続・騎士見習いの恋  4/10 ページ

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 剣技大会での華々しい活躍が、手綱をとる若者の心を浮き立たせていた。
 晴れ渡った夏の日差しが、街道をゆく旅人をまぶしく照らす。一面に咲くヘリアンサスの黄色い花花を街道の両側に見ながら、馬は進んでゆく。
 約ひと月ほどの夏の休暇だ。しばしの間、厳しい任務や稽古から離れて過ごせるとあって、その顔には自然と楽しげな笑顔が浮かぶ。頭上に広がる、どこまでも晴れ渡った空のように、曇りない笑顔を浮かべ、リュシアンは馬を歩ませてゆく。          
 実家に戻る前に、途中にある湖畔の城にまた寄っていくつもりだった。
 マリーンがまた湖に一人で漕ぎだしていたら、またそっと土手に近づいて脅かしてやろう……そんなことを思いつつ、馬上でリュシアンはうきうきと心を踊らせていた。

 真っ青な夏の空を背景にして、湖畔の城はその白く美しい姿を、陽光のもとまぶしく引き立たせていた。
 周囲をとりまく青々としげった緑の森が、涼やかな湖面に映っている。その見事な景観は、多くの旅人の足をとめずにはおかない。街道ぞいに馬を歩ませるリュシアンも、湖と森に囲まれたその雄大な景色を前にし、馬の歩みをとめ、馬上からからそれをうっとりと眺めた。
「いつ来ても、ここは美しいな」
 春には春の心浮き立つ楽しさが、冬には雪に包まれた物悲しくも美しい世界が、この湖畔の城の四季にはある。
 そして、広がる夏の景色は、透き通るような水をたたえた湖の、なんと涼しげなことだろう。馬上から見ると、青い湖と、その向こうにそびえる白壁の城は、まさに一幅の絵画のように美しい調和をかもしだしていた。
 もちろん、ここがマリーンのいる場所なのだ、という特別な感情も、景色を眺める彼の中にはあっただろう。リュシアンには、それはたとえようもなく美しい、そして慕わしいような風景に見えたはずであった。
 城への道のりをゆく彼は、知らず馬の歩みを速めていった。
 湖の方にマリーンの姿は見えなかったので、きっと日差しを避けるために城の中にいるのだろう。
 城の門をくぐり、馬をつなぐと、リュシアンは屋敷の扉を叩いた。
 少しして扉が開かれた。
 出迎えたのは見覚えのある侍女だった。
「あら、リュシアンさん。ようこそいらっしゃいました」
 すでに何度となく訪れた、この城の侍女には顔見知りも多い。彼を迎えた若い侍女のクインダは、リュシアンににこやかに笑いかけた。
「さあ、どうぞ。お入りくださいな。お疲れでしょう。冷たいお飲み物を用意しますね」
「ありがとう」
 ビロードの敷きつめられた客間は、地味だが品のいい風景画や、美しいタペストリーで飾られ、置かれている本棚やテーブルなどはどれも年代物の見事な代物で、落ちついた気品を漂わせている。飾られた花瓶には、マリーンの趣味らしい花々が生けられ、この城に住まう者たちの性質を表すように、室内は調和がとれた雰囲気だった。
 腰を下ろしたリュシアンは、改めてこの部屋の居心地の良さに感心する思いだった。
「ところで、マリーンさん……いや、伯爵夫人はいますか?」
 飲み物を運んできた侍女に、リュシアンは尋ねた。
「ああ、奥様でしたら、実は今……」
 そう侍女が言いおえる前に、部屋の奥の扉が開いた。
「あ、これは旦那さま」
「やあ。これは、リュシアンくん。ごきげんよう」
 部屋に入ってきたのは、モンフェール伯爵だった。
「あ、こ、こんにちは……伯爵」
 この城の主にしてマリーンの夫である伯爵のじきじきのお目見えに、リュシアンは慌てて立ち上がった。
「旦那さま、大丈夫でございますか」
 すぐさま侍女が飛んで行き、伯爵の体を支える。侍女の手を借りながら、伯爵はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「もうよい。大丈夫だから」
「でも、旦那様……」
 心配する侍女にうなずきかけ、伯爵は穏やかに命じた。
「いいから。下がっていなさい」
「はい。かしこまりました」
 侍女が下がってゆくと、伯爵はあらためてリュシアンに向き直った。
「久しぶりだな、リュシアンくん。元気だったかね」
「ええ。伯爵も……あの」
 お元気そうで、とはとても言えないような伯爵の様子に、リュシアンは思わず口ごもった。
「あの、どこかお悪いのですか?」
「そうだな。まあ、いろいろとね」
 弱々しく微笑んだ顔は、かつてリュシアンが知っていたモンフェール伯とは、似ても似つかないものだった。
 げっそりと痩せこけた顔はひどく青ざめており、落ちくぼんだ目とかさかさに乾いた唇は、まるで老人のようだった。呼吸が荒く、常に肩が上下しているのがいかにも苦しげで、長ローブから覗く手はまるで骨と皮ばかりに見えた。
「ここのところ、どうもちょっとよろしくない」
 伯爵はかすれた声で言った。
 だがどう見ても、それはちょっとどころではないのは明らかで、まるで歩くのもやっとという、大変な病人の姿だった。
 それでも、伯爵は気弱なところを見せたくないというように、矍鑠とした様子で言った。
「この暑さのせいもあるだろうな。実際、今年の夏はとても暑いな。なかなか夜も寝つけないよ」
「ええ……」
 リュシアンは、なんと言ってよいものか分からず、つい目をそらした。久しぶりに会った伯のあまりの変わりように、彼は驚きを隠すことができずにいた。
