私の日記より 1
1994〜


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1994.04/13

 今日はTVやニュース、新聞などの影響力について考えてみたい。
以前私は、上からそなえつけられ、方向づけられた情報、あるいは意識を自分のものと思い込むのはとても危険である、と書いたことがある。
 TVでやっていたから、活字であるから「正しい」のだと思い込むことは大変危険である。
 かつての湾岸戦争において、帰国したアメリカ兵たちは、国民の喝采をあびて凱旋したという。アメリカ国民たちは、自国の軍隊の正義を、信じて疑わなかった。悪の激化はフセインでありそれを討伐した我々は、正義の軍隊なのだ、と。
 その要因は明白で、報道機関に未だかつてないほどの規制をひき、情報をうまく操作したからである。
 世界中に流された湾岸戦争の映像は、全てが同じもので、軍が許可したものばかりである。あるいは、報道されたニュースなどによって、この戦争は、公正な、軍人以外の被害者をほとんど出していないかのような、クリーンな戦争(実際、「戦争」という名のつく殺し合いに、クリーンもくそもないのだが)というイメージを見る者に与えた。
 イメージとはとても重要なもので、この戦争で国民の大続領支持率は、急上昇したそうである。間違っても、逃げまどう市民たちを虐殺するアメリカ兵の映像などは、カメラにおさめられては困るのである。
 しかし、実際に大統領に攻撃中止を決意させたのは、その虐殺の写真だった。
 「死のハイウェイ」と呼ばれるその光景は、まさに恐るべきものだった。逃げまどう市民たちの車に、容赦ない攻撃を加え、車は焼け焦げ、散乱する死体、少女が抱いていたであろう人形が、道に転がったその写真のありさまを、全世界に流していたら、果して、アメリカ国民は自軍を歓呼の喝采で迎えただろうか。

 メディアによる、情報の影響力とは、恐るべきものである。
 報道された情報を、全て信じ込むのは危険である。
 今現在、TVをにぎわせているカルト教団のニュースにしても、確かに私自身あの教団はかなり怪しい、と思ったが、それは単にTVの報道でやってたから、とか、お気に入りのニュースキャスターが彼らを非難したから、ではなく、情報を単なる「情報(それ以上でもそれ以下でもない)」として受け止め、「自らで考えた」からである。
 問題なのは、TVでこう言っていた、先生はこう言っていた、新聞にこう書いてあった、ではなく、「自分はどう思うのか」なのである。何事も自分で、自分の頭で考えてみることこそが重要であり、我々が知能を持った「人間」たりうる由縁なのではないだろうか。
 情報はあくまで「情報」であり、それを方向付けるのは、あくまで一人一人の受け取り手なのである。
 メディアに氾濫する情報の中には、すでに方向付けられたもの、受け取り手にその方向性を強要するものさえある。そうとは知らずに、そのそなえ付けられた価値観を自らのものと思い込むほどに、危険なことはない。それは戦時中に天皇をカリスマと仰ぎ、欧米人を鬼畜と呼ばしめた、あの帝国意識に近いものがある。
 集団、とくに軍事国家、宗教団体、軍隊、警察、あるいは一般の会社に至るまで、統一された意識をつくりたがる、という点において、そうした集団意識はどれも結局は同じである。友人に聞いた話では、ある会社を就職活動で訪問したところ、まず社長のビデオを見せられ、感想を聞かれた、という。社長がカリスマとして君臨するその会社と、教祖のビデオをみる教団の信者たちと、どう違うのだろう。

 個人の意思を尊重せず、ゆがめられた統一の意志を持たされる、という点で、宗教団体も戦時中の国家もそう変わらない。
 問題なのは、集団に所属する一人一人が、「自分たちは正しい」と思い込んだり、思い込まされたりする、という間違ったヒロイズムを持つことである。
 「自分たちが正しい」と思い込む正義の意識こそが、他のものを排除することをためらわない、絶好の大義名分となる。そうして、自軍の正義を信じる者同志が、過去、幾多の戦争を生んできた。
 集団に属すること、それ自体が悪いわけではない。我々の社会は、集団の集合によって成り立っているのだから、全く集団に属さないということは、ほぼ不可能である。だからこそ、常に客観性を持つことは大切であり、上からそなえつけられた情報を意志あるものとして、疑いもなく自らの意志と思い込んでしまうことが、最も危険なのである。

 TVや新聞の情報が、情報としての枠を超え、意志をともなって一人で歩き、見る側にとりついてしまう、
 そうしたメディア氾濫の時代に我々はいるのである。



1994.05/09


連休が終った。時は永遠じゃない。
なべて世はこともなし。
それはセナが死のうが、飛行機が落ちようが、そうなのだ、と思う。
人間は「死」というものを恐れすぎるのだ。
誰が死んだ彼が死んだ、と騒ぎ立てて、怖い怖いと思う。
死ぬのはあたりまえ。いつかは死ぬのが、我々も特別な存在などではない、ただ動物であることの証明なのに。
アフリカのライオンがたくさん死んだとして、それが世界中のライオンが死を恐れて騒ぎ出すことにはならない。
我々はマスメディアを発達させ情報を多く得すぎるために、全ての人間の死を知ってしまう。
そしてより多くを考える動物であるがゆえに、死の恐怖におののく。
野生に生きる動物たちにはそんなものはない。死んだものは忘れ去られ、自らも「死ぬまで」生きるだけだ。
我々だってそうなのだ。死ぬまで「生きる」。それが動物のありかたではないだろうか。
それがどんな形で訪れようとも。
そして今日も。・・・なべて世はこともなし。世界中で人が死ぬとも。



