私の日記より3
1998〜

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1998.03/28


人は実際の悲しみや、つらい経験を味わうのは嫌がるが、
悲しい物語や映画、小説などはどうして好んで手にとるのだろう。
 
そこには多分、物語や映画などにおける
「悲しみ」を疑似体験できる、という意味合いが強いように思う。
 たとえば、悲しい映画を見、その主人公や情景に自らを投影することで
「悲しみの感情」を味わう。
そこは実生活においての悲しみとは違い、手軽にまったく禍根を残すことなく
「悲しめる」という場なのである。
 
つまり我々は、物語などを読んで、その登場人物になり代わって、
笑ったり、泣いたり、恐怖したり、人を愛したりすることで、
現実生活においての感情表現の喪失を補完している、ともいえるのだ。

 そう考えると、かつてのように自然にすべてを体験し、
実際に人を愛し、歓び、悲しみ、泣き、怒る、という
「純粋な感情体験」を失いつつある我々現代人にとって、
それらの感情を気がねなく発露できる場としての、
物語世界はもはや必要不可欠なものとさえいっていい。
 
年間、気が遠くなる数のドラマ、映画、アニメ、小説、まんが、音楽、舞台、コンサートなどが、
次々に生み出されてゆくのも、もちろんそれを作り出す創作者の欲求もあるだろうが、
それを欲し、それを見、読み、聴きたがる人々の、その多さゆえなのではないだろうか。

 現代の我々が、おそらくは共通して求めているのは、それが音楽にしろまんが、ドラマにしろ
結局は、「自己の感情表現の代行行為の可能な空間」なのではないだろうか。
 そして今では、我々が純粋に自分の感情を表現できる場の多くは
そうした創作物の恩恵によるところが大きい。
 
進化の末に、感情をもつにいたった我々人間が、それらの発露のために自ら、
泣き、笑い、憎み、愛するための物語を作り出した、というのは大いなる皮肉でもありますな。

1999,08/13 


オレは陰険なやり方が大嫌いだし、陰険なやり方をする人間とは断固として戦う用意がある。
 そのためなら腕の一本や二本なくなってもいいし、・・・二本は困る。
一本なら、小説を書くのに支障のないくらいの犠牲なら払ってやる。
 
とにかく、そうしたやり方は許せないし、
第三者としてそれらの一端を垣間見ることは非常に気分が悪く、また情けなくなる。
 
はっきり言っておくが、自分は、たとえいつも仏頂面をして、
哲学者のように眉にしわを寄せていようと、
そうした陰険なやり方はプライドにかけてしたくもないし、
たとえ陰気な人間に見られることがあっても、陰険な人間に見られることは耐えがたい。

 死ぬか生きるかとはっきり問うだけの強さを持ちたい。
 なぜなら自分はその問いにはっきり答えられるからだ。

 何をすべきか、何をしたいか、何を望むのか、はっきり問うだけの強さを持ちたい。
 なぜなら自分は何をすべきか、何をしたいか、何を望むかを
この上なく認知して、それに邁進している。

  どのような弱き心も、「強くなりたい」と望みさえすれば、いつかはそれはかなう。
強いふりをしつづければ、いつかそれが本物になる。
 
弱いままで、すべてを受け入れられず、なお強さを望まぬ者。
それに対してならはっきりと言える。弱さは罪である、と。

 はっきりと告げたい。告げられたい。
 陰険に隠さず、その弱さを白日のもとにさらけ出せ。
 すべてはそこからなのに。
 
陰険さがはからずも、人の知るところとなるとき、それほどに石の裏にひそむ醜い虫のように、
隠されたさかしまなものが人を暗鬱にさせるものはない。

 PS. 親父のワープロの文面を見てしまい、多少あぜんとしたこと。

1999.10/20


すべては自己否定から始まる。

「俺は馬鹿だ」「こんなのはダメだ」「くだらない」
自分に言い聞かせ続ける。
作品をつくりながらはじめのうちは「これはとてつもない傑作だ」と思い勢い込むが、
完成にちかづくうちに「こんなのはダメだ」という思いが生まれてくる。
そのような複雑な思いの中、それを完成させる。
そして完成したものをみて「これではダメだ」と再び思うのだ。
そしてそこから「次へ」のステップが始まってゆく。
それが成長ということだ。


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