「あの、寝ておられなくてよいのですか?」
「ああ、大丈夫だよ。今日はさっきまでずっと寝ていたから。君が来るまでは」
「それは、お休みのところを失礼しました」
「なに、かまわないさ」
 伯爵の目が、まっすぐリュシアンに向けられた。
「マリーンに会いに来たのだろう?」
「……」
 黙っているリュシアンに、伯爵はふっと笑いかけた。
「彼女は……いないよ」
「えっ?」
 伯爵の言葉に、リュシアンは思わず顔を上げた。
「出ていってしまった……」
「……」
「というのは嘘だよ」
 くすくすと伯爵は笑った。
 リュシアンは、ややむっとして伯爵を見た。
「じゃあどこに」
「ふむ。今は実家の方に戻っている」
 伯爵はリュシアンを見つめた。
「そうなんですか……」
 落胆の色を隠せないリュシアンに、伯爵は満足したように言葉を続けた。
「うむ。そう……しばらくは、戻ってこないのではないかな。どうもお母上の体調がおもわしくないそうで」
「ああ……」
 リュシアンは、以前に会ったレスダー伯夫人の姿を思い浮かべた。夫人のことをマリーンに話したときには、彼女はとても心配そうな顔をしていたものだ。
(それで、マリーンは実家に……)
 しかし、それにしても夫であるモンフェール伯爵の方も、この様子ではかなり具合がよくないように見えるのだが。その夫を放っておいて実家に帰るというのは、どうもマリーンらしくはない。
「……」
 伯爵は、リュシアンの言いたいことを察したのか、その顔にかすかに微笑みを浮かべた。そうすると、かつての上品で穏やかな貴族、モンフェール伯の面影がかいま見える。
「彼女にはね、私から実家に帰るようにと言ったのだ」
「ああ、そうだったんですか」
「私がこんな様子だから、彼女もお母上のことをなかなか言いだせずにいたのだろうね。しかし、毎日ふとしたときに彼女が心配そうな表情を浮かべたり、お母上に宛てて手紙を書いたりしている姿を見ていれば、どうしても心情は分かるというもの」
 伯爵はふうと大きく息をついた。それが悲しげなため息なのか、ただの疲れのためなのかはリュシアンには分からなかったが。
「しかし、私が彼女に実家に戻ってもいいんだよと、いくら言っても、彼女は頑固にもそれを聞こうとはしなかった。私を置いては帰れないという。それは彼女の優しさなのだろうがね。それでも、彼女のつらそうな顔を毎日見続けるのは、私にだってつらいものだ。笑顔の似合う彼女が、いつも何かに耐えるようにして、私のために作り笑いを浮かべようとするなんて。私もつらいし、彼女にはなおつらい。私は案じていた。私とお母上との間で板挟みになっている彼女は、このままでは気が狂ってしまうのではないか、とね」
「……」
「それで、私は半ば強引に、彼女を説得したのだ。聞くところによると、レスダー伯夫人のお屋敷には、現在のところ世話をする侍女はたった一人だけだというではないか。私の城にはあなたがいなくても、十人もの侍女がいる。だから、今本当にあなたを必要としているのは、私ではない。お母上の方なのだよ……とね」
 伯爵は、それだけ話すのでもつらそうで、ぜいぜいと肩で息をしていた。だが、そのまなざしは、妻への愛情を感じさせる優しさと強さに満ちていて、今なお輝きを失ってはいなかった。
「そして彼女は戻った。最後まで私を心配そうにしていたがね。いろいろと侍女たちに私のための書き置きをあれこれ残していった。私の好物やら、日課やら、ちょっとした時の扱い方なんかをね」
 伯爵はくすくすと笑った。
「さすがに、わが妻。私のやることなすこと、なにもかも細々と把握していたのだね。おかげで、侍女たちもなかなか行き届いた世話をしてくれて、とてもありがたい。さて、そんなわけだから、もし君が彼女に会いたければ、レスダー伯夫人の屋敷へゆけばいい」
「……」
 リュシアンは、その言葉にうなずくでもなく、ちらりと伯爵の顔を見た。
「ふふ、私に遠慮することはない。ゆきたまえ。それに立派に騎士となった君の成長を、彼女だけでなく、私自身も嬉しく思っているのだよ」
 伯爵は、おそらく病の間にすっかり伸びたらしいあごひげを撫でつけながら微笑んだ。
「おお。そういえば、今年の騎士の剣技大会でも大活躍だったそうじゃないか。マリーンが君の手紙を読んで聞かせてくれたよ」
「ありがとうございます」
 複雑な気持ちでリュシアンは礼を言った。
「ふむ。何故かな……君のことは、前からけっこう気に入っていた。マリーンと一緒になる前から。そして、今でもね」
「……」
 二人は、しばし黙り込んで、互いを見交わしていた。あるいは、マリーンという女性を愛しているという点では、立場や歳は違っても、二人には共通の理解の仕方が存在したのだろうか。
 伯爵は、頬のこけた顔に、ふっと笑みを浮かべた。
「ゆきたまえ」
 そう言うと、伯爵は呼び鈴を鳴らした。
「そして彼女によろしく伝えてくれ。私は大丈夫だとね」
「お呼びですか。旦那さま」
 やってきた侍女に伯爵は命じた。
「リュシアンくんに新しい日除けのマントを。それに水筒も持たせてやるといい。そのあとで、私を部屋に……少々疲れた」
 最後の方は弱々しく、かすれた声になっていた。言い終えて、伯爵は椅子にもたれこんだ。
「かしこまりました」
 いったん侍女が下がってゆくのを見届けると、伯爵は最後につぶやくように言った。
