い」
 男の罵声と、コステルの哀願の囁きが、リュシアンの耳を切り付けるようだった。
「ああ、俺は……そんな」
 たまらず、リュシアンは寝台から目をそらした。
「ねえ、お願い……リュシアン。少しでも、私のことが好きだったのなら」
「そうだ。お前がひと言言えば、なにもかもうまくいくんだぞ。マリーンと別れると。コステルはこんなにも、お前のことを愛しているんだぞ」
「……う」
 リュシアンは頭を抱えた。
「リュシアン……好きなのよ。あなたが」
 コステルの声が、痺れるような頭に響く。
「言って。ねえ、お願いだから、言ってちょうだい。屋敷を出て、私の所に来るって。私を愛しているって」
「そら、早くしないと。コステルの体がめちゃめちゃになっちまうぜ!いいのか」
「く……や、めろ」
 苦しそうにリュシアンは呻いた。
「ねえ、私を見殺しにするの?他の男に弄ばれている私を、そのまま放っておくの?私を……嫌いなの?」
「違う。そうじゃない……でも」
 苦悶の表情でリュシアンは首を振った。足かせの鎖がじゃらじゃらと音を立てる。
「じゃあ、どうして?」
「……」
「ねえ、私を助けて。私と一緒になってよ。私を抱いてよ。リュシアン!」
「だめだ!」
 たまらずリュシアンは叫んでいた。
「……すまない。でも、だめなんだ。コステル」
「なにが……ダメなの?」
 コステルの声が泣き声まじりになった。
「どうしてだめなの。私をそんなに嫌いなの?こんなことをされている私を平気で見捨てるくらい。ひどい……ひどいわ」
「ごめんよ……コステル」
 苦しそうにリュシアンは顔を上げた。
「君のことは、好きだった。本当だよ。でも……僕は」
「マリーンさんのことが、好きなのね」
「すまない。こんなことで偽っても、結局は何も変わらない。僕は、マリーンが……マリーンだけが……」
 かすれるような声で、リュシアンはつぶやいた。
「ごめんよ。君とのことは、本当に……、ごめん」
「リュシ……」
 いつの間にか、
 泣き声も喘ぎ声も、それに男の罵声も、部屋からは消えていた。
 あるのは、しんとなった奇妙な静寂。それが、この地下室を支配していた。
 何かが、変わろうとしていた。
「……そう」
 静かな声だった。
「そう。分かったわ」
 ひどく淡々とした声が、コステルの唇からもれた。
「なら、仕方ないわね……」
 いままで、男に組み敷かれ、泣き声を上げていたはずの少女は、いまや、まったく別の人間になってしまったかのようだった。
「ロディ……どいてよ。重いから」
「あ、ああ……」
 男が体をどかす。
 コステルは寝台の上からじっとリュシアンを睨んでいた。
「コステル……」
「……」
 自分を見るコステルの顔つきが、さきほどまでとまったく変わっていた。その目は鋭く細められ、どこかに蔑むような嘲笑の色が込められていた。
「なんて馬鹿なのかしら」
 コステルはくすりと笑い、困惑に顔を曇らせるリュシアンを見て言った。
「私も。そしてリュシアン、あんたもね」
「コステル……」
 リュシアンは呆然と、目の前の女を見つめていた。それがコステルだと信じていた、その少女を。
「……どういうことだ」
 そうつぶやくのが彼には精一杯だった。
「まだ分からないの?リュシアン」
 今や、この地下室の主導権は完全に逆転していた。
 ついさきほどまで力ずくでコステルを犯していたはずの男は、今はその彼女の横で、まるで姫君を見るような目をして、おとなしく座っている。
「さっきのは全部演技よ」
「な……」
 リュシアンは言葉を失った。
「どうして……」
「どうして、ですって?」
 コステルは寝台から立ち上がると、服を乱された半裸の姿のままリュシアンを見下ろした。
「これはね、復讐よ」
「復讐?」
「ええ。あんたと、マリーンへのね」
 リュシアンは眉を寄せた。
「どういう……ことだ」
「どうもこうもないのよ。お馬鹿さん」
 かつての可愛らしいコステルからは似てもつかない、毒々しい笑いが、彼女の口元に登った。
「あんたはね、私を裏切ったのよ。分かってるの?あれだけあなたを信じ、あなたを愛していた私を!」
「だから、それはすまなかったと……」
「そんなことで済まされないわ」
 そう言ってコステルは床に降り、つかつかとリュシアンの前に歩いていった。
