私の日記より 2

1997〜

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1997.03/26
 

夜に見る夢において、終わりは突然にやってくる。
愛してやまない女性との果たせぬ抱擁、目の前に広がるごちそう、空を飛ぶ自分・・・。
結末はない。ただ目覚めるだけ。
しばらくの余韻と、ここが「現実」であるという認識。
なんとない喪失感。着替えて、学校へ、あるいは会社へ行かなくてはならない、
机に向かいものを書かなくてはならない。・・・夢の終わり
 
現実に作家が物語をかくとき、もっとも苦痛なのは夢のおわりをかくことだろう。
しかし、現実の「出版物」として完成させるには、きちんとした「完結」が必要なのだ。夢のようにはいかない。
広げたふろしきをそのままにして、どこかにいってしまうのがじつは一番気持ちがいいのだ。
「読み手」のことを考えるのは、実は多少の面倒くささをともなう。
自分の頭ではなにもかも分かっていて、いつでも好きな時間に物語りの中に入ることができる。

 〜中略〜

 「自分は」「いつでも」その世界へ旅ができる。
どうして「文字」にして定めてしまわなければならないのか、という・・・

 自分の世界を「他人」に見せる、ということはやはり大変なことなのだ。
基本的にそれは「妄想に色をつける」ことだ。
 現実感はすでにある。それは「自分」にとっては「現実」なのだから。
物語を他人に見せるということは、自分にとっての「現実」を、他人にとってもそれに近づけることなのだ。
 よい妄想家であることは作家にとって必要だが、それだけでは自分の現実を他者に見せることはできない。
いくら見事な妄想をしたところで、それをじっさいの文章や絵にする際、
妄想をありのままに伝えられるだけの文章力、表現力がなくてはうまく伝わらない。
 逆にたぐいまれなる表現力をもっていても、
妄想そのものに現実感や魅力がなくてはそれも良い作品とはいえないのだ。

ようするに、良質の作家とは、まず自分の中に魅惑的な
「現実であるもう一つの世界」を持っていて、
そしてそれを「なるべくそのままのかたちで」
伝えられるだけの表現力をもつ者である、ということなのだ。

1997.03/?
 
人間は皆等しく、迷いと怒り、そして悲しみのなかにいる。
 
そして、それらを見ないふりをするか、それとも真剣に対峙するかで、
そこから導かれる解答の質が決まるのだ。
 解答はどんなとき、どんな場合でも常に存在する。
 ただ、それを解答だと気づかないか、気づかないふりをしているかにすぎない。

1997.08/?

 私が「エースをねらえ2」を素晴らしいと思うのは、
アニメでありながらこの作品には、「生」と「死」を見つめること、
ときの流れ、人の成長、希望と絶望、「それでも生きてゆく」という視点があり、
それがドラマとして成立しているからだ。
 
やはり、というか、特に「緑川蘭子」の格好良さ、美しさはどうだ。
お蝶夫人との真剣勝負において、病み上がりで本調子でなく、
ぼろぼろになりながら圧倒的に負けていてさえ、ひろみに向って

「まあ見てなよ、勝つのは私だから」

とにやりとする、あの強さ!素晴らしい。
 私がペンネームに使うだけのことはある!(笑)

1997.08/06
 
山田かまちはやはり「天才」だったように思う。
 天才というのは、私が思うに、初めから才能がすべて備わっていたわけではなく、
人並みはずれて「自己学習能力」と「想像力」を有している、ということなのだと思う。

たとえば、1冊の本を読めば、そこに書いてあることはもちろん、
その本に「何が書いてないか」までもを想像できるのだ。
物事を1つ成功させれば、それが「失敗した場合」までもを想像し、擬似体験することができるということ。
曲を1曲作れば、その曲には何が足りないのかを同時に知ることができるということ。