「彼女が……幸せになれることを。そして、また君もだ」
 それがどういう意味なのか、リュシアンには分からなかった。
 しかしそれきり、伯爵は目を閉じたまま何も言わなかった。
 眠るような伯爵に丁寧に礼をすると、リュシアンは部屋を出た。



 実家に戻ると、母クレアの喜びようは、数カ月前とまったく変わらなかった。
 彼女は涙ぐんでリュシアンを抱きしめ、その頬に何度となくキスをした。それにやや閉口しつつも、リュシアンはこれも母親孝行と、再会の一幕に水をさすことはしなかった。
 彼にしてみれば、今度の帰宅はたった数カ月ぶりであったので、この前のときほどには我が家をなつかしくも思わなかったし、こみ上げてくるようなものもなかった。それより、彼にはよっぽど気になることがあった。
 必要最低限の再会の時間を過ごすと、リュシアンは立ち上がった。
「まあ、どこへ行くの?帰ったばかりだというのに」
「ああ、ちょっと。すぐ戻るよ」
 部屋に戻って着替えを済ませると、不満そうな母をなだめすかしてリュシアンは家を出た。
 通りで辻馬車を呼び止め、それに乗り込む。彼の向かう先はただひとつ。
 近づくにつれ、心がうきうきと沸き立った。
 馬車を下りた彼がその屋敷の門をくぐると、そのとたん、この前までは感じられなかった、とても華やいだ空気がそこにあった。
(ああ、やっぱり)
 リュシアンにはそれが嬉しかった。
 もちろん、華やいだ空気とはいっても、屋敷の庭園が完全にもとのような美しさに戻っていたというわけではなかった。
 数年前まではベリスやアルメリアなどの季節の花々が、それは見事に美しく植えられていた花壇は、今はわずかにプリムラの小さな花が見えるだけだったし、マリーンが嫁いでいってからは、屋敷の侍女の人数もずっと減り、雇っていた庭師も辞めていってしまったことで、庭園の手入れも行き届かなくなっていた。かつてはすっきりと綺麗に刈られていたツゲやイチイの木々は伸び放題で、白い円柱やアーチに絡みついた蔦は、どこか廃れた屋敷の印象をかもしだしていた。
 そのように、まだまだ庭園には以前のような整然とした美しさはなかったのだが……
 それでもリュシアンには感じられた。
(マリーンが、ここにいる)
 それは、確かにはっきりと感じられた。
 少なくとも、この前までの寂しげな空気……病気がちの夫人と、古くからの侍女と執事だけしかいない、どこかくたびれたような空気はもうなかった。
 枯れかかった花壇の花は片づけられ、屋敷の玄関には、小さいがいくつもの鉢植えが並べられて可愛らしい花々が咲いている。それらはマリーンがそうさせたに違いなく、以前のようなひどく殺風景な感じはなくなっていた。そして、しっかりと水がまかれた庭園の花壇や芝生は、草木の緑がみずみずしく見えて、花たちも喜んでいるかのようだった。花々への水やりは、昔から毎朝のマリーンの日課であった。
(ああ……)
 こみあげてくる思いとともに屋敷を見上げると、二階のマリーンの部屋の窓辺には、いくつもの植物の鉢植えが置かれていた。それは、そこに彼女が暮らしているということの、なにより確かな証であった。
「マリーン」
 リュシアンはその名をつぶやいた。自然とその顔に微笑みが浮かぶ。
 では、この屋敷に彼女が戻ってきたのだ。たくさんの思い出の詰まった……この屋敷に。それがこれほど嬉しいことだとは。
「ああ……」
 かすかな感動に彼は体を震わせた。
 リュシアンは、ひとつ大きく息を吸い込み、屋敷の扉を叩こうと手を伸ばした。
 そのとき、であった。
 ほとんど同時に、内側から扉が開かれた。
 「あら」という、小さな驚きの声。
 扉が開くと、そこに立っていたのは……彼女だった。黒髪を後ろに束ねた、まるで侍女のようなエプロン姿。
「マリーン!」
 リュシアンはたまらず声を上げた。
 彼女はリュシアンを見て驚いたふうだったが、すぐにそれはやわらかな笑顔になった。
「リュシアン。お帰りなさい」
 彼女の顔にも、やがて、なにか特別な一瞬にだけあらわれる、心からの喜びの表情が浮かんだ。
「ただいま……」
 見交わされる瞳に、思いを重ねる恋人たちにのみ許される理解と、あふれる感情が込められていた。
「ああ、マリーン……会いたかった!」
「ええ、私も」
 二人は手を取り合った。すぐにマリーンは思い出したように後ろ手に扉を閉め、「しーっ」と唇に手を当てた。
「ああ……うん」
 誰かに聞かれてはまずいと、リュシアンも声を小さくしたが、彼はすぐに我慢しきれなくなってマリーンに抱きついた。
「マリーン……本当に会いたかったよ」
「リュシアン……」
 彼女は困ったような顔を見せたが、リュシアンを引き離しはしなかった。その手でそっと少年の背中を撫でつける。
「私も会いたかったわ。それに、ここでまたこうして、あなたに会えるとは思わなかった」
「うん。僕も驚いたよ。モンフェール伯から、マリーンは実家に戻ったって聞いたから」
 久しぶりの抱擁にある程度は満足したように、ようやくリュシアンは体を離した。もちろん、彼とてここが伯爵夫人の屋敷であることは分かっている。夫人はもちろん、こんなところを侍女か執事にでも見られたら大変である。
 そんなリュシアンの心配を察してか、
「大丈夫よ。執事のカストロはついさっき買い出しに出掛けたばかりだし、ミルダはまだお母様のお部屋にいると思うから」
「そっか。それならもうちょっと……」
「でも、だめよ」