「あの純粋な私の恋を裏切った。あなたに何もかもを捧げようと……そう処女まで捧げようとした私の心を、あんたは弄び、そして捨てていってしまった。あのときの私の悲しみは分からないでしょうね」
「ごめんよ……」
「私は死のうと思ったわ」
 コステルは眉をつり上げ、正面からリュシアンを睨んだ。
「あのとき、ベッドの上に一人取り残され、あなたの出ていった扉を見つめながら、私は呆然として動けなかった。ただ、涙だけがいつまでも流れていた。悲しくて、苦しくて、どうしようもなかった。あなたが、きっと戻ってきてくれると……私はそう思って、いつまでも待ちつづけたわ」
「……」
「でも、あなたは帰ってこなかった。後で知ったのよ。あなたがまだずっとマリーンさんを好きだったことを。あの人の身代わりに私をおもちゃにしていたことを」
「違う。それは違うよコステル」
「なにが違うのかしら?」
 コステルは笑うような顔をして、鎖につながれたリュシアンを見た。
「だって今さっき、聞かせてもらったじゃない。あんたはやっぱりマリーンが好きで、私のことなどはいくらでも見捨てたってかまわないって」
「コステル……」
「はっ。男ってのはみんなそう。ただ女の体だけが目当てで、アレをしてしまえば、あとはただのモノ扱い。男なんて、誰もかれも……死んでしまえばいい」
 憎々しげに、コステルは吐き捨てるように言った。
「じゃあ、君は……コステル。君は最初からあの男とグルだったのか。僕をここに閉じ込めるために……」
「ええそう」
 にこやかに彼女はうなずいた。
「彼はロディ。私の男よ。なかなか恰好いいでしょう?背はあんたより高いし」
「……どうして、こんな馬鹿なことを」
「馬鹿はあんたも同じだわ。私がこんなに愛しているのにね」
 そう言うとコステルは、体に残っていた服を脱ぎ捨てた。白い裸体が地下室に浮かび上がる。
「ねえ。私の体……綺麗?」
「……」
「なんなら、このまま私を抱いてもいいのよ。ロディとしてるところを見て、あなたも興奮してたでしょ?」
 淫らに体をくねらせ、コステルがにじり寄ってくる。
「ねえ。抱いてよリュシアン。そうしたら許してあげる。私を抱いて。今日も明日も。そしてらもう、全部許してあげるから」
「や、やめろ……」
 リュシアンはコステルの体から顔をそむけた。
「どうして?抱きたくないの?私を好きにしていいのよ。あんな年増の人妻なんかより、ずっといいでしょ。ねえ……」
「やめろよ、コステル!」
 彼はほとんど突き飛ばすように、コステルをもぎ離した。
「……」
 コステルの顔つきが変わっていた。その目がひどく血走り、ひきつった表情を浮かべ、リュシアンを睨んでいた。
「ああそう……」
 氷のような冷たい声で彼女は言った。
「わかった。じゃあ、ずっとこの地下室で飼ってあげるわ。死ぬまでね……ロディ」
 男の名を呼ぶと、彼女は再び寝台に上がった。
「めちゃくちゃにしてよ。彼に見せつけてやりましょう」
「ああ、分かった」
 男がコステルに覆いかぶさる。
 それから室内には、またしても淫らな喘ぎと、息づかいとがたちこめていった。
 鎖につながれたまま、リュシアンは耳を覆った。
 怒りや悲しみ、後ろめたさ、恐怖……それらの入り交じった、とても不快な感情が、彼自身と、そしてこの地下室とに充満してゆく。
 こみ上げてくる吐き気をこらえながら、リュシアンは目の前で絡まり合う肉体から目をそむけ続けた。



「奥様、マリーン様!」
 切迫した侍女の声を聞き、マリーンは寝台から飛び起きた。
 急いでローブを羽織り、扉を開けると、侍女のクインダが立っていた。
「どうしたの?伯爵になにか?」
 うなずいた若い侍女の顔には、連日の看病のためか憔悴の色が見える。
「ええそれが、また発作が……」
「分かりました。部屋に行くから。先生を呼んできて」
「はい」
「ああ、それから……」
「はい」
「私は少し寝かせてもらって、もう大丈夫だから、先生を呼んできたら、あなたも少しお休みなさい。いいわね」
「はい。奥様」
 侍女が早足で廊下をかけてゆくのを見送り、マリーンは髪を後ろにゆわえると、廊下を歩きだした。