1994.06/02


この国は車が多すぎる。最近とくにそう思う。
路上駐車などあたりまえ。道を歩けば車に当たる。
外出すると人間よりも多く、車とすれ違う。
よく考えるとこれは異常なことだ。
だいたい、国中のパーキングスペースよりも車の数が多い、というのはただ事ではない。
土地は増えないのに、車だけは次々に生産され増えてゆく。
歩いていける距離なら歩けよ。といいたくなるが、みなさん車がお好きなようで。
殻がなくては生きてゆけないかたつむりのように、
そのうちに、人と人とが出会って挨拶を交わす代わりに、
車同士がすれ違いざま手を振る世界になるのだろう。
バスの運ちゃんみたいに・・・



1994.11/15

 人をほめるのはあまりいいことじゃない。
 勿論、互いにたたえ合ったり、心から敬服するのはすばらしいことだ。
しかし、ここでで私が言いたいのは、何かをなしとげた者に対して、何もしない者が「ほめる」権利がはたしてあるのか、ということだ。
 今日TVで、難民キャンプに実際に訪れた大学生の姿に対して、親父が「えらいな」と言った。
 一見ごくあたりまえの感想に聞こえるが、よく考えてもらいたい。彼らに対して我々が「ほめる」権利があるだろうか。
 もし私が彼らの身であって、ぬくぬくと飯を食ってげっぷをしている日本人の一人に「えらいね君」と言われたら、きっと腹が立つだろうと思う。(そういうアンタは何をした?)と思うだろう。
 そうなのだ。何もしない者が、彼らをほめるいわれはない。
 彼らはべつに「何もしない日本人」にほめられるために、難民キャンプを訪れたのではないし、そもそも「ほめる」という行為自体が、彼らをバカにしている。
 「ほめる」というのは、言い換えれば「僕にはできないや、君はえらいね」と言っているようなものだ。
 「えらいね」というのは、ここでは「私はやらない」と同義である。

 予備校時代、古文の授業で「十訓抄」という作品を習ったが、その中で、ある歌人が有名な歌人の歌をほめたのだが、その有名な歌人はそれにたいそう腹を立てる、いう場面が出てくる。
 なんで?ほめられたら普通うれしいんじゃないの?と思うのはごく一般的な、何もなしとげない人間の言うことである。
 自分のできないことをする者、つまり自分より上のものをほめるのは、よくないことである。相手にしてみれば「おまえごときに知ったふうにほめられたくはないわ」と思うのは当然である。
 私は思うのだが、「ほめる」ことと、「あわれむ」ことは、相手よりも高い位置に立つ行為だと思う。
 貧しい者が「かわいそうに」と言われて、喜ぶとでも思うのうか。(お前に何が分かる、何も知らないくせに)と私なら思う。
 それと同じに「えらいなあアイツは」というのは「僕にはできない(やらない)や」というのと同じであり、また、相手の行動を「えらい」と「えらくない」の二つに分類する、まことにおそまつな思考性だといわねばなるまい。

 「われ、その能ありといへども、人に許され、世に所おかるるほどの身ならずして、人のしわざをほめんとせんことも、いささか用意すべきものなり。」

 十訓抄の一節である。
 「たとえ能力があっても、人に認められ、世間に地位を築きもしないで、人のすることを褒めることは、ちょっと考えた方がよい」という意味である。

昔の人はえらいなあ。



1995.08/10

 今日考えたこと。
 低俗だとされるメディアのなかにも素晴らしい作品はあるし、逆に高尚とされるメディアのなかにも素晴らしくないものはある。
 ようするに、くだらない、くだらなくない、という善悪の二進法でそのメディア全体を計るべきでない、といいたいのだ。

〜中略〜

 まんがやアニメ、あるいは小説や音楽、という創作分野において、そのすべてが素晴らしいとはお世辞にも言いがたい。
 しかし、逆に全てが低俗な存在であるというなら、人間の文化の歴史の何割かを捨て去らねばならなくなる。
 小石を一握りつかんでも、その中の玉を探し出すには一つ一つを見てみるほかはないのである。

〜中略〜

 また、もうひとつ考えることは、一メディア内において、すばらしいもの、とすばらしくないもの、の両方が存在しなければ、そのメディアは発展しないのではないか?という点である。
 人間の社会は所詮、対比と学習の社会である。
 出来の悪いものを見て、それを反面教師として学習し、より良いものを生み出す。さらに次の者がそれを手本にして、さらに良いものを作り出す。そうして文化は発達してきたはずである。
 素晴らしいものに比べれば、それ以下のものは対比により「すばらしくないもの」になり、さらにそれ以下のものに比べれば、それは「すばらしいもの」にもなるのである。