 安心してまた抱き寄せようとする、リュシアンの手をすいと避ける。
「そういう所は、昔と全然変わっていないんだから」
「ああ、そうさ。どうせ……」
 口を尖らせるリュシアンを見て、くすりと笑い、マリーンはその耳元に囁いた。
「ここだと誰かに見られてしまうかもしれないから……。あの、プラタナスの木の前で話しましょう。覚えている?」
「ああ」
 リュシアンはうなずいた。そこは昔からの二人の秘密の待ち合わせ場所だ。
「私は、またお花を持ってお母様の所に行かなくてはいけないから、先に行ってて待っていてくれる?」
「もちろん。承知いたしました!」
 リュシアンは、凛々しく騎士の身振りで礼をして見せた。それに笑いかけ、マリーンは花壇の方に歩いて行った。
「はあ……」
 リュシアンはほっと幸せなため息をついた。マリーンは変わらず、優しく綺麗だった。
(マリーン……)
 そうつぶやきながら、リュシアンはしばらくそこに立ったまま、花を摘むマリーンの姿をうっとりと眺めるのだった。

 広い庭園の木立に分け入り、ずっと奥まった場所にあるそのプラタナスの大木は、大きな緑の葉をたっぷりと繁らせ、傾きはじめた夏の日差しを受けて、さわさわとその梢を揺らせていた。
 かつて何度となくここで彼女と会い、その体を抱きしめ、口づけを交わした。二人が秘密の逢瀬を重ねた場所だ。
 それらの甘い思い出をよぎらせながら、リュシアンは大木の幹に寄り掛かっていた。
(ああ、ここでこうして彼女を待つのは、いつ以来だったろう)
 こうしていると、以前のことが頭のなかに蘇ってくる。あれからまだ二年ほどしか経っていないのに、今ではもう、それらの記憶はずっと昔のことのようだ。
 激しい熱情に任せて、強く彼女を抱きしめるだけだった、あのときの自分……
(ああ……)
(なんて、なにも見えていなかったんだろう。あの頃の僕は……なんて)
 それは、思い出すたびに自己嫌悪したくなるような、身勝手で、短気で……だが健気で、一生懸命だった自分。
 だが、あの十五才だった少年は、今はもういない。
(僕はもう、あんな風にマリーンを追い詰めてしまうことは、決してしないだろう)
(僕は……騎士になったんだ。正式な騎士ではまだないかもしれないけど……)
 この二年の歳月は、自分とマリーンとの関係をどう変えたのだろうか。ふと、そんなことを思ってみる。
 少なくとも、ただやみくもに求めるだけだった、あんなに激しい恋は自分はもうしないだろう。それは、幼い少年だけに許された、ひたむきで、かえりみない初恋なのだ。
(時がたち、僕は少なくとも前より大人になった)
 昔のように、ただ彼女に甘えるだけだった自分はもういないはずだ。心の弱さを誰かのせいにしたり、そのせいで誰かを傷つけたりすることは、もうしたくない。
(マリーンも、コステルも……)
(それに、カルードや母様や、他の誰か……僕は周りの人々を傷つけたり、迷惑をかけたりして生きてきた)
(あの頃の僕は……)
 かつてのさまざまな出来事……自分の行動や誰かの言葉、それぞれの場面の映像の断片を思い浮かべながら、リュシアンは目を閉じた。そうすると、二年前の自分と、今の自分が頭の中で出会い、そして混じり合うような、不思議な気分になるのだった。

 遠くで烏の鳴き声がした。
 思っていたよりも時間が過ぎていた。西の空に太陽が傾き始めた頃になって、リュシアンは顔を上げた。
 耳を澄ませて幾度となく聞いた、草を踏むその足音。
 木々の間から、その姿が見えた瞬間、リュシアンは感動にも似た胸の高鳴りを覚えていた。
「マリーン」
「ごめんなさい。待たせてしまって」
 梢からこぼれる西日に照らされた草の上を、マリーンが歩いてくる。妻になってもその美しさは、二年前となにも変わらない。
「マリーン!」
「ああ、リュシアン……」
 プラタナスの木の前で二人は抱き合った。
 じわりとこみ上げてくる感情が、時を移した今も同じように、二人を包み込んでゆく。
「……」
 二人は見つめ合い、ゆっくりと、そしておそるおそるというように顔を近づけ、
 唇が重なった。
 マリーンの体がかすかに震えた。
「ああ……」
 合わさった唇から吐息がもれる。
 抱き合った二人は、互いの体のぬくもりを確かめるように、頬をすりよせ、また何度も口づけを交わした。
「リュシアン……キスが上手くなったわ」
「ほんとに?」
「ほんと」
 唇を離した二人は、顔を見合わせてくすりと笑い合った。
「お母様と、いろいろお話しをしていて、一緒にお茶をしていたら、遅くなっちゃった」
 うっすらと上気させた頬で、マリーンは言った。
 ゆったりと肩に垂らした黒髪が、ふわりと風になびき、それをかき上げるしぐさは、しっとりと優美であった。この二年で、彼女はいっそう大人の女性としての雰囲気を身につけたようだ。また、伯爵夫人という立場がそうさせるのか、艶めいた色香と気品とを漂わせるその表情には、包み込むような優しさと、しなやかな強さのようなものが見えるようだった。
 リュシアンは変わらぬ憧憬を込めて、そんな彼女をうっとりと見つめていた。
「どうしたの?黙ったままで」
「ああ、いや……なんでもない」
 見とれていましたとは、とても恥ずかしくて言えない。照れ笑いを浮かべて、リュシアンは頭を掻いた。
「ところで、夫人の具合はどうなの?」
