緑川とうせいの日記より

時事ネタをシリアスに思う 編


ネット上での日記「最近のこと」から抜粋したものをジャンルごとに分けてみました

*マンガ、アニメ、映画 編
*音楽、ライブレポート 編
*その他、つれづれ 編



「栗本薫さんお別れ会」
2009.7/20


九段会館に先生のお別れ会に行ってまいりました。

会場に到着すると、すでに年齢、性別を問わず多くの人々が並んでいた。
スーツの人や喪服のような黒い服の人々、普段着の人など、装いは異なれど、
グインを、そして栗本さんを愛していた人々がこれだけ集まったのだ。

開場すると、献花のための花とパンフレットを受け取り、人々は続々と場内に。
二階席から壇上を見下ろすと、花に囲まれた大きな先生の遺影が、
これまで刊行されたたくさんの本とともに綺麗に飾られていました。

今日は思い切り泣くつもりが、最後まで涙は出なかった。
訃報の当日に吐くまで飲んで号泣したおかげか、もう気持ちの整理はだいたいついていたので。

会が始まり、進行役のアナウンサー(テレビでよく見る人)が司会をつとめ、交遊のあった方々のスピーチが始まる。
中でも作家仲間であった田中芳樹さんのお話がとても面白かった。
だんなさんの今岡氏の挨拶では先生の亡くなる直前までの執筆の様子が生々しく話されて、思わずぐっとくる。

最後はバンドによる生演奏とともに、集まった人々が順々に献花をしてゆく。
演奏される曲はほとんどが先生の作詩、作曲によるもので、
小説のみならず、音楽や舞台などでも活躍された先生の才能の大きさに、あらためて感じ入りました。



ともかく、今日のこの儀式で自分の中では一区切りできました。

来月もグインの新刊は出ます。
もうあとがきのないグイン・サーガを、噛みしめて拝読することにいたします。

そして、
自分も明日からまた頑張ってゆこうと思います。



「栗本さんの訃報」
2009.
5/28


昨日は栗本薫さんの訃報にショックを受け、酒を買ってきて夜中に吐くまで飲んでしまいました。

シラフのときは涙は2粒だけだったけど、酔ったとたんに感情が溢れて号泣…。
涙と鼻水とよだれが、一緒にだらだらと流れるんだから。我ながらびっくり。
人には見せられん姿だ。親が死んだときよりも遥かに泣いたぞ(スマン親父!)

やはりね…
自分にとっては世界で一番尊敬していた人ですし、人間としてもたぶん愛してもいたのですな。
いつかお目にかかって、話をしてみたかった…

作家として、というよりは人生そのものの先生というか、
文章を通じて、計り知れない共感をして感動もしたし、
若かった自分にあらゆる物事の道理を教えてくれたような…そんな方なんです。

小説ももちろん好きだけど、エッセイなども非常に魅力的で、その揺るぎない価値観と、
少しひねくれているけど基本は純粋な愛情に満ちているというスタンスも、繊細かつ奥深い感性と洞察力も、
人間と世界を見つめる器の大きさも、そのすべてが好きでした。自分もそうなりたいと思った。

この世知辛い世に本物のロマンを生み出すことのできる数少ない人であったと。
だからこそ、訃報を知ったとき、ロマンは死に絶えてしまった…そう嘆き、悲しんだわけでした。

しかし、残された我々には、その志を受け継ぎ、伝えてゆくことしかできない。
自分もそんなロマンの騎士たる人間を目指してゆこうと、ゲロ臭い部屋の中で誓ったのでした。

しかし、大量の吐瀉物と鼻水と涙とよだれが出たからか(汚くて失礼)、だいぶスッキリしました。
自分は普段は感情はセーブする人間ですが、たまにはこうして酒の力を借りて吐き出すのもいいのかも…
ああ、本当に吐くのはもう嫌ですがね。笑

まだ原稿も手につかないけど、なにかしなくては…と、
急いで栗本さんのオススメ作品の紹介ページ作ってみました。

上っ面の架空世界や光や希望だけではなく、
死や闇、破滅、暗黒といったものをちゃんと描ける作家さんであり、
だからこそ重厚な世界を生み出せたのだと思います。

遺された数々の名作を、みなさんもぜひ読んでみてください。
個人的には「我が心のフラッシュマン」は最高のロマン解析書。僕のバイブルです。


最後に、いくらか心も落ち着いたので、
あらためて

Rest in Peace をチューリップ




「イスラエルによるガザ攻撃」
2009.1/14


イスラエルによるガザ攻撃が続いています…

イスラエルとパレスチナの関係には、歴史的にも複雑な問題が絡み合っていて、
とくに聖地エルサレムやユダヤ人問題などを含む宗教的な問題もあって、
我々には双方の感情を理解しがたいのも無理はない。

ただ、ガザ地区からの攻撃への報復にしては、イスラエルの巨大な軍事組織による反撃は
パレスチナ人にとっては虐殺にも近い破壊力がある。
死者の数でいうなら、ガザではイスラエル側の数百倍の人数が死んでいるわけだから。
日本のニュース報道では、アメリカがイスラエル寄りなこともあって、
どうしてもハマスのテロ攻撃ばかりが非難されがちなのだが(ホロコーストの負い目があるドイツもイスラエル寄り)、
個人的にはユダヤ人単一国家を目指すイスラエルの、パレスチナ人への排他性は度を越しているようにも感じる。
もちろん、反イスラエルの過激派ハマスを擁護するつもりは毛頭ないが。
しかし、それとは別にユダヤ人という人種には、かつて中世の都市国家時代から数えると、
500年もの虐げられてきた歴史があるので、恨み骨髄というか、「孤立の逆ギれ状態」のような精神性が根本にあるのかも。

古くはカナンとも呼ばれた歴史ある王国のパレスチナは、聖地エルサレムの存在のせいで、
十字軍やらエジプトやら、オスマン帝国やらに次々に侵略、支配されて、はてはなだれ込んできたユダヤ人が
勝手にイスラエルなんて国を作ってしまったもんで、そのせいで追い出されたパレスチナ人が難民化、
両者の対立が始まったわけだ。

にわか調べの知識では、安易な見解は述べられないのだが、
歴史的事実をあらためて見直してみれば、その根深い問題がかすかに浮き彫りになるだろう。

*Wikipedia-パレスチナ問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E5%95%8F%E9%A1%8C
*攻撃を受けつづけているラファの町の現状
http://palestine-heiwa.org/rafah/
*パレスチナ情報センター
http://palestine-heiwa.org/feature/200410_gaza/
注)残酷な写真へのリンクあり

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と3つの宗教の聖地になってしまったことが、
後の人間たちによる繰り返される悲劇の火種だとしたら、神になったイエスさんも遺憾に思うことでしょうな。

ああ…人間よがく〜(落胆した顔)



「チベット問題をちょびっと考察」

2008/4/8


オリンピック聖火リレーへの抗議活動が日増しに激しくなってきていますね。
これは、知ってのとおり、中国によるチベット弾圧を批判する人々のメッセージであるわけですが、
当の中国ではチベット関連の問題は国民にほとんど報じられていないので、
どうして自国がそんなに批判を受けるのか中国国内の一般の人々には理解不能なわけです。


さて、ネットで調べたチベット問題にまつわる簡単な経緯を書きますと、
1950年に中国政府はチベットに対して『中国人民解放軍』を送り込み、チベット全土を武力によって侵略、
これまでに120万人以上のチベット人が拷問や戦闘で死亡したと言われています。
翌年には『十七か条の協定』が中国とチベットで結ばれましたが、これは中国政府が、
一国家としての国際的地位の確立を主張していたチベットを真っ向から否定し、
「チベットは中国の一部である」という位置づけにする一方的な内容でした。

それに怒ったチベット人たちは、1959年3月10日にに政治的中枢都市ラサにおいて、
大規模な抗議運動を起こし、以後、毎年3月10日には中国への抗議デモをする日となったのです。
今年はオリンピックイヤーということで、とくにこのデモの様子が大きく取り上げられましたが、
じつはこうした抗議活動と、それを鎮圧する武装警察との衝突は毎年起こっていたのですね。
チベット関連の情報の多くは、どうしても中国を通した情報に頼らざるをえないため、
これまではほとんどが報じられてこなかったわけです。

ちなみに中国のインターネットでは「ダライ・ラマ」で検索しても、なにも見つからないとか。
YOUTUBEにも規制がかかっているというし。それって、どうなんだろう…。

一方で、チベットの尼僧たちは、デモに参加すれば懲役を受け、
拷問や厳しい強制労働にさらされることになるのを知りながら、
それでも自らのアイデンティティのために危険なデモに身を投じ続けている。
なんとも、心の痛む話です。

しかし、だからといって
一方的に中国を非難するだけでは、国家としてより頑な態度をとってしまうでしょうから、
こうした聖火リレーへの妨害はあまり褒められたものではないことは確かです。
暴力的な妨害工作はそれこそ犯罪ですし。

…難しい問題です。
我々にはただ考えることしかできない。

平和の祭典であるはずのオリンピックが、
こうした政治的、国家的な問題を生み出してしまうというのは、とても悲しいことですね。


*参考
Wikipedia-チベット
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88
超入門チベット問題
http://www.tibet.to/mondai/index.htm



「疑うこと、信じられなくなること」
2005.12.17

ここのところは、マンション耐震偽造のニュースや、
栃木の幼女殺害、京都の塾での殺害事件など、
いろいろと痛みをともなったニュースが多くて、
それら報道を見ているだけでつらいものがありますね。

ここ数年で狂牛病や鳥インフルエンザなど、食の安全が脅かされはじめ、
それに続いて、今回の耐震偽造の問題では日本全国の鉄筋構造建築り信頼性が失われました。
衣、食、住のうち、その2つまでが、安全を大きく崩されてしまった。
そして、幼児への残虐事件の多発、少年犯罪などの報道により、
大人も、少年も、社会の中で少しずつ信じられないものが増えていっている気がします。

以前にも書きましたが、いろいろなものを疑いながら生きていくというストレスは
それは大変なもので、「まずは疑ってかかる」ことでしか自分の生命と安全を守れなくなるとしたら
我々は、本来は人と人とのつながりの土台の上に成り立つはずの信頼とコミュニケーションとを
少しずつ別のものへと変化させていってしまうことになりかねません。

そうなれば、ますます疑い、疑われることへのストレスは増してゆき
信じられないこと、信じていたことが裏切られることにより、
多くの人々の心と精神に傷を残すような状況がますます増えてゆく気がします。

これらの失われた信頼…とくに個別のものを指すのではなく、
牛肉やマンションや車や、塾や先生や、少年や彼氏、彼女など…
この社会における一般的な認識存在としての事象、事物を信じられなくなる…
ということはそれは大変なことで、
それらの信頼を回復することは一朝一夕にはまず不可能であるのです。

まだ、そう気づいていない人たちが、
自分くらいは大丈夫だろう…と行ってしまうそのたった一つの行為が、
結果として多くのものへの信頼を失わさせることにつながるのです。
小さなこと…タバコのポイ捨てや、電車内でのマナー、粗悪な運転、粗暴な態度…
誰かが見ているということは、それらの人にとって取り込まれた一つ一つのイメージが、
ひいてはその人たちが社会を見る目へとつながり、一人一人のそうした倦怠や怒りや諦めが、
町の雰囲気、社会全体のイメージを、そうした負の方向に少しずつ変えていってしまうのだ…
ということを、多くの人々に気づいてもらいたいものです。



「兵庫の列車事故」
2005/4/27


兵庫県の電車事故…
発生から二日たった現在、死者は90人を超えたようです。

マンションに激突してひしゃげた車体の映像は、とてもショッキングだったし、
あの中にいた人々のことを想像すると、恐ろしさと痛ましさにぞっとします。

亡くなられた方、怪我をされた方々はもちろん、一瞬にして家族を失った
遺族の方々の無念や当惑…そしてやり場のない怒りは察するに余りあります。

事故原因として置き石や、スピード超過、旧式の停止システム等、
いろいろな事が挙げられていますが
肝心なのはやはり、乗り物を操作する人間の意識なのだと思います。

ダイヤの遅れを取り戻そうと焦って、粗暴な運転をするというのは、
車に乗っていて遅刻しそうだからスピード違反をするのと同じです。
自分のことしか考えていない。
もし隣に自分の家族や大切な友人を乗せていたらと考えれば、
そうした自分本位の行動はできないはずなのです。

もちろん、運転士はいうなれはば「会社員」ですし、
給料をもらって仕事をしているのですから、
責務に対して忠実になったり、ミスを補うために焦るのも分かりますが、
電車も車も飛行機も、乗せた人の命を預かっているわけですから、
まず、乗客の安全と安心を第一に考えて欲しいものです。
そして、会社…ここではJR…の体質も、ダイヤ優先、スピード優先ではなく、
多少の遅れで運転士を追い詰めたり、罰したりするのではなく
もう少しおおらかな余裕を与えて、運行していってもらいたいものです。

かけがえのないもの…
それは「時間」の前にまず「人の命」がくるべきだと思います。
数分の遅れと、乗客の不安、そして安全を計りにかけて運転をするのだったら、
それは「事故を起こしてもいいから急ぎます」と言っているようなもので、
もしそんなタクシーやバスがあっても、大抵の人は乗りたがらないことでしょう。
優先順位を、まずはもう一度考えて欲しいものです。

失われた人々の人生はもう戻ってはこないのですから。


とりあえず…
しばらくは電車の三両目より前には乗らないようにしようかな。
電車=安全という図式が、我々の頭の中で崩れかけてしまいましたね。



「疑うというストレス」

2004/3/28


最近、信じられるものが少しずつ、減ってきている。
それは、食物もそうだし、人間同士のコミュニケーションにおいてもそう。

携帯電話やインターネットの普及が、もたらしたものは
どこででもコミュニティが持てる、いうなればバリアフリーの気軽なつながりであり、
そこに潜む気軽さと、間口の広さが、ときに我々を罠に陥れる。

たとえば、たった3、4年前のことを思い返してみても、
恐らくは、今よりは信用できるものがまだあった気がする。

テロ、コンピューターウイルス、迷惑メール、
SARS、狂牛病、鯉ヘルペス、鳥インフルエンザ
数々の連れ去り事件や、子供への暴行事件、虐待など
たった数年だけで、こうした不安……それもひとつずつがどれも大きな不安が、
我々の日常の生活の中に忍び込んでいる。

今では自分たちの近所すらも、安全とは思えなくなった。
我々は常に、後ろから来るすスピードを出した車に振り返り、
親たちは登校する子供が誰かに殴られたり、連れ去られたりしないかと案じ、
パソコンを立ち上げれば、送られてくるよく分からないメールがウイルスではないかと疑い、
携帯電話の向こうでは、恋人が浮気していないかと身勝手に気を揉む。
ランチのメニューでは、牛肉や鳥を食べる時に、これは大丈夫だろうなという不安が一瞬頭をかすめ、
夕食を調理する主婦は、鶏肉や卵をちゃんと加熱するように気を配るだろう。
テレビでの華美なCMに出てくるこの風景は、はたして本物なのかそれとも精巧なCGなのかが判断できず、
なにか騙されているような気がするし、第一それをいうのなら、
自分がメールをしているメル友ははたして、実際に存在しているのかどうかも分からない。

我々はそうした、「分からないこと」「信用のできないこと」を心の隅に追いやって、
牛丼に代わる新メニュー「豚丼」ならば安全だろうと、それを食し、
もしかしたらサクラかもしれない女性に熱のこもった顔文字入りのメールを打ち続け、
テレビや映画の作られた壮麗なCGを見て美しいと思い、
日々のニュースで報じられる、些細だが恐ろしい事件が、
実は自分の家のすぐそばで起こっていることとは知らず
疲れた体をひきずって、翌日の仕事のためあまり幸せでない眠りにつく。

それらはなんというストレスだろう。

世界そのものが少しずつ変容している。
毎年、少しずつ確実に信じられないものが増えてゆくというのは、
これはなんという恐怖だろう。
そして、いったん信じられなくなった事項は、根強い不信感となり、
これからも我々の意識に残留してゆくのだ。

スーパーの地下で牛肉や鶏肉を買う際には、我々は肉のパックを手にしながら
賞味期限が偽装されていないかと疑い、
BSEや鳥インフルエンザという言葉が頭の中でよぎるだろうし、
ニュースで爆発事件が報じられれば、真っ先に「テロ」という単語を思い浮かべるだろう。
メールの相手の返信が唐突に途絶えれば、他に連絡手段がないことに呆然とし、
今まで仲良くメールしていた相手の、住所も、本名すらも知らないことに気づく。
テレビや映画での美しすぎる風景や派手すぎるアクションシーンには、
これはCGではないかと常に疑いの目を向けつつも、その華美さに見とれてしまうし、
隣のアパートに長髪の怪しげな人物を見かければ、自分の子供が殴られないかと心配をし
自分のパソコンに送信者が奇妙な文字のメールが届けば、「ウイルス」を疑うだろう。

疑うというストレス。

信じられない、という不安は、これからも少しずつ増してゆくだろう。
我々の社会が今のように進んでゆくかぎり。
こうした茫漠とした不安は、やがていわれのない被害妄想や倦怠をともない、
ゆるやかに我々を浸し、その底のない海へ沈めてゆくだろう。
疑う、ということは、「自分が疑われる」ことにも怯えるということでもある。
疑い、疑われていると勝手に思い込みながら、我々は町を歩き、
友人と思っている相手とメールをし、恋人と思っている相手を不安げに抱くのだろう。

今携帯でメールを交換している相手が
もしかしたら電車の向かいに座っているかもしれないとは考えず、
じっと小さな携帯の画面を見つめたまま、
隣り合った人間よりもメールの向こうの見知らぬ相手を身近に思ってしまうという
その不確かな思い込みには誰も気づかぬのだろう。

ストレスは、気づかぬうちに我々を侵してゆくだろう。
不安に耐えられず、なんらかの精神の病に陥る人々はまだ正常な部類だろう。
麻痺してゆくことの方がはるかに不健全だし恐ろしい。
そのうちに、こうした不安や、疑いにも敏感でなくなり、
疑うことそのものがあたりまえのようになり、
騙し合いに慣れ、華美なCGの嘘を美とし、
不安を隠すために気楽で調子よく明るく振る舞うことが「普通」なのだ、という考えが世間にはびこり、
にっこりと笑い合いながら、心から相手を疑える社会が、
すぐそこまで来ている気がする。

ひとつずつ、確実に、信じられるものが失われている。
広大なネットワークと、誰とでもアクセスできる手軽なコミュニティは
信頼よりも、猜疑の方が蔓延の速度を速めている。

食の安全も、テロも戦争も、ウイルスも、
結局は恐怖をもたらし、人間同士の信頼を消し去るという点ではどれも等しい。
そして、これらは誰かのせい、ということではなく (もちろん原因となる特定の者はいるにしろ)
我々が、年月をかけて形作ってきた、あるいは形作ってきたと思っていた
この世界そのものの歪みがもたらしている結果であり……
表層に表れたこの世界としての「現在の状態」を示すものなのだ。

おそらく、これからも、いまだ表面には表れてはいないが、
くすぶりつづけている火種 (さまざまな事件、自然や食物の危機等)が、
次々と表れてくるのではないかという気がする。
それは、我々一人一人の心に潜む不安がもたらすものでもあろうし、
そしてそれらの「不安によるきしみ、ゆがみ」が寄り集まって、
年月をかけて解凍不可能なほどに固まってしまった社会的問題もあるだろう。

いずれにせよ、
我々はこの世界の中で生きてゆかねばならない。
これらのストレスを感じながら、
それでもまだ信じられるものを探して、
我々はさまようのだろう。


「身近な危機の話題」
2004/1/20


さて、たまにはシリアスな話題でも。

一昨年〜去年〜今年、と世界的にもテロ、戦争、あるいはSARS等の病気の話題がつづき、
今ではニュースを見る我々も、いつのまにかそれらを「普通のこと」のようにとらえています。

本当はそれらのひとつひとつは、とても深刻で恐ろしい問題なんですが、
私たちの中で、そうした「深刻」さを受け止める感覚が、徐々に麻痺してきている気がします。
本当に恐ろしいのはそのような無感覚なのであり、
手遅れになりかねない「痛み」を感じなくなったとき、
人の命の終わりはやってくるのではないか、という気がします。

フセイン政権崩壊後も、イラク周辺での自爆テロは連日のように続いており、
「ああ、またか」とテレビの報道を見る私たちは、今ですらそれを他人事のように
感じてはいないでしょうか?
昨年のSARSにしろ、今年に入ってのアメリカでのBSE騒動にしろ、
対岸の火事などでは決してない、実に恐ろしい問題だと思います。

とくに気にかかるのは、この頃とみに感じられる食の危機。
BSE、鳥インフルエンザ、鯉ヘルペス・・・
なにしろこれらは、人が生きる上で第一に確保すべき「食の安全」を脅かすものであるのですから。
ひとつでも恐ろしいものが、近年こうして頻発しているという事態になんら危機感を感じないとしたら、
それは人間としてあまりに無感覚であるといわざるを得ないでしょう。
じっさい、次に狂豚病かなんかが出てきたら(笑)、我々はそのうちステーキもトンカツも
焼き鳥も食べられなくなるかもしれません・・・笑いごとじゃなく。

今の若者たちは食べ物というのは、「コンビニやマクドナルドやファミレスで売っているもの」、
という浅薄な認識しかない方々がいささか多い気がしますが、その肉がはたしてどこで作られたか、
自分が今食べているハンバーガーにはさまっているレタスは、いったいどこの誰が栽培したものか、
などということを、時々でも想像してみて欲しいものです。

吉野屋の大盛り牛丼が食えなくなったのは何故か、
マクドナルドがTVのCMで声高にオーストラリア産牛肉使用をうたっているのはどうしてか、
それらの事柄を日頃から考えることで、我々の世界の食物の連鎖、
そして決して無関係でない国外の事情と、「すべてはつながっている」という点を認識し、
興味をもち、危機感を抱き、考えられるようになると思うのです。

専門店から牛丼が消える、ということが、
いかに史上かつてないおそるべき事態なのか、ということを知るべきだし、
今もそれらの「食の危機」進行中なのだ、という事実を受け止めてほしいものです。
せめて、10年後、20年後には今よりも少しは安全な食料が確保できる時代を作るためにも。


さあて、イラクへの自衛隊の先遣隊も現地に到着しました。
悪い言い方かもしれませんが、これによって
テレビの前でのイラク関係報道に慣れてしまい日常化した無感覚の我々が
再び多少の緊張感をともなって情勢を窺えるようになるのなら、
それはよいことでしょう。

新メニューをかかげた吉野屋や、くたびれた焼き肉屋が
住んでいる家の近くにある人たちの実感と同じく、
常に「近くの危機」に敏感でいることは大切ですし、
それはときにはつらいでしょうが、とても必要なことなのだと思います。



「9.11」
2002/9/11


9.11。
もう丸一年が経った。
あのアメリカの同時多発テロから。
今、日本テレビの特番を見ながらこれを書いている。

この一年の間で世界はどう変わったのだろう。

アメリカは対イラク攻撃を示唆している。
大リーグのストは回避されたようだが、それが大問題と報道されるほど
米国は平和だったのだろうか。
それともあえてそうした話題を持ち出すことで、変わらぬ日常を認識し続けたかったのか。

かつてアメリカが介入したイスラエル、バレスチナ問題は
今年に入ってさらなる終わり無き報復テロを繰り返している。

ビン・ラディンの消息は特定できず、すくなくとも報道に彼の名が現れる回数は急激にへった。
タリバンが政権を失ったアフガンでは、自由と平和が本当に戻ったのだろうか。

今日、9.11を迎え、米国のみならず日本や世界各地で、追悼式や黙祷が行われ、
テロの犠牲者を悼んだ。

テロに立ち向かった人々、救助や支援に全力をかけた一人一人の人々は、
私などの言葉にはできぬほど勇敢で、人間としての個人のモラルと正義によって動いた
素晴らしく、かけがえのない個々である。

今見ている特番に出てくる勇敢な消防士たちや、惨状を近くで撮り続けたカメラマン
ハイジャック犯に立ち向かった機内の乗客など、
皆、個人としての使命をまっとうして死んでいった人々だ。

私が悲しいのは、そうした人、一人一人としての存在や人間性とは別に
アメリカという国そのものを憎む人々がいる、というギャップである。

一人一人の個人への恨みは無くとも、その集合体の国家への憎しみが
このようなテロを引き起こす、というその大きな深い溝に私は嘆く。

ビル崩壊を内部からとらえたこの特番の映像に、この破壊から一年を経た今も
私は戦慄を覚えずにはいられない。

破壊は一瞬で多くの命を奪い去り、その数倍の悲しみを生き残った人々に刻み付ける。

無差別の破壊行為、すべてのテロを私は憎むだろう。

ただ、アメリカという巨大化しすぎたこの国に対して「傲慢」を見出す人々が
確かに世界にはいるのだ、という事実があることも認めるべきだ。

最大の消費国であり、テクノロジーと科学の先端をゆき、スポーツをこよなく愛するその国を
困窮と民族紛争の只中にいる、別の神を信じる腹を減らした人々がどう思っているかということを。

我々が想像することができるだろうか。

何が正しいか、どちらが正義かなどという論議はあてはまらない。
そもそも人間が生きることそのものには、正義や価値基準の統一化などはありえない。

そんな、「違う人々」がこの地球には一緒にいるのだ。

では、どうすればいいのだろう。

テロは許せない。
そう叫ぶだけではしかし、何も変わりはしないのだ。

悲しみ、悔やみ、嘆き、神に祈る。
言い方は悪いが、なにもかもが事が起こった後の慰めだ。

傷はいつかは癒されるかもしれない。
しかし、その頃に再び悲劇が繰り返されるのでは、我々人間の精神は何も進歩していないことになる。

そろそろ我々は真に地球規模での行動が求められているのではないだろうか。

環境問題にしても、京都議定書をほっぽり出したアメリカには、彼らなりのやり方と正義とがあるのだろう。
しかし、アメリカとしての立場や方法などは問題ではない。

最大の消費国が世界的な視点でのスタンダードでは必ずしもないのだ。
それに気づいているのか、または気づいていながらも自ら知らぬフリをしているのか。

この大国の行為を「思い上がり」と思う人々がいるかぎり、世界の普遍的な価値などは見つけられるはずもない。

テロでの犠牲者に対する哀悼の意はすべきだし、
大統領の演説に少々大仰さが混じったとしても不思議ではない。
ただし
悲劇をドラマチックに再構築するだけでは、言い方は悪いが
結局はハリウッド映画同様、実のないカタルシスにしかならない。

アメリカの正義を、ある程度は支持せざるを得ない国にいる我々としては
おそらく「世界」のために出来ることは限りなく少ないのだ。

せめて個人が、この世界で起こる事象を考え続けること
それが我々にできる最小の「真実」の表明なのかもしれない。

壊れてゆく環境、壊れてゆくこの地球の上で
これから我々はどうやって、「なんとかうまくやっていく」ことができるのだろう。

答えは現れないだろう。
ただ傷にばんそうこうを貼って、またケンカに向かうだけならば。

色々と考えさせられる。
そんな日に毎年なるのだろうか。

この9.11が


「ウイルス」
 2002/1/2


新年になりました。

が、世界の問題はいまだ解決などしておらず、国内でも経済的にも引き続き厳しい年になるでしょう。
デジタルやネットワークの日進月歩の進化には目を見張るものがあり、それに伴う諸問題は
そこに身を置く我々にとって今後ますます深刻なものになってゆきそうです。

だって、ウイルス!! 
なんと最近多いことか。
こうしたウイルスなどによる迷惑メールというのは、
無差別かつ匿名性のある悪意であるという点で、小型のテロとさえ言っていいでしょう。

テロは人々を恐怖させるだけでなく、人類のテクノロジーの進歩を阻害し、
まったく無益な回り道をさせ、時間を浪費させる、いわば退行と破壊をもたらす攻撃です。
「許せない」のは当然として、そうした悪意をばらまくことは、結局人間すべてを、
つまり悪意をまいたその本人すらもいずれは阻害することになるのだ、ということを自覚するべきです。

ウイルスのために壊されたハードディスクは、全世界でいったいどのくらいにのぼるのか。
部品のリサイクルにも限度があるでしょうに。
資源の無駄遣いと燃えないゴミの肥大化という点だけでもこれは許されざる行為です。

ウイルスソフトとブラウザのセキュリティ性能を上げてゆくという点では、
彼らの役割はそれらを供給するソフト会社への貢献といえなくもないでしょうがね(皮肉^ ^)。
しかしそれらは本来「無駄な産業」であるべきなのです。
そんな暇があったら世界平和と、しだいに住めなくなるこの地球の環境問題、
あるいは月、火星へのテラフォーミング、豊かな教育への取り組み、増えすぎる車の処理、
その他もろもろのために頭を使い、人材と資金を集め、時間をさいて取り組むべきなのに。

我々は自らが作り出したいまだ全貌の分からぬネットという洞窟に逃げ込み、
つかの間の喜びと、あるいは得たいの知れない恐怖とを味わい、
神経をすり減らし、好き好んでストレスを貯めています。

くだらぬことはよせ。
文明の停滞をうながす迷惑なテロはやめろ。
ウイルス。
それはコンビニのウーロン茶に毒を入れることであり、なべの中のカレーにヒ素を混ぜるのと同じことである。
あなたは犯罪者だ。
テロもウイルスメールも通り魔も、飲酒運転のトラックも、みな。
凶器であり、狂気のさただ。
マウスをクリックしてミサイルを撃つのは誰だ。
人類の敵となるということは、その自らをも含めた破滅を望むことに他ならない。

人を巻き込むタナトスを好む暗黒の精神。その醜さを知れ。
戦うならその手を返り血で汚すべきだ。
悪意は名を名乗れ。その勇気があるのなら。


うーん。
これはけっこうカッコイイエッセイかしら。ふふ。
なんかウイルスメールに腹が立っていたもので。
馬鹿者へひとことでした。

でもウイルスメールの根深さというのは、それを送信した者が犯人とは限らないということでしょうね。
コンピュータというものの特性を生かし、プログラムにより登録アドレスに勝手に毒をばらまいて、
私たちを知らないうちに「加害者」にも仕立て上げる。
「被害者」でありながら「加害者」としての恐怖も味わうというのは、
まさしく「ハイジャックされ自爆テロにおもむく飛行機の乗客」と同じです。
こんな卑怯で非道なやり方には、怒りを通り越して悲しささえも覚えてしまいます。

我々人類はいったい何度自分で自分の首をしめねば気がすまないのか。
これがもし「レミングの自殺」同様の一種の自衛的現象なのだとしたら、
我々の世界はどうにもならない所まで追い詰められているということになりますね。


「テロ翌日」
2001/9/12


昨日のテロ事件報道から一日たった。
事件に関する情報が増えるにつれ、その被害の大きさに慄然となる。
貿易センターに勤める日本人も、かなりの数が犠牲になっているようだ。
ハイジャックされて墜落した航空機には日本人学生も。

ペンタゴンでの死者は800名にもおよび、全体の死傷者は数千とも1万とも見られている。
ブッシュ大統領は、テロの首謀者、組織との徹底的な対決を表明。
実行犯がアラブ系のテロリストということは分かったらしい。
あとはそのバックにいるのがパレスチナかアフガンか。
どちらの国もそれぞれテロとの関与を否定しているが・・・はたして。

しかし何度見ても飛行機がビルに激突するシーンはショッキング。
特に2度目の激突は、多くのテレビカメラが回っていたこともあり、
あらゆる角度からの映像が、その恐るべきシーンを映している。
ビルの倒壊と立ち込める煙、逃げ惑う市民たちの映像は全世界に何百回と流されているのだろう。

しかし、当のパレスチナでは、人々がテロの成功に喜び、笑いあう様は、なんともいえない。
他民族というだけで、相手の不幸、災害を喜べるという感覚は、我々日本人には理解しようもない。

今後のアメリカの対応次第では、湾岸戦争の再現か、それ以上の激烈な戦いが始まることもありうる。

それにしてもアメリカを攻撃するのに選んだ凶器が、そのアメリカ人を多く乗せた一般の航空機だというそのやり方には恐怖する。
アメリカそのものを憎む「彼ら」からしたら、それこそがある意味皮肉めいた意味を持っていたのだろうか、とも思える。
操縦する自分の命をかえりみないばかりか、乗客や市民など一般人の巻き添えをも念頭に入れた無差別テロという点で、
ある意味、ミサイルを打ち込むよりも、相手の精神的ショックは大きい。
これは犯罪というレベルではない。

この数千人の被害者の代償をどうとるのか。
ブッシュ大統領のやり方が、今後の世界の動向を決める。


「しみじみと思う」
2001/06/08


グインサーガ79巻を読んだ。
動きだしましたねえ。20年目ですか。次は80巻。
私がこの長大な物語を読み始めたのが高校3年のころ。
たまたま学園祭の準備期間で、ヒマだったときに学校の図書室で読み始めてからすっかりハマリ、
翌日からもらっていた昼飯代の500円で文庫本を毎日買っては一心不乱に読み、
当時出ていた29巻をきっかり29日で読み通した、という記憶があります。
それから10年がたち、この物語はいまようやく佳境、というか、いよいよクライマックスの「始まり」を迎えようとしています。
その間自分でも小説を書き始め、まんがも書き、巷ではパソコンが普及し、ついにこのようにインターネット
という新たなこ表現手段を人は常用するまでになりました。当時は考えもつかなかったことです。
時の流れの速さ、光陰矢のごとし、という言葉がしみじみと去来しますね(じじくさ・・)。

それにしても今日の大阪での事件・・・。小学校での惨殺事件・・・。
あまりにも残酷、かつ身勝手。「死刑にして欲しい」と、道連れに子供たちを、とは。
近頃はネットでの「出会い系」サイト関連の殺人も起こり始め・・・、自己本位の殺生が目立ちます。
今後はこのようなより「時代的」な事件が増えてゆくのでしょうか。
ネットワークは広がっても基本的に我々は「孤独」であり、勘違いや思い込みの触れ合いで
友人、恋人になったつもりでいても、それはすべてはオンライン上の接触にすぎず、
互いの意思は、やり取りする文章に反して、全く通っていない、という状況もあるわけです。

我々は今後何を見、何を体験してゆくのでしょう。
恐怖すべきなのは、時のながれではなく、それに翻弄され、時代に巻き込まれてゆく我々、
進歩するデジタルという「道具」を逆に信じすぎたあやうい個人の、その心と体のありかた。
世の中にあわせて常に変容をせざるを得ないが、しかしうまくいかず「適応しそこねた」精神なのかもしれません。
そしてそれは、他人事でも、単なる狂人のものでもなく、私たち「すべての」人のなかに含まれる葛藤であるともいえるのです。


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