 夫である伯爵の部屋は、病状が悪くなってからは、医者からの勧めもあって、風通しがよく、よく日も当たる、二階の南側の部屋に移されていた。
 マリーンが部屋に入ると、ひどく苦しげな息づかいが妻の顔を曇らせた。
「伯爵……あなた」
 声をかけても返事はない。
 寝台からはただ、ハッハッ、という苦しそうな息づかいと、それに混じって喉からの呻きのような低い声がするだけだ。
 マリーンは燭台を手に寝台に近寄った。
「あなた。大丈夫ですか?あなた」
 寝台の上で、痩せこけた伯爵が苦しそうに身悶えていた。
 燭台を横に置くと、マリーンは夫の体をさすり、額の汗を拭いてやった。
「あなた、お苦しいですか?」
 伯爵は、妻の声が聞こえているのかどうか、苦しそうな息をはき、ただぶるぶると体を揺らせている。
 モンフェール伯の容体が悪化してから今日で六日ほどになる。その間、ゆっくりと休めた日はマリーンにはほとんどなかった。
 侍女と交代で看病をし、伯爵の発作が起きるたびに、今や住み込んでもらっている医者を呼びにゆくのも、日に何度もあった。彼女はそうして、苦しそうな伯爵を、その容体が安定するまで見守り、ときどき体の汗を拭いて、安心させるように話しかけ続けなくてはならないのだ。
「あなた。大丈夫ですよ。そばに私がついていますからね」
 マリーンは必死に、耳元で夫を呼び続け、その手を握りしめて、意識のない夫を勇気づけた。自分に出来ることはそれくらいしかないのだと、彼女にも分かっていたからだ。
「奥様、先生をお連れしました」
 侍女のクインダが、医者をともなって部屋に入ってきた。
「夜分に恐れ入ります、先生。クインダ、あなたはもういいから、休みなさい」
「はい。それでは失礼いたします」
 頭を下げて侍女が下がってゆく。
「先生、よろしくお願いします」
「うむ」
 今では、屋敷のかかりつけの医師となった白髪の医者は、寝台の横に座り、苦しそうに息をする伯爵の脈をとった。
「ふむ。脈はいつもとあまり変わらんな……どれ」
 そう言って医者は立ち上がり、伯爵の胸元に手を入れた。横からマリーンが夫の体を支える。
「ううむ……なるほど」
 伯爵の胸や腹などを念入りに触りながら、医者は低くつぶやき、何度かうなずいた。
「どうでしょうか?」
 心配そうに見つめるマリーンに、医者は首を振ってみせた。
「あまり、よろしくはありませんな。見てのとおり。しかも、どうやら肺の方にも病気が進行しているようだ」
「そんな……」
 表情を曇らせたマリーンは、横たわった夫の姿を見つめた。
 伯爵の体はひどく痩せ細り、あばらにはくっきりと骨が浮かんでいた。その肌は黄色ばんでかさかさに乾き、そして血色も悪い。一日ごとに容体が悪くなっているということは、見た目にも明らかに思えた。
「昨日あたりから、たとえ発作が治まっても、ほとんど食べ物は食べられない、そうでしたな」
「はい。なんとか、スープでもと、飲ませようとしても、すぐに戻してしまって」
「無理もない。こうしてときおり、かろうじて目の玉は動いてはおるが、意識はほとんど混濁しておるようだ」
「ええ……」
 一昨日あたりから、伯爵が声を発する回数がめっきりと減ったことにもマリーンは気づいていた。それまでは、自分の顔を見て、かすれる声でなんとか名前を呼んでくれたりしていたのだが。今ではもう、部屋に入っていっても、まるで自分の姿にも気づかない様子なのだ。
「ただ、こうして苦しそうに息をしているだけで、なにも食べられず、このまま……夫は痩せてゆくばかりなのでしょうか」
「わしにも、手のほどこしようがない。残念ながら」
「そんな……」
 マリーンは声を詰まらせた。
「こんなことは言いたくはないが……もって数日、というところだろう」
「数日……」
 医師の宣告に、マリーンはその場で気を失いそうになった。
「しっかりしなさい。ここであなたまで倒れたら、どうしようもない。なるたけしっかり休んで、食べて。いいかね」
「はい」
 伯爵の発作はようやく治まりつつあった。ぜいぜいという息づかいも小さくなり、痙攣するように震えていた体も、今は寝台の上で静かに横たわっている。
 マリーンは寝台の横に腰掛けて、夫の手をとった。
「ここはもう別の侍女にまかせて、休まれたらどうかね」