「ええ。今日はだいぶいいみたい。食事もちゃんと食べられたし。さっきは私が持っていったお花を見て、とても喜んでいたわ。この家に戻って一週間くらいになるけど、少しずつ元気になってきていると思うわ。それでもまだ、歩き回ったり外出したりは無理だけど。きっと足腰もだいぶ弱ってしまっているでしょうから」
 笑顔で話すマリーンの様子から、夫人の体調はそう悪いわけでもなさそうだった。
「そうか。じゃあ、僕もまたあとで挨拶に行こう」
「そうね。きっと喜ぶわ。お母様も、あなたのことをけっこう気にしていたから。剣技大会でも大活躍だったみたいだし、立派になったあなたの姿を見たら、とても誇らしく思うでしょう」
「立派になって誇らしい?」
 にっと笑ってリュシアンは聞き返した。
「ええ。きっと、そう思うでしょう」
「誰が?」
「え?お母様……ああ」
 くすりと笑ってマリーンは言い直した。
「それにもちろん、私も……よ」
「うん」
 それを聞いて、リュシアンは満足そうにうなずいた。
「ところでさ。マリーンはいつまでここにいるの?」
「まだ決めていないけど、そうね……」
 少し考えるように頬に手をやり、マリーンは言った。
「ずっといるわけにもいかないわね。向こうに残してきた伯爵の方も心配だし。なにより、私はあの人の妻なのだし……」
「うん……そうだね」
「とりあえず、もうひと月くらいはこっちにいるわ。あの人に何かあれば、向こうからも知らせが来るだろうし。もちろん、なにも悪い知らせが来ないことを祈るけど。それにともかく、今この屋敷は本当に人手不足なんだから。私がいないと」
 マリーンはふっと息をついた。
「なにしろ料理人も、炊婦もこぞってやめてしまったから。侍女頭のミルダが、料理、洗濯、掃除、それにお母様の世話まで、みんな一人でやっていたのよ。執事のカストロは、買い物や馬の世話やお客の応対なんかで忙しくて、庭の掃除や屋根の修理なんかもほったらかしになっているわ。私が戻ってきたので、とりあえず掃除やお母様の世話は交代でやるようにしたし、荒れ果てていた花壇も少しずつきれいにしたりしているわ。庭が寂しくなると、窓から見ているお母様も楽しくないと思うし。それと、あとは時々買い物も手伝ったりしているのだけど、それでもまだまだやることが多いわね……」
「大丈夫?マリーン……なんだか、少し疲れているみたいだけど」
「平気よ」
 マリーンは気丈そうに笑ってみせた。
「ただ私もね……料理とかお掃除、洗濯なんかがあまり得意な方ではないから。恥ずかしいけれど。こんなことなら、若いうちにもっと色々と習っておくんだったわ。大学だなんだと、女だてらに出て回っていないで。身の回りの仕事がいかに大切かということがやっと分かった気がするわ。何人もの侍女や料理人がいなくては、生活もしていけないなんて。まったく貴族というのはやっかいな代物だわね」
 めったに弱音や愚痴を言わないマリーンが、そう言って力なく微笑むのは、見ていても痛々しかった。
「ともかく、あまり無理はしないでよ」
 リュシアンは元気づけるように言った。
「それに、僕も時々手伝いに来るから。掃除や、馬車磨きや庭の見回りなんかは、なにせお手の物だし……待てよ」
 そう言いかけて、突然リュシアンは黙り込んだ。
「どうしたの?」
「……」
 リュシアンはあごに手をやり、なにか考え込むふうだった。それを横からマリーンが見つめる。
「うん……そうだよ」
 しばらく考えていた彼は、何かを思いついたのか、今度はにいっと頬をゆるませた。その目がきらきらと輝きだす。
「ねえ、マリーン」
 かつてのいたずら好きの少年の面影をよみがえらせて、リュシアンは言った。
「僕もここに住むよ」
「なんですって?」
 驚いたマリーンの顔を見て、少年はにっこりと笑った。
「住むって……」
「うん。決めた!僕もここに住み込んで働くんだ。ちょうど夏の休暇をひと月もらったし。そうさ。昔みたいにここに住んで、掃除や手伝いをしたり、馬車の御者をしたりして、それでまた、マリーンと一緒に暮らすんだ!」
 あっけにとられたようなマリーンを見つめ、彼は顔を輝かせながら、高らかにそう告げた。

 それからリュシアンは、驚くべき迅速さで、その自らの素晴らしい思いつきを実行に移すことにした。
 まず彼は、マリーンとともにさっそくレスダー伯夫人の部屋を見舞うと、この屋敷の人手不足を聞いて、ぜひともここでまた働かせて欲しいと、勢い込んで夫人に申し出た。はじめ夫人はとても驚いたが、たくましくなったリュシアンを見つめ、頼もしそうな目でうなずくと、「なんて優しいのでしょう。リュシアン、あなたの好意が変わらなければ、ぜひお願いしたいわ」と、涙ぐみながら言ったのだった。
 続いて彼は、大急ぎで家に帰り、そのことを母に頼み込んだ。リュシアンの母、クレアは驚きながらに断固として首を振り、先方にも迷惑だし、せっかくこうして休みをもらって戻ってきたのだから、ずっと家にいて欲しい、と努めてリュシアンを説得した。
 しかし、彼の意志は鋼の剣のごとく固かった。そしてまた、今の彼は、闇雲に行動するだけではなく、親を懐柔するだけの大人のやり方を身につけてもいた。夕食の前、リュシアンはひどく真面目な顔をして、「お母様……」と切り出した。はっとした母に、彼は話しだした。