 一つぶ一つぶ、甘さの違うみかんの、その一粒を食べただけで、すっぱいからと投げ捨てる、愚かな猿にはなりたくはない。


1995.09/22


永遠に終らぬ夏休みが欲しい。

それが棺桶に入ることでしか成就されないのなら、
我々はやはり時間に縛られた生き物なのだ。
レポートもゼミ論も、何もやってない・・・

1995/09/29


今日、自分は確実に「何か」をつかんだ気がした。
「Three 3」(総領冬実)は素晴らしいマンガだ。
これを読んだことで、音楽と自分の関係が、あらためて認識できたように思う。
大げさな言い方になるが、私はこれから自分が「何を背負って」生きていくのかが分かった気がする。
つきものが落ちた・・・といえばいいか。
ドラムにしろまんが、小説にしろ、自分らしくないことをしていてもしょうがないじゃないか。
ワクにはめようとしたり、人に良く見られるため「形」を気にしすぎる、ということは、結局、自分をだましている、と同時に相手をもだまそうとしていることになる。

まんが、というものが、時として人の精神にここまでの影響力をもつものだということに、あらためて気づかされた。
今夜は眠れそうにない・・・・
ようするに、「金では買えないもの」を私はつかんだのだ。

1995.10/18 

大学生は精神的浮浪者である。

何の目的ももたず、大学という塀の中で保護者の入園金のおかげで遊びまわれる、まことに気ままな人種である。
もちろん全ての人間がそうであるというわけではなく、中には真摯に学問に取り組むものもいれば、何らかの人生の目標を持ってそれに邁進するものもいるだろう。
しかしながらそうした「目的のある大学生」すら「精神的浮浪者」としての要素を少なくとも秘めているのである。
もしかしたら、高校生にもそれはありうるかもしれない。

これは私見であるが、じっさい教育制度のあり方を考えるとき、最低限度の知識と社会性を身につける、という点で小学校は必要かもしれないが、(目をつぶって中学校も許すが、親の教育がしっかりしていれば必要ではないと思う)高校、大学を「とりあえず」出ておくものとしてとらえている日本の制度の現状は明らかに間違っている。
難関の有名大学に合格して、鬼の首をとったように喜ぶ子供の親の姿は実に滑稽極まりない。
中卒よりも高卒、高卒よりも大卒が偉く、有能である、と誰が決め、判断するのか。
企業(とくに一流といわれる)の側にもこうした間違った制度を築いた責任の一端はある。
目的があり勇気に満ちた中卒の少年と、何の目的もなく四年間をのたくった大卒の青年と、一体どちらに可能性が秘められているのか。それを見分ける能力すら彼らにはないのだ。

かくして、我々の社会は地位あるつまらぬ人間たちが形成するつまらぬ社会と、目的ある希望をもった若者たちが苦汁をなめる社会、という二面性を持つに至ったのである。
大卒という一種のエリートたるステータスシンボルをいまだにこれほど重視する社会も、仮にも先進国と銘打たれた国では珍しいのではないか?
私にとって大学、高校という場所は今考えると、「これからの目的がわからない人間がとりあえず世間体を考えて通っている」というようなものでしかなかった気がする。

なんらかの目的があるものにとっては、そんな無駄な時間と金を浪費することなく、自己の進むべき道を歩んでいるはずである。
「精神的浮浪者」と私が呼んだのには、彼らがじっさいの浮浪者と同様、社会において自己の目的を見出せずにいる、という点からである。
浮浪者と異なる点といえば、彼らの親が「大学」というモラトリアムの保育所へ入れさせるだけの金を持っていて、
彼らには帰るべき家がある、という点である。きれいな身なりをして、耳に穴をあけてはいても、その中身は道路をさまよい、社会をただよう浮浪者なのである。

もし私が親となり、子供がなんらかの目的をもっているのなら、大学や高校に行かせる必要などはまったくないだろうと思う。
本人が、行きたいと思ったり、それらの場所での勉強が「目的の」ためになるというのなら、そうすればいい。
しかし、確固たる目的をもった人間ならば、わざわざ無意味などぶに足を取られようとは思うまい。

私のように、目的と自己を見出すための時間稼ぎに大学を利用したものも中にはいるだろう。
じっさい、その時間を得るためだけに親に金を出させたと思うと胸がいたまなくもないが、おかげで私は精神的浮浪者からなんとか脱出できたのだから、
それらが全て無駄だったというワケでは実はなかったのではないか。

頭に来ること、腹の立つこと
許せないことがあったとき
俺はドラムを叩く。

どうしようもないこと、
やりきれないこと、
悲しいけれど仕方のないことがあったとき
俺はドラムを叩く。

手足が疲れ、汗をかきながら
私は頭の中でつぶやく。

「俺はまだやれる」と

      

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