私の日記より4
2000〜


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00/03/28


今日、親父が意識をなくしたとの連絡で、病院に行く。

おりしも二日ほど前、親父が死んだ夢を見たばかりなので少しどきりとした。
まだそれほど切迫した状態ではないようだが、このまま容態が悪くなったら危ないらしい。

つい、生と死について考えてしまい、夜中も三時をすぎたというのに眠れない。
自分では死への恐れなど何度か克服したつもりではいたが、
身近な死の香りをかいで、それがついに人事ではなくなったということなのか。
親に死が訪れれば、当然次は自分の番。
少しずつだが確実に、それはやってくる。
生と死には意味などない。
生まれたから生き、そしてそのまま死ぬだけなのに。
そこに何らかの意味を見出そうとして、人は死への恐怖と生への執着に取り乱すのだ。
意味などは必要でない。
ただ死を受け入れ、今を生きるだけでよいのに。
私は、自分にはそれを受け止められる強さがある、と思っていたが、
今ごろになって、死ぬということの意味・・・・
すなわち、自分という存在がこの世から消え去っても、世界は続き、
少しずつ変容してゆき、そして、死んでしまった自分は
それらを見届けることが出来ないこと、かつて自分が書いた作品、
あるいは自分自身の存在が、他の人々にとってどのような意味を持つか、
あるいは持たないのか、を知るすべはないのだ、ということ。
それらの必然にあらためて恐怖する。
死そのものなど、私には恐怖ではない。
ただ、なんらかの方法で、肉体が失われた後でも、
しばらくこの世界のありようを、見届けることができるのならば・・・・

私の恐ろしいのはその点だけ。
自分の意識が消滅すること。
それは世界における自分の場所がなくなることであり、
自分と世界とのつながりが消えることでもある。
真っ黒になるのか、真っ白になるのか、
死という「無」に関して、生きている我々には分かるはずもないが。

私が今文章を書く意味は何なのか。
何年か、何十年か後に、私は確実に死によってこの世から消えうせる。
一日ごとに死は近づいてゆくのに、何故私は、その一日一日を
小説、といういわば空想の物語作りに打ち込むことで、時を・・・
貴重なときをすりへらすのか。
それはそれほど重要なことなのか。

いや・・・そうじゃない。
そう、ではない。
人間は別に死を待つために生きるのではない。
それなら、
死ぬまでの時間を貴重なものとする考え方はさほど正しくない。
自然ではない。
ベクトルが違う。
死を想定し、そこから時を逆算して考えるのは、あまり健康的ではないように思う。
かといって、かつてのようにただ時を浪費し、死を考えず、
ただのらくらと年を重ねてゆくことはもうできない。

死は、考える。
ただし、想定はしない。
死は身近であり、自然である。
ただ、必要以上に恐れたり、大げさに意味を付加するべきではない。
ありのままの死を受け入れる。
自分の番がくる前からおびえない。
ただし、本当にそのときが来ればじたばたしない。

死ぬために生きない。
死ぬまで生きるだけ。

死ぬまでの時を計算して、急ぎすぎてはいけない。
ただしのんびりしすぎてもいけない。
時は確実に流れゆく。

小説を書く。
意味なんてない。
それは生きることに意味なんてないように。
生まれたから、ただ生きる、のだから。
私の頭の中で物語が生まれつづけるのなら、
それを私は書きつづける。
ただそれだけ。

小説を書くことに意味なんてない。
生まれたから書く。それだけだ。
それでよいのだ。





00/07/17


今年の夏は異常に暑い。

年々、温暖化のために気温は少しずつ上がり、このままゆけば数十年後には夏に外出することは、自殺行為となるのかもしれない。

「水晶剣伝説」1話、470枚を超えた。500枚はどうしても超えそうだ。
「小説が上手くなる」ということはどういうことなのか、分かってきた。
文章力、想像力、語彙力、構成力、それのみではない。
それは、今自分が書いている、あるいは考えている文章が、「この小説にとって本当に必要か」どうかが分かる、そのスピードが速くなる、ということなのではないか、と思い始めた。