 かつてお世話になったレスダー伯夫人が病の床につき、お屋敷には侍女が一人きりで充分な人手がおらず、掃除も洗濯もままならぬ中で、夫人は日々衰弱し、弱り果てております。自分が今、こうして騎士として成長し、人並みの作法と品格を身につけることができたのは、ひとえに夫人の屋敷で過ごした日々のおかげ。ひとかたならぬご恩がある夫人に、このように恩返しが出来る機会がありながらもそれを無為にしたとあっては、自分はこれからの日々においてそれを悔やみ続けることでしょう。それでは、誇り高き騎士としてとてもやっていけませぬ。
 彼の演説は夕食の間中延々と続き、かつてリュシアンの母がした説教のように、メアリの作ったスープをすっかり冷めさせることになった。母のクレアは、リュシアンの話を聞きながら、ときおりうなずきつつ、聞かされる夫人の様子に同情し、それでも、帰ってきたばかりの息子を手放すことには抵抗のある様子を見せていたが、最後にはついには目を潤ませてスプーンを置いた。
「分かりました。行っておいで、リュシアン」
 母の口からその言葉を聞いたとき、リュシアンは内心で高々と己の剣を振り上げた。それはまるで、試合で勝ち名乗りを上げる騎士のように。
 クレアにしてみれば複雑な心境であったろう。リュシアンがかつての家庭教師でもあったマリーンに対して、ほのかな恋心を抱いていたことには彼女も気づいていたからだ。ただ、マリーンが結婚していたことが、今のリュシアンには幸いした。いくらなんでも、伯爵夫人となった女性にまでは、我が息子もよこしまな心は抱くまいと、彼の母は思ったのだった。
 かくして、リュシアンの目論見は成功した。
 マリーンとの燃え盛る恋の焔と、その深い関係を知る由もない母への、少々の後ろめたさはむろんあったものの、行動を始めた若い情熱にとっては、そんなことは抵抗力にはならなかった。
 その翌朝にはさっそく、レスダー伯夫人の屋敷に住み込むために、リュシアンは着替えやわずかな本などの荷物をまとめ、戻ってきたばかりの家を出たのだった。やや寂しげな顔で息子を見送るクレアだったが、こうして人さまのために己の身を役立てようとする、息子の成長した姿には誇らしげな気持ちもあるようだった。ときどきは帰ってくるからと母に約束し、その手を握るリュシアンの方は、その内心では、これからまた始まるマリーンとの生活に、うきうきと心を踊らせるばかりだった。

 そして、リュシアンは再び、レスダー伯夫人の屋敷で暮らすこととなった。
 マリーンや夫人はもちろん、屋敷の侍女のミルダや執事のカストロも、リュシアンを歓迎してくれた。
「まあまあ、リュシアンさん。嬉しいですわ。お屋敷がまた、あの頃のようににぎやかになって」
 嬉しがる侍女の横で、執事も腕を組んでうなずいた。
「まったく。昔は毎朝のようにお前さんを部屋に起こしに行って、無理やり毛布をはぎとったことが、なんだかなつかしいですな」
 リュシアンの部屋には、以前と同じ三階の一室があてられた。ここで寝起きをしながら、この夏の間、屋敷の手伝い事をするのである。
 翌日から、さっそく彼は仕事を始めた。毎朝決められた時刻に起きては、散歩がてら庭園を見回り、馬車の点検をする。それから朝食をとると、侍女と一緒に屋敷の掃除を手伝った。それは、見習い騎士時代に過ごした数カ月がよみがえったような生活だった。
 ただ、騎士隊でしごかれてきた彼には、昔はあれほど嫌いだった早起きも、今はたいして苦痛ではなかった。かつてのように、食事時にレスダー伯夫人の厳しい指導があるわけでもなかったし、毎朝マリーンと顔を合わせて、一緒に食事をし、ときに花壇に水をやったりするのは、むしろとても楽しいことだった。
 一日のうち午後から夕方までは、自由な時間であった。稽古が休みの期間ではあったが、体が鈍ってはと、リュシアンは庭に出てゆき、持ってきた木剣を振ったり、体をほぐす体操などをして過ごした。また、時々は部屋で本を読んだり、昔のようにマリーンに勉強を教わったりもした。
「こうしていると、なんだか昔に戻ったみたいだね」
 修辞学の本を広げながら、リュシアンはしみじみと言った。
「そうね」
 かつての教師の顔つきに戻っていたマリーンも、ふっとやわらいだ笑みを浮かべる。
「……」
 リュシアンは手を伸ばし、本の上でマリーンの手をとった。彼女の手は一瞬ぴくりと震えたが、もう昔のようにリュシアンの手を払いのけはしなかった。二人は黙って見つめ合い、どちらからともなく顔を近づけた。
 日々の仕事をこなすのに余裕がでてくると、食料の買い出しに馬車を出すのも、リュシアンの仕事となった。
 かつてこの屋敷に来てすぐの頃、おっかなびっくりで御者の訓練をしたことなどを思い出しながら、彼は馬車を走らせた。
 はじめは、ミルダに言いつけられた野菜や肉、小麦粉やその他の細々としたものを覚えきれずに大変だったが、「じゃあ、私が一緒に行くわ」とマリーンが言いだしてくれた。
 そんなわけで、二人して馬車で出掛け、買い物をするのはリュシアンの最大の楽しみになった。
 思い出のプルヌスの並木道を、隣にマリーンを乗せて馬車を走らせると、彼の頭には数々の思い出がよぎった。今は花の季節ではなかったが、あの満開の花の下で初めての口づけをした頃のように、どきどきとした胸の高鳴りをその胸に蘇らせるのだった。
 リュシアンとマリーンの活躍によって、暮らす屋敷の中は、しだいに若々しい生気を取り戻していった。
 家というのは不思議なもので、そこに住まうものたちの活力がなければ、廃れて朽ちてゆくものらしく、それまではひっそりと寂しげだった屋敷の中は、今では確かに、その生命力を蘇らせているようだった。