 医師の言葉に、マリーンは首を振った。
「いいえ。今日は、朝までいさせてください。大丈夫ですから……」
「そうか」
 沈痛な面持ちでうなずくと、医師は無言で部屋を出ていった。
 室内は二人だけになった。
「あなた。私はここにいますよ。安心してください」
 すっかり細くなってしまった夫の手を握りながら、マリーンはそうつぶやいた。寝台の上の伯爵は、さきほどまでの発作が嘘のように、今は静かに寝入っている。
 マリーンはそっと、燭台の火を吹き消した。
 翌朝、彼女は不思議な体験をした。
 目の前で寝ていた夫の目が開き、ほのかに笑みを浮かべた夫が、ひそやかに自分の名を呼ぶのを聞いたのだ。
 それは夢だったのだろうか。
 彼女がもう一度目覚めたときには、伯爵は昨夜と同じく、目を閉じたまま、土気色の顔をして寝台に横たわっていた。
 マリーンはやや落胆しながら、朝日の差し込む室内を見渡し、それから侍女を呼んだ。
「奥様。おはようございます」
「おはよう。クインダ」
 今やこの屋敷で、マリーンのもっともお気に入りの若い侍女は、主を気づかうように言った。
「奥様。お疲れのご様子ですが。一晩中旦那様のご看病を?」
「ええ。でも、知らないあいだに眠っていたみたい。そして……夢を見たわ」
「夢ですか?」
「ええ……」
 マリーンはさきほどの不思議な夢を思い出すように、ふっと笑った。
 窓の外に広がる湖に目をやると、朝日を受けてきらきらと輝く湖面は変わらず美しい。その景色は、どんなにつらいときでも彼女の心をなぐさめてくれる。
(そういえば、リュシアンはどうしているかしら)
 湖を見ながら彼女はふと考えた。
 このまえ、二人してボートに乗ったのは、あれは何月前のことだったか。それはもう思い出せないほど、遠い昔のことのような気がする。
「奥様……」
 侍女が心配げに首をかしげている。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと頭がぼうっとしていて」
「お部屋でお休みになってはいかがでしょう?ここには私がおりますから」
「大丈夫よ」
 マリーンはそう言って、侍女にうなずきかけた。
(そうだわ。こんな時こそ、自分がしっかりしなくては)
 口許を引き締めると、マリーンは「ちょっとこっちに」と、侍女をともなって部屋の外に出た。
「お医者様が言うには、おそらくこの数日間が山だということよ。とりあえず、軽く朝食をいただいておきましょう。それから、いくつかすることがあるわ。まずは、もしもの時のために、伯爵の血縁の方々に連絡しなくてはね」
「はい」
「それから……これは嫌な話ですけど、後々の遺産やら、なにやらの分配やらで面倒なことが起こるといけないから、信頼できる会計士の方を雇って。本当は、私はそんなものには関わりたくないのだけれど、そうもいかないでしょう」
「はい。そう思います」
 まだ若いがクインダは頭が良く、気配りができる侍女だった。それに彼女は、屋敷の夫人であるマリーンに対して、主と従者として以上の好意と尊敬を持っていた。
 屋敷にいる侍女の中には、マリーンのことをそれほどよくは思ってはいないものや、リュシアンとのことを密かに知っていて、彼が屋敷に来るたびに、こそこそと隠れて噂をしたりする者いる。だがこのクインダは、いつでもすすんでマリーンの手助けをしたがり、命じたことを忠実にこなしてくれる。マリーンにとっては、一番に信頼のできる侍女であった。
「ありがとう、クインダ。あなたがいてくれてよかったわ」
 感謝を込めた笑顔で、マリーンは言った。
「そんな……奥様。もったいない」
「いいえ。本当なら、こんな未熟で無知な伯爵夫人には、あなたみたいによくできた侍女はもったいないほどよ」
「なんてことをおっしゃいます」
 侍女は大きく首を振った。
「私は、奥様が好きでございます。あの……もちろん、主人として尊敬いたしておりますし。それにお優しくて、お綺麗で、それから、とても自由なお人で……」
「ふふ。確かにそうね」
 マリーンは自嘲ぎみに笑った。
「自由に屋敷を出ていって、実家に戻ったり、見習い騎士の若者を連れてきたり。はたから見れば、とんでもない妻だわね」