 つまり「学習」とは1つの体験と、1つの想像により、
その2つを同時に「体験したこと」として自身にとりこめる、という能力なのだ。
 
おそらく山田かまちにとって不幸だったのは
自分の想像と思考の早さに、周りの環境が追いついていかなかったことだったのではないか? 
人間や愛や宇宙、創造と狂気についてまで考えながら、
毎日同じ時間に学校へ行き、退屈な授業を受けつづけることは、
彼にとっては拷問に等しいものだったはずだ。
 
私がかまちの死を悲しく思うのは、
彼がそうした鎖に縛られたまま、ある程度の社会的自由を得る前に死んでしまった、ということ。

これから彼が作り上げるはずだった
数え切れないほどの曲や詩や絵が見られない、ということ。
その才能を摘み取っていった運命に私は涙する。

 アンネ・フランクが、その陽気で純粋で、機知に富んだ才能をナチスによって摘み取られてしまったように。
物語作家になる、という永遠にかなえられなくなった彼女の夢に、私は涙する。
 
すべての才能が、それが本当に発揮される前に失われてしまうとき、
私は最も世界と運命に対して不条理を呪う。
死んでしまった後に、その人の重要さ、才能、を発見する、常に「手遅れの人間たち」を私は哀れむ。

 親が子供に与えるべき最大のものは、きれいな洋服でも私立幼稚園の入園章でもなく、
ピアノやギターやヴァイオリン、そして本やレコードなのではないか、という気がしてくる。
なるたけ「早く」子供の才能を、その「程度」を見極めてやることが、
結果としてその子供が自信を武器に、学校という小社会を戦ってゆける精神の支えとなるのではないか?
 
人間は平等などでは決してない。
生まれたその瞬間から、王子や王女になる者もいれば、数年間の命と宣告される者もいる。

平等な教育など本当はするべきでない。
それはただ単に、一人一人の親が子供の才能とその器を見極め、
その能力を伸ばしたり、個性を尊重したり、興味を持つ学問を教えたりすることが「できない」から、
何百人かをごたくそに1つの檻に閉じ込めて、同じえさと同じ教育を与えて、思春期を通過させるのだ。
そうすれば、そこそこの程度の知能を持った少年少女が、
そこそこ立派な社会をつくってくれるだろう、という発想がそこにはある。
愚かで進歩(進化)のない考えだ。
 
才能や個性を押しつぶし、その代わりに反抗心と倦怠による狂気をおしひそめた
ひとにぎりの少年少女を生み出しつづけていることに、なぜ気づかないのだろう?
 同じ人間を機械的に製造したいのだったら、子供が生まれた瞬間から、
すべての子供に同じミルクをやり、同じ環境で育てればよい。
学校はくだらない。
そしてそれを「くだらなく」するのは教師でも生徒でも、馬鹿な試験でも最低の授業でもない。
それは「学校」という檻そのもの、それが「檻」であるせいなのだ。
 
私が親となってまず、ものごころがついた子供に教えることは
「死ぬことと生きること」であり、「男と女」であり、
「音楽」であり、「物語」であり、「言葉」であり、「時間」であり、「人間」である。

参考 「山田かまちのノート 上 下」筑摩文庫

1997.08/30

昨日書きたいことと、今日書きたいことは違う。

それはつまり、昨日の自分と今日の自分が違うからだ。
すべての作家がその日はじめにする作業は、
「昨日の自分」「今日の自分」
つなぐことである。

1997.11/17
         
       
 
目的を達成するための五箇条

1.まず「目的」を定めること
・・・・まずはおぼろげに、そして徐々に詳細に

2.目的に至るための「方向」を見定めること
・・・広い視野を保ち慎重に、確信とともに大胆に

3.その方向に進むための「方法」を考察すること
・・・はじめに何をすべきか、そして次に何をすべきか、段階ごとのやり方で

4.方法を実践するための「道具」をそろえること
・・・それはときに「知識であり、「技術」であり「感性」であったりする

5.道具を有効に活用するための「判断」を磨くこと
・・・効率の良い実践は、技術よりもむしろ判断による。

 以上の事項を正確かつ論理的に、勇気と理性をもってこなすならば、
 人はどのような目的にも到達できる


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