 若いリュシアンとマリーンの笑い声が廊下に響くと、部屋にいる夫人や侍女の顔にも自然と笑顔が浮かんだ。
 また、リュシアンに影響されてか、それまで侍女のミルダが一人でやっていた屋敷の掃除を、執事のカストロも手伝うようになったし、本来なら労働とは無縁のはずの令嬢であり、今は城に住む伯爵夫人であるマリーンもが、慣れない手つきで一生懸命に床や壁を磨いたりした。
 カストロの支える梯子を上って、リュシアンが屋根の修理をしたときには、屋根からすべり落ちそうになった彼に、マリーンは思わず悲鳴を上げた。だがリュシアンは、騎士隊で鍛えた腕力と俊敏さで、尖った屋根を這い上り、見事に屋根の補修を成し遂げて下りてきた。笑顔で額の汗を拭くリュシアンに、カストロとミルダの目の前で、マリーンは抱きついた。
 こうして、屋敷は徐々に以前の輝きを取り戻していった。レスダー伯夫人の体調にも、それは良い影響をもたらすようだった。
 夫人は相変わらず一日中、部屋の中で過ごすことが多かったが、気分のいいときにはミルダの手を借りて階段を下りて、庭に出るようにもなったし、それまで部屋でとっていた夕食も、リュシアンやマリーンと一緒にすることが増えた。時々、部屋にお茶やお菓子を運んだりして夫人を見舞うリュシアンを、夫人は立派な若者になった姿に感慨もひとしおといった様子で、嬉しそうに見つめるのだった。
 かつては毎日のように夫人にしかられ、早起きと仕事にうんざりとしていたリュシアンだったが、今での同じ屋敷での暮らしでは、自分が頼りにされ、夫人や皆から感謝されているという喜びに包まれて、それはなかなか楽しい、そして有意義な生活だった。

 リュシアンが屋敷に戻って働きだしてから、十日ほどたった頃である。
 花瓶を持ったマリーンが廊下を歩いていた。
 花の好きな彼女は、それまでたいそう殺風景だった夫人の部屋に、バーベナやリリウム、ヘリアンサスなどの季節の花をたくさん飾るようにした。それは、少しでも母である夫人の気持ちの慰めになれば、という彼女の心遣いであった。
(さて、次はなんの花にしようかしら)
 そう考えながら、両手に花瓶を持ったマリーンが廊下を歩いていると、
「マリーン、気をつけて!」
 前からリュシアンの声が聞こえた。
 大きな花瓶を両手でかかえているので、彼女は前が見えない。マリーンは、その声に立ち止まるかどうかと迷いながらも、そろりと一歩踏み出した。
 そのとたん、足元がつるりと滑った。
「きゃあっ」
「危ない!」
 マリーンは、どしんと床に尻餅をついた。
「いったあい……」
「大丈夫?マリーン」
 駆け寄ってきたリュシアンが、心配そうに覗き込む。
「え、ええ……」
「ごめんよ。向こうから廊下を水拭きしていたんだ。このへんはまだ乾いていないから」
「大丈夫よ」
 マリーンは手にした花瓶が割れていないのを見て、ほっと息をついた。
「なんとか割らずに済んだわ。これけっこういい代物なのよ。お母様のお気に入りで」
 花瓶を置いてマリーンは立ち上がった。慌ててリュシアンが手を差し出す。
「大丈夫?」
「ありがとう。平気よ。ちょっと腰を打っただけ……」
 マリーンは腰をさすりながら微笑んだ。
「ああ、でも服がずぶ濡れだわ。すべった拍子に水をこぼしちゃった」
「大変だ」
「大丈夫よ。ちょっと冷たいけど」
 スカートがぐっしょりと濡れていた。
「それに床もびしょびしょだわ。あとでここも拭いておいてね、リュシアン」
「ああ。もちろん……、いやそれよりも、マリーンが風邪をひいちゃうよ」
「平気よ。これくらい。ちょっと着替えてくるわね」
「ああ、花瓶は僕が運んでおくから。そうしなよ」
 濡れそぼった服をまとったマリーンの姿に、リュシアンはかすかな興奮を覚えて顔を赤らめた。
「じゃあ、お願いするわ。花瓶の水を捨てたら、私の部屋に持ってきてくれる?」
「うん、分かった」
 濡れたスカートの裾を両手で持ち、マリーンは廊下を歩いていった。
「……」
 それを見つめるリュシアンは、何がなしに、こみ上げてくる感情があった。それは、久しぶりに感じる、かすかなときめきのようなものだっただろうか……
 この二階の廊下の南側の突き当たりに、マリーンの部屋はある。マリーンが結婚して屋敷を出ていってからも、伯爵夫人は部屋をそのままにしておいたのだ。
 花瓶を抱えたリュシアンは、その部屋の前に立つと、不思議なほどのなつかしさにとらわれた。
(マリーンの部屋だ)
 前に同じようにこの屋敷で住み込みで働いていた頃には、まだ自分は騎士見習いの十五才の少年だった。この屋敷でマリーンと出会い、彼女に憧れ、ついにその思いを打ち明けた。そして、その次の夜に、忍んでこの部屋を訪れたのだ。
 その時のことが、まざまざと思い出された。
(ああ……)
(あの夜……はじめて僕たちは)
 甘い追憶がよみがえる。
 無垢な少年を卒業した、あのとき……
(あの日からずっと、僕は)
(僕は……)
 マリーンを愛し、彼女を追い求めていた。
 苦い思い出や、つらかった出来事、怒りや悲しみ、どうしようもないせつなさ……そのすべては、マリーンとの恋が教えてくれた。そして、それらを乗り越える強さも……
(あれから二年余りがたったんだ)
(そして、今またこうして僕は……)
(彼女の部屋に帰ってきた)
 こみ上げてくる感慨は、激情的なものではなく、ほろ苦くもどこか心地よいようなものだった。それは、過ぎ去った時間、歩いてきた時間を思い返すときの、戻らない時代への郷愁にも似たものだった。
 目の前の扉を見つめるリュシアンは、かつて少年の彼が震えながら開けたその扉に、また手を伸ばした。
「マリーン。開けるよ」
 ノックをしてから、ややおそるおそる扉を開ける。
「ああ、リュシアン」
 ちょうどスカートを履きおえたらしいマリーンが、こちらを振り返った。
 リュシアンは思わずほっとした。
 あの夜のように、部屋には誰もおらず、暗がりの中で呆然とたたずんだ記憶が、彼の中に思い出されたからだ。
 そんなリュシアンの感慨は知らず、マリーンは微笑んだ。
「ありがとう。花瓶はそこに置いておいて」
「ああ、うん」
 花瓶を置いたリュシアンは、立ち去りがたい気分でちらりとマリーンを見た。
「ねえ。このスカート、どうかしら?」
「えっ?」
「こっちに置いたままだったのを、久しぶりに着たのだけど」
 夏らしいレースの模様が入った薄い緑色のスカートをはいたマリーンは、くるりと回って見せた。
「うん。いいよ。似合ってる」
「そう?よかった。昔はお気に入りだったのよ。結婚してから、こういうのはもう着ないかなって、みんなこっちに置いていっちゃったんだけど」
 マリーンは嬉しそうに言った。
「なんだか、久しぶりに若返ったような気分だわ」
「なに言ってるの。まだまだ若いくせに」
 リュシアンは笑って言った。
 妻になったとはいえ、彼にとってマリーンは、いつまでも若く美しい、「初恋の年上の女性」であることに変わりはないのだ。
「あら、私ももう二十五よ。いつまでもこんなひらひらしたのを着ていたら、お母様がなんと言うか……」
「大丈夫だよ」
 やや真面目な顔つきになってリュシアンは言った。
「似合っているから。すごく、綺麗だよ。マリーン……」
「ほんとに?」
「ああ」
「……」
 目を見交わした二人の中に、にわかに沸き起こる甘い感情が、広がってゆく。
 どちらからともなく、二人は体を寄せていった。
「リュシアン……」
「ああ、マリーン」
 こらえられず、リュシアンはマリーンを抱きしめた。
 久しぶりに体で感じる、マリーンの感触……
 これまで、じっと我慢していたものが、抗えぬ流れに押されるように、くずれ落ちてゆく。リュシアンはその腕に力を込め、マリーンの体を引き寄せた。
「マリーン……。マリーン!」
 かぐわしい匂いのするマリーンの肌、その胸元に顔をうずめると、たとえようもない喜びと、求めていたものに触れているという安心感が、リュシアンを満たすのだった。
「リュシアン……ああ、だめ……」
 強く抱きしめると、マリーンの唇から吐息がもれる。長らく求めていたものに抱かれている喜びに、彼女の方も、その体を震わせていたのだった。
「ああ……」
 バラ色に染まったその頬は、彼女が妻から一人の女性に帰るときのものだった。
「リュシアン……」
 抱きしめ合った二人は、ゆっくりと顔を近づけた。
「あ……っ」
 マリーンの吐息を飲み込むように、リュシアンは深く唇を合わせた。
 これまで幾度となくしてきた口づけ。だが、そのすべてに意味があり、そのすべてがその時々の真の喜びに満ちていた。
 そして、今も同じく、二人は恋人だった。
「マリーン……ああ、マリーン」
 いったん唇を離し、優しく彼女の頬を撫で、また唇を合わせてゆく。
「リュシ……リュシアン……」
 切なげなマリーンの声。
 それを耳元に聞きながら、リュシアンはゆっくりと舌を入れた。
「はん……んんっ」
 マリーンが喘いだ。
 合わさった唇と、やわらかく絡み合う舌の感触が、二人の興奮を高めてゆく。
「マリーン……抱きたい」
 耳元で囁きながら、リュシアンは胴着の胸元に手を入れた。
「あんっ……あ、だめ」
 ぴくりと体を震わせ、彼女が薄く目を開ける。
「だめなの?」
「……ううん」
 小さく首を振ったマリーン……それをいとおしげに見つめると、リュシアンはゆっくりと彼女を寝台に押し倒した。
「あ……」
 マリーンはかすかに体をくねらせ抵抗した。
「マリーン。ずっと、ずっと抱きたかったよ」
「ああ……リュシアン」
 スカートに手を差し入れると、マリーンが恥ずかしそうに目を閉じた。
 彼女の肌に触れるのはいつ以来だったろう。なめらかな白い太ももに手を滑らせながら、リュシアンは思った。
(ああ、マリーンの匂いだ)
(マリーンの感触だ……)
 もう一年以上も、この体に触れていなかったことが信じられない。マリーンの唇も、この足も、背中も、胸も……すべてが、こうして触れていると、自分の体の一部のようにすら思えるのだから。
「ああ、マリーン……たまらない」
 リュシアンは大きく息を吸い込んだ。久しぶりに肌で感じる、相手の肉体の確かな存在に、彼自身の体も歓喜に震えていた。
「して……いい?」
 耳元で囁くと、マリーンがかすかにうなずいた。堪えきれない本能的なものに突き動かされるように、リュシアンは自分の体をマリーンの体に重ねていった。
「……」
 目を閉じたマリーンの、その体がぴくりと動いた。それは喜びの震えであったのか、それとも恐れのためであったのか……
 リュシアンは彼女を抱きしめ、その身体に自分自身を解き放った。


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