「いいえ。そんなことはございません。自由と申しましたのは、奥様のお心がとても広くて、普通の女性が知らないようなことをご存じで、いろいろ教えてくださったり、どこかへ出掛けていかれたときは、私どもが初めて見るようなお土産を買ってこられたり、それから、お一人でボートに乗ったり。ああ、私などは到底一人だけでは、湖にボートでなど漕ぎだせません。そんな勇気がおありになるし。それから……あの、リュシアンさまのことも。なんていうか、とても奥様は、ご自分に正直でおられて。だから、私、そういうところも、とても尊敬しているんです」
 熱心に語る侍女の言葉に、マリーンはやや驚き、それから笑顔でうなずいた。
「ありがとう。そんな風に言ってくれるのはお前だけよ。でもそうね……きっと、私は人生を楽しむのが好きなのだわ。いろいろなところに行ったり、面白いものを見たり、聞いたり、見たことのないもの、食べたことのないものを知って、体験するのが。そういうことは、貴族だの伯爵夫人だのという立場にはそぐわないかもしれないけれど。一般的にも妻たるものが家を出て遊び歩いたり、色々なものに好奇心を持ちすぎるのは良くないことなのでしょう。ふふ、じっさいお母様にもよく言われたものよ」
 マリーンはかすかに微笑み、胸の前で手を組み合わせた。
「でもね……私は、そういう生きかたが好きなの。限られた人生の時間を楽しみ、いろいろな発見をしたり、感動をしたりして過ごしたいのよ。もし、私が男だったら……きっと剣をかついで冒険の旅にでも出掛けたことでしょう。あるいは騎士になって……」
 そこまで言ったとき、マリーンは一瞬頭痛のようなものを感じて、額に手をやった。
「どうかなさいました?奥様」
「いいえ。大丈夫。ちょっと……頭痛がしただけ」
「いけませんよ。とにかく、お部屋でお休みになられた方が」
 心配そうに侍女は言った。
「なんだか……足がふらふらするみたい。でも平気よ」
「ともかくお部屋に。すこしお休みになって、それから朝食でもおとりになったら」
「そうね……そうするわ」
「お部屋まで歩けますか?私がついてまいりましょうか?それとも、お茶と、ちょっとした果物でもお持ちいたしましょうか」
「大丈夫。きっといつもの貧血よ。一人で戻れるわ。でも、そうね、温かいお茶でも部屋に持ってきてもらえるかしら」
「かしこまりました。ただいますぐ」
 侍女は廊下を早足でかけていった。それを見送ると、マリーンはふらりとよろめいた。頭痛とともに、足元が揺れるような妙な感じがした。
「ちょっと、疲れているのだわ……」
 壁に手をついて、彼女は自分自身にそう言い聞かせた。

 自室の寝台で、侍女の運んできたハーブのお茶を一口飲むと、だいぶ気が落ちついた。
「ありがとう、クインダ。私はもう大丈夫だから。あとは伯爵のお部屋にいてちょうだい」
「はい。でも、なにかあったらすぐにお呼びくださいね」
 侍女が部屋から出てゆくと、マリーンはふっと息をついた。
「最近、ちゃんと眠っていないせいかしら……」
(それとも、ちゃんと食べていないからかしら)
 ここの所、どうもあまり食欲がなく、最後にまともな食事をしたのは、一昨日だったか。さっきのような立ちくらみと頭痛は、これまでにもあった。それらはさほどのこともなく治まるのだが、後でどうにももやもやとした不快感のようなものが残るのだ。
(とりあえず、少し休もう)
(今、私が倒れてしまっては、それこそ大変なのだから)
 己にそう言い聞かせ、お茶をもう一口すする。
 そのとたん、
 彼女はひどい吐き気におそわれた。
 口元を押さえたマリーンは、転げ落ちるようにして寝台からおりた。
「う……うっ」
 部屋の隅にある水壺にとびつくようにして、そこに吐いた。
「ああ……」
 何度か吐くと、ようやく少し落ちついた。口元を拭きながら、侍女を呼ぶかどうか少し迷ったが、彼女はそうしなかった。
「まさか……」
 おそるおそる自身の体に手を当てる。
 もやもやした胸焼けや頭痛……最近の体調の変化が、考えたくはなくとも、それを気づかせるに充分だった。
(ああ……まさか!)
(リュシアン!)
 彼女は心の中でその名を呼んだ。


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