つまり、無駄な文、効果的でない文を書き終える前か、書く以前にか、ふり捨てられる能力。
余分な肉をはじめからつけないやり方を身につけること。
後からそぎ落とすのにはおのずと苦痛がともなわれる。はじめから無用な文章は書かないにかぎるのだ。
思考の早さ、ともちがう。いうなれば、「いるかいらないか」を直感で判断できる力のことだ。
そして私はそれを身に付けつつある。
書きつづけることで確実に「上手く」なっている。

いける。




00/11/20


「書かない」時間に何をするか、
ということが実は最も重要なのではないか、と思った。

「書いている」ときには、迷いはない。
「作品」に対しての悩みや迷い、つまり「産みの苦しみ」はあるにしろ、「書く」という行為そのものへの迷いはない。
決定された行動を遂行する時間、というだけでそれは重要であると同時にすでに重要でない。
何をするべきか考えるより早く、時間の流れに身をおけるからだ。

「書かない時間」とは、それ以外の時間すべて・・・
寝る時間、飯を食う時間、メールをする時間、本やまんがを読む時間、音楽を聴く時間・・・は、全て「自分で有効な行動を決定しなければならない時間」なのだ。
そしてその決定を、ときに無駄がないように、かつ冷徹に、自己に鞭打つつもりで行えるかどうかで、その時間の有為性が決まる。
それの繰り返しでときはながれ・・・
結果として、一ヶ月で、一年で、何が出来たか、何をなしとげたか、が残るわけだ。

「書かない時間」に何を選択するか

私にとって生きていくうえで最も重要なテーマは、今後もそれなのだろう。




 00/12/13

 昨日、ミープ・ヒース著「思い出のアンネ・フランク」を読んだ。

「アンネの日記」を読んだ方ならご存知だろうが、このミープ・ヒースという女性は、ユダヤ人迫害によりオランダに渡り隠遁生活をするフランク一家を支えつづけた、その中心者の一人である。
日増しに食料が乏しくなり、ナチスによる締め付けが厳しさを増すなかでも、フランク家の人々を励まし、食料を調達し、友人であるユダヤ人一家のために尽力を惜しまなかった。
一家がついにその隠れ家を発見され、連行されたとき、その荒らされたかれらの家からアンネの書いた日記や紙の束を集め、保管したのも彼女である。
 
アンネ・フランクはユダヤ人であるというだけで、迫害を受け、その家族と共に「隠れ家」に身を寄せ、そこから一歩も外界に出られぬ窮屈な2年半の間に、数々の日記や文章をしたためた。

15歳で収容所で死亡するまで、彼女は小さな希望を忘れなかったし、聡明で機知に富んだその筆跡からは、50数年をへた今見ても、いかにアンネが優れた想像と、天性の明るさと勇気を備えた少女であったかがわかる。
「日記」を読んだときは、私はつくづくこの少女の身の上に起こった抗しきれない陰惨な事態を嘆き、まるで自分の友人か娘のことのように悲しみ、世界の不条理を呪った。
このような類まれな才能と本質的な光の魂をたった15年で奪ってしまったその、人の手による非道を憎んだ。
 
しかし、今、ミープという大人の視点によるもう1つのアンネの話を読んだ私は、別のことも思った。
実はフランク一家の2年間の隠れ家生活は、恐るべきぎりぎりの均衡の上にかろうじて成り立っていたものだったのだ、と。
そしてアンネらがなんとか生きていられたのは、父であるオットー・フランク氏の聡明さと、そしてそれらを支援した人々、ミープとヘンクのヒース夫妻、コープハイス氏をはじめとする彼らを生かすための惜しみない尽力のたまものだったのだ、ということを。

もちろん、まったく外界と途絶された隠れ家での生活で、食物もままならず、風呂もなく、トイレの水も流せない、
そんななかでの2家族8人による物音をひそめながらの極限状態の生活のなかで、それでもなお、素直さと、自己の発見と、他者への共感、そしてあふれる想像力ともの書きとしてのしゃれた視点とを失わず、「日記」を書きつづけ、勉強しつづけ、ジャーナリストと作家への夢を持ちつづけたアンネは、素晴らしく、そして無論そうだからこそ50年をへた今でも世界中で、彼女なきあとも「日記」は読みつがれているのだ。
アンネの才能とその豊かな感性とは、失われてからはじめて気づくには、あまりにそれは素敵に大きいもので、そして無念な喪失である。
 
ただ、私は今回、アンネらを最後までかくまいつづけ、その食料探しに奔走しつづけた秘密の共有者、ミープ・ヒースの「思い出のアンネ」を読んで、その奇跡的なまでの経緯にあらためて驚き、感心し、感動した

友人であるフランク一家を自らの危険もかえりみず、かくまい、その命をながらえさせるために苦悩し、ときに絶望しながらも、彼らにたいしては常に明るく接し、励ましつづけ、自分の弱さや心配事を隠しつづけたこの女性の勇気、毅然とした決意、自己を曲げぬ強さ、不条理に対する憤りのまっすぐさ、それらすべてに心からの敬意を感じた。
ナチスによるオランダ占領で、状況は日増しに悪化し、自らの食料にも困りはて、夜毎空襲の警報に悩まされながら、希望を失わずそれだけでなく、他人である友人にたいして、それがユダヤ人であろうと決してその友情を失うことなく、
自分にとっての正道を行きつづける、というのは、なんという困難だろうか。

このミープ・ヒースやその他の本当の協力者、そしてアンネの父の聡明な冷静さ、その1つでもがなかったら、アンネ・フランクはもっと早くに生を奪われていただろう。
 
すべての奇跡的なまでの均衡と意志が合わさり、「アンネの日記」は残されたのだ、とはいえまいか。
アンネだけでなく、ナチスによってその若き命を奪われていった少年少女は数多い。
そのなかで唯一、アンネの日記、決して彼女が誰にも見せようとはしなかった、自らの思いのたけを友人である日記のキティに語ったそれが、こうして残され、後年に世界中の人々の知るところとなった。

それにはまず、彼女自身の類まれな才能、普遍性を伴った自己認識と同様の他者へのまなざし、そして機知に富んだ文章があり、つぎに父であるフランク氏の冷静さ、オランダに逃げ、見事な「隠れ家」を見つけ、家族を守ったその勇気と行動力、そしてヒース夫妻ら完全に信頼できる友情をもった支援者たち、その惜しみない尽力の数々、とりわけミープ・ヒースのアンネへの理解と深い友愛の情、それらがすべて合わさり、ほとんど不可能に等しい2年半の彼らの生活をかろうじて成り立たせていたのだ。

アンネらがナチスに連行された1ヶ月後、オランダは連合軍に解放された。
あと1ヶ月でも彼らが見つからずにいられたら・・・。
そう思わずにはいられないが、しかしそれをいうならそれまでの2年間は、かぎりなく奇跡的に生き延びた年月であることが、文中からも察せられる。そしてそれを可能にした人々の勇気、果断さに私は深く敬服してやまない。

結局捕まった8人のうち生き残って戻ってきたのはアンネの父、フランク氏だけだった。
アンネと姉のマルゴーは母からも引き離され、収容所で病にかかりひっそりと亡くなった。
戻ってきたフランク氏にミープはかきあつめたアンネの日記と紙の束を渡した。
そしてミープ・ヒースは1987年にこの本を著した。

そう、すべては遠い昔の話ではない。
アンネがもし生きていたら、ことしで70歳。
まだ祖母よりもずっと若い歳なのだ。


参考「思い出のアンネ・フランク」 文春